環の場合 6
河原まで来たところで、環はさすがに冷たい風に体を縮こまらせた。
(円ちゃん、寒い……)
自分を追い出して何をしようというのか。簡単に想像できるのがなんだか悔しい。
「うん、もう少し歩こうか」
立ち止まった環を鉄子が見上げている。それを見下ろして言って歩き出す。家から出てまだ一〇分。いくら年寄りになったとはいえ、もう少し歩かせたいところだ。
だが、着替えないままで出てきたので、膝上のミニスカートにタイツにマフラー、そして指の出ている手袋は、川辺を歩くには向いていない。ひしひしと実感したところで、前方から見知った人影が歩いてくるのに気付いた。
「鉄子、スーちゃんだよ」
声をかける前から、鉄子は既に気付いていたようで、水平だったしっぽがわずかに上がっている。足取りも微妙に弾んでいるが、歩くスピードは変わらない。
スーちゃんは、本名をスージーと言う。ミニチュアダックスの三歳の女の子でロングのブラック&タンだ。スーちゃんの飼い主さんは五十代の女性で、ちょっとぽっちゃりとした、おっとりした雰囲気を持っている。スーちゃんママさんも環と鉄子に気付いた様子で、手を小さく振って挨拶をくれた。
「寒いわね。環ちゃん、そんな恰好で大丈夫? 風邪ひくわよ?」
他人から見ても寒そうな恰好だと改めて認識し、笑顔を貼りつけた。
「出かけて帰ってきたところで、追い出されたんですよー」
正直に言うと、スーちゃんママさんは、あらあらと笑った。
その間、鉄子はスーちゃんのお尻のあたりをくんくんし、とりあえずそれで満足。スーちゃんは少し身を引くような感じで鉄子のお尻の方に鼻を向け、終了。
スーちゃんは、ちょっとビビりだ。馴れた相手なら普通にしていられるようになったが、見知らぬ相手や会って間もない相手だと、ママの影に隠れてやり過ごそうとする。基本的に大人しいが、家の中にいるとき、ドアチャイムに反応して吠えるのに困っていた時、園子がアドバイスしたことで、仲良しになった。今は、家の中では大人しく、家の外では以前より少しマシになった程度だが、スーちゃんママさんはこれで満足している。今の状態で誰かに迷惑をかけているわけでもないし、無理をするほどのことでもない、というのがその理由だ。
「ごあいさつ、エライねえ」
環はしゃがんでスーちゃんを撫でてやる。かすかではあるが、ちゃんとご挨拶できたことを、認めたことを伝える。撫でられたスーちゃんはちょっと嬉しそうに環のことを見上げた。
「環ちゃんは、本当に、自然に褒めるわねえ」
スーちゃんママさんは、感心したように言う。どうも、彼女にとって犬を褒めることは、結構難しいことらしい。
「だって、犬に子守りされてたんですもん」
環はおなじみの返事を返す。
オーバーでもなんでもなく、環は先代の茶子に子守りをされていた。茶子は兄たちにはそれほど関心を示さなかったが、環には初めて対面した時から寄り添うように傍にはべった。環が寝ていると添い寝をし、眼を覚ますと園子を呼びに行く。泣き出すとそばに座ってあやすように鼻先を寄せた。おむつを替えていると、汚れた部分をキレイに舐めとろうとし、母に「茶子ちゃん、ばっちい! こんなもの舐めたら病気になっちゃう」と止めたこともあるらしい。くすくす笑いながら茶子の思い出話をする母に、環と兄二人は引きつった笑いを返したのは余談だ。……まあ、それくらい何故か茶子は環にべったりと貼り付き、世話をやこうとした。そして、園子は実際に、茶子にできることは自由にやらせていた。結果、環は犬についてはほとんど勘で付き合えるようになった。
もちろん、それだけで褒めるタイミングまで会得はできない。そこは、母のやり方を見て学んだのだが。
「本当に、すごいわねえ。悠くんも、いろいろ詳しいわよね?」
「悠ちゃんは、ちゃんと勉強してるから、私より全然詳しいです」
環は勘で犬と付き合うが、悠は知識と経験と観察で付き合う。だから、環はアドバイスができないが、悠はできるのだ。
「そうよねえ。実はね、悠くんに訊きたいことがあったのよ」
スーちゃんママさんは、チラリとスーちゃんに視線を走らせ、右手を頬に当てる。
「スーが、最近、手足を舐めるようになって」
ふむ。と、環は頷く。これは悠の担当だ。
「じゃあ、悠ちゃんに伝えておきますね」
ここで詳しい話を聞いてもよいが、おそらく悠はもう一度スーちゃんママさんから話を聞き出すだろう。そのほうが、結局は早いのだ。それが判っているから、環は概要しか聞かない。スーちゃんママさんも知っているのでそれで了承した。
「ありがとう。いつも助かるわ」
にっこり笑ってスーちゃんママさんは歩きだした。環はそれを少しの間だけ見送って、散歩を再開した。