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環の場合 7

(そういえば、あの時も龍ちゃんが助けてくれたんだなあ…)

 川辺の道を歩きながら、環は思い出す。

 小学校五年の頃だ。道端で転んでいるところで、通りかかった龍が助け起こしてくれたのだ。

 首輪もリードもつけていない犬に牙を当てられたのだ。といっても、犬のほうも恐怖心からハズミで当てただけで、大した傷ではなかった。環が転んでいたのも噛まれたからではなく、転んだことがきっかけで驚いた犬が牙を当てたのだ。ただ、環にとって、犬に牙を当てられたということがショックだった。ショックで、起き上がれないまま、先程まで犬がいた場所を見つめていたのだ。

 環は、犬で苦労したことが本当になかった。大抵の犬は、環にはしっぽを振るし、環の指示に従った。それは、彼女にとってとても当たり前のことで、疑うべくもないことだった。心配した母が、犬は人間とは違う生き物なのだ、知らない犬や飼い主が傍にいない犬には気安く近づくなとクギを指したほどに。ただし、その真意は環には伝わってはいなかった。犬が恐いということは、環にとってあり得ないことで、だから、母が心配しているのは伝わったのだが、わけの判らない心配をされている、と感じていた。感じていたから、母の言いつけを守ることは、疎かになりがちになっていた。

 そして、小学校五年の時に、噛まれたのだ。

 龍は少年野球のユニフォーム姿で自転車に乗ったまま片足をついて、驚いた顔で環のことを見ていた。犬に噛まれたことを知るとさらに驚いたので、説明をするために頭を動かして口を動かして、ようやく落ち着いたのだった。環のそばにしゃがんで話を聞いていた龍は事情を理解したところで立ち上がり、手を差し出した。とりあえず、足を洗いに行こう、と誘ってきた。傷口を洗うためだ。見たところ、確かに血は出ていないが、用心するにこしたことはない。本当はもっと早いほうが良かったのだが、環が落ち着くのを待っていたのだろう。犬への種々の対処方法は、環たち兄弟も、その友人たちも、園子から叩きこまれているのだ。

 公園の水道で足を洗って、ベンチに座って龍のタオルで足を拭いて、ようやく人心地ついて。その時になって、涙がこぼれた。龍はびっくりして、どうしたら良いか判らない様子でオロオロしていた。だが、環はそのまま手に持っていたタオルで泣き出した。多分、気が緩んだのだろうと、今の彼女なら言える。でも、あの時には説明のしようのない感情を持て余していた。犬への恐怖心と、裏切られたような気持ちと、龍の優しさと、母へのうしろめたさがごちゃ混ぜになって、心の中で暴れていた。

 ひとしきり泣いて、ふと気づくと、龍が隣に座って空を見ていた。

 じっと視線を向ける環に気付いたのか、龍も顔を向け、かすかに笑った。

 落ち着いたか、と彼は言った。環は頷いた。

 それ以来、環は犬に一線を置くようになった。改めて母に告げるのもためらわれ、だが怖がっている様子を見せるのもイヤで、犬を飼っている友人の家に遊びに行き、密かにリハビリをした。鉄子は怖くなくてもよその犬にはどうしても以前のような無条件の信頼を寄せられなかったからだ。犬たちはいつものように環に親愛の情を示し、環も以前と同じように接した。傍から見ても、環の気持ちの持ち方が以前と違うことに気付く者はいなかった。でも、明らかに以前とは違っていた。もしかしたら、母は気付いていたかもしれない。直接言われたことはないので、本当のところは判らないが。

(あの時、龍ちゃんが来なかったら…)

 環はふっと思う。龍が来なかったら自分はどうなっていただろう。

 おそらく、恐怖心を胸に抱えたまま帰宅しただろう。そのあとの気持ちがどうなっていたかは判らない。案外、そんなに変わらないのかもしれない。

 でも、龍が来てくれてよかったと、環は思うのだ。何も言わずに傍にいてくれてよかったと、本当に思うのだ。

(あ、龍ちゃんだ)

 前方から龍が自転車に乗ってこちらに向かって来るのが見えた。向こうも気付いた様子で、漕ぐ速度が速くなった。

「なんでまだそんなカッコしてんだよ…」

 環の横で停まった龍は訳がわからないといった様子で呟くように言った。

「帰ったら円ちゃんに追い出されたの」

 あまり細かいところまでは伝えられないので、おおざっぱに伝える。環も、川辺を散歩する装いではないことは気付いている。スカートの裾はひらひらするし、なにより寒い。円に追い出されなければ、せめてひらひらしないスカートを選んだだろう。いや、それ以前にスカートは止めるだろうが。

「……円のやつ、何を考えてるんだ?」

 眉間にしわを寄せ、龍はつぶやく。それから息を吐き、自転車を持ち上げて向きを変えた。

「散歩、付き合う」

「え? いいよ。おばさんのお使いの途中でしょ?」

 自転車のカゴには買い物用のバッグがあり、その中にパックの牛乳が入っている。

「そんなに急いでないから大丈夫。それより、そんなカッコでこんなところをウロウロしてる方が心配」

 龍はぶっきらぼうに言うと、前を向いたまま環の右側に移動した。川側から、自転車、龍、環、鉄子の順で並んで歩きだした。

 環は、つられるようにして歩きだして、その横顔を見つめた。

 ――俺が気にする

 昼間の駅前で龍が言った言葉は、実は環の耳にちゃんと届いていた。聞き返したのは、聞き取れなかったからではなく、その意を問いたかったからだ。

 今もまた、心配、と言う。

 その意を、龍の気持ちを――。

(八重ちゃんに言われて気付いたけれど…)

 龍の口から、ちゃんと。

「なに?」

 環の視線に気づいて、龍が顔を向けた。

 心臓が跳ねる。

 環は慌てて前を向いた。

「あ……あのね、さっき思い出してたの」

 顔が熱いのを感じながら、環は大慌てで話題を探した。

「何を?」

「昔、小学校の頃、龍ちゃんに助けてもらったな、って」

「……そんなこと、あったっけ?」

「うん。私が転んで、犬に噛まれて、龍ちゃんが通りかかって」

 説明すると、龍は「ああ」と頷いた。

「助けたってほどのこともないだろ、あれは」

 左手の人差し指で鼻先をカリカリと掻きながら答える。

 環は首を左右に振った。

「あの時、一緒にいてくれて、ありがとう」

 龍の視線を感じながら、そう言い切り、ゆっくりと顔を向けると目があった。

 環は照れているのを隠すように笑ってみせた。 

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