環の場合 5
環を鉄子と一緒に追い出して円がキッチンに戻ると、コーヒーの芳香が漂っていた。帰宅してきた妹に飲ませようと悠が用意していたものだ。
「父さん、飲むよね? あと、円も」
穏やかな笑顔だが半ば強制的に承諾させて、悠はマグカップにドリップしたばかりのコーヒーを注ぐ。
「ま、円の気持ちは判るけどね」
「だろう?」
「それは、私も賛成」
修が小さく手を挙げた。
返事代わりに、悠は苦笑を浮かべながら、二人の前にカップを置き、自分も手に持つと壁に寄り掛かった。
悠が担当しているのはポトフだ。あとは煮込むだけの状態なのでごく弱火にしてあり、目を離しても問題ない。鍋の様子をチラリと確認した後、父に視線を向けた。
「父さんもさすがに龍に同情?」
修はチラリと悠を見ると頷いた。
「環が帰ってくるまで、考えてたんだけどね。龍くんならまあいいか、くらいの心境にはなってたんだよ。いずれ嫁に出さないといけないのなら、ね。でも、環があれじゃあ、なんていうか、龍くんは本当にあんな子でいいのかなあ」
修は流しで手を洗って拭くと、大きくため息をついた。
「父さん、それは環に対してひど過ぎるんじゃないの」
とかいう円も苦笑している。
「まあ、龍は、環が龍の気持ちを知っているって気付いてなからさ、多少はショックも少ないとは思うんだけど」
「問題は、龍が、環の言葉を利用してアプローチできるような性格じゃないとこだよね」
「悠も何気に酷いね」
修は苦笑する。
「いや、だってね。龍が環のことを気にするようになって、もう六年くらい経つでしょ? その間、環の天然スルーにどれだけ泣いてたかよく知ってるからね」
「え? 龍ってそんな昔から環のこと? 母さんが初恋なのは知ってたけどさ」
「私は、園子さんに対してのは気付いてたけど、環にに対しては気付いてなかったな」
「父さん、それ…」
「よく照れずに言えるね」
悠と環は呆れながら父親を見る。
「そりゃあ、当たり前の話」
そう言う修は、ちょっと得意そうだ。息子二人は顔を見合わせて苦笑する。
環を含めて三兄妹は、父と母の仲の良さをよく知っていた。特に、父の母に対するあけっぴろげな愛情は、他の家の家族のことを知るにつれ、それがとても珍しいことだと気づいた。
だから、二年前に母が他界した時、三人が一番に心配したのは父のことだった。もちろん、母を亡くしたことは三人にとっても悲しいことではあった。だが、最愛の妻を失った父が悲しみの中に沈み這い出せなくなることを考えると、おちおち泣いてもいられない、という心境になった。母の病気が発覚し、余命宣告を受けた時も、葬式の準備でバタバタした時も、三人は折に触れそれについて話し合った。たまに、父と母の共通の知人も混ざって、結論の出ない相談をしたものだ。
が、母が息を引き取ったあと、父は泣いて、ひたすら泣いて、声を上げて泣いて、葬式の合間に思い出しては泣いて、そして初七日が明けるころ周り中が心配して見守る中、ふっと立ち直ったのだった。三人はそれを見て安心し、そこでようやく母が居なくなったことの喪失感を感じ、ようやく悲しみに浸れた。
三人は、父が母の生前と変わらぬあけっぴろげな愛情を感じさせる言動をするたび、少し呆れて、それから安心した。最近は、呆れ度のほうが大きい。三人が集まったとき、そんな話をたまにする。そのたびに、安心と呆れのほかにちょっとだけ羨ましさも感じていた。
「何度も言うけどね、愛情を示すことはとても大切なんだよ。特に園子さんのようなちょっと鈍感なタイプにはね」
大真面目な表情で修は言うと、ふいに押し黙り視線を泳がせた。
「そっくりだよね、わりと」
円が言うと、修はひきつった笑顔を顔に貼り付けたまま、息子たちを交互に見た。
「母さんと環ってさ」
――性格が、とダメ押しのように悠が補足した。