環の場合 9
「龍とも話したの?」
電話を切った円に悠が訊ねた。
龍の母からロールケーキのお礼の電話がかかってきたのだ。そこで円は龍が帰宅しているかきいてみた。もちろん、もし居たら代わってもらおうと思っていた。
龍の母は、帰宅している龍がなんだか落ち込んでいる様子だと、ケラケラ笑いながら伝えてきた。そして、何かあったの?ときいてきた。「何かあったというか何もなかったというか」と返事をすると、龍の母は「あらー振られちゃったのね。それとも結局…」というところで受話器を奪い取られた。「もしもし円?」と乱暴な口調で焦ったように話し出した龍の後ろで大笑いする龍母の声が聞こえてくる。円は笑いをこらえながら返事をした。
「おう。相変わらず、おばさんは楽しいな」
「うるさいだけだよ」
龍の声は不機嫌なままだった。龍母の声が遠くなっていくのが聞こえる。おそらく龍が移動しているのだろう。
「で、なんだよ」
「いや、環が気にしてたからさ」
「……え?」
「マズイこと言った、って」
「……ああ」
龍は嘆息するように声を出した。
「何? 母さんが初恋だったってことを環が知ってたのがショックだったわけ?」
「……じゃ、なくてさ」
ごにょごにょと、口の中でつぶやくような声が聞こえてくる。
「環がさ、どうも思ってないことは知ってたけどさ、なんか、改めて現実をつきつけられたってかさ」
「うん」
先を促すように相槌をうつ。
「なんか、結構勇気出して行ったからさ…」
龍はこんなウジウジ話すような男ではない。少なくとも円が知る龍は。
(父さんじゃないけど、なんで環がいいのかなあ…)
円は内心でため息をつく。それに感づいたようなタイミングで、
「いや、でもさ」
龍が気持ちを切り替えるように声を上げた。
「今まで、環に対してちゃんと伝えてこなかったなって思って!」
(……なんで、環がいいのかなあ…)
前向きな発言に変わったのを聴きながら、改めてそんなことを思ったのは内緒の話である。
「だからさ、ちょっと頑張ろうと思うんだけど。……いいか?」
「………」
円は言葉に詰まる。嫌というわけではない。ただ、どうしたものかと思ってしまったのだ。
――龍と環が付き合うのは、龍にとって本当に良いことなのか、と。
「って、別に円の了承を貰えなくても頑張るけど」
じゃあ、と言って龍は、円の返事を待たずに電話を切ったのだった。悠が声をかけたのはそのタイミングだ。
「うん。まあ、なんか大丈夫そう」
先程の龍の前向き発言を思い出して、苦笑しながら言う。
「環を必ず落とす、ってさ」
正確には、気持ちを伝えるために頑張ると言ったのだが、円は敢えて曲解して伝える。悠は、軽く眉を上げて感心したように「へえ……」と呟いた。
「なんでいきなり前向きになったんだかは判らないんだけどさ」
「龍も、思うところがあったんだろうね」
「にーちゃん、楽しそうじゃん」
円は、微笑んで言う悠に、にんまり笑いながら言った。
「楽しいからねー。父さんじゃないけど、龍ならいいと思ってるし」
さらりと躱して、振り返って鍋の蓋を開ける。もわっと湯気が立ち上がり、しばらくしてポトフの香りがキッチンに漂う。悠はお玉で鍋の中身をかるくかき混ぜ、火を止めた。
「もちろん、環次第だけどね」
振り返ってにっこり笑う悠の笑顔を、何故か怖いと感じた円だった。