環の場合 4
「夜ごはん」じゃなくて「晩ごはん」なのは、作者の年代なんでしょうねえ…
「あ、環が帰ってきたみたいだよ」
悠がベランダの方を見て言った。
そこには、クッションの上に丸くなって眠る犬が一匹。頭を持ち上げて玄関のほうを凝視して、すっくと立ち上がった。
と、同時にドアの開く音がして、「ただいまー」という声がした。
「さすが、鉄子だなあ…。ってか、まだ三時半前だよ?」
たったかと弾む足取りで歩いていくシェルティの後ろ姿を見ながら円が呟く。
田崎家では、鉄子の先代である茶子を、今は亡き母の園子が嫁入り道具の一つとして連れて入ってからシェルティ(シェットランドシープドッグ)を飼っている。鉄子は、三兄妹がまだ幼い頃に保護団体からもらいうけた犬で、現在推定十七歳。全身黒い色で、目の上にうっすらとマロ眉があり、鼻先と胸と足先としっぽの先が白い。が、最近はその黒い色もなんとなく茶色っぽく褪せてきているようにも見える。見た目からして、随分と年をとったと判るようになってしまった。日中は、陽のあたっている場所で寝ていることが多くなり、めったなことでは起き上がらない。以前は、家族が帰宅すると必ず玄関まで移動して出迎えていたのに、最近では悠と環の時くらいしか起き上がらなくなった。
「てつこもただいま。ぽかぽかだね」
出迎えにきた鉄子を撫でたようだ。先程まで日向で寝ていたので、頭がポカポカと暖かいのだ。
修は野菜を刻んでいたのだが、焦ったように玄関のほうを向いて、それから手元に視線を戻してソワソワしている。そこへ、「龍ちゃんも一緒だよー」などという声が響いたものだから、さらに焦って、手に持っていた包丁をまな板の上に落としてしまった。
(あーあ…)
その様子を円は同情しながら眺めていた。もちろん自分も、そしておそらく悠も、龍以外の男相手なら、おそらく父と似たり寄ったりの状態になるだろう。龍が相手だから、気楽に構えていられるとも言う。緊張して、きっと環に対して何もできないだろう龍だから、だ。
「え、いいじゃん。円ちゃんがきっと何かケーキ焼いてるよ? 一緒にお茶しようよ。せっかく何も食べずに帰ってきたんだし」
玄関では環の声が聞こえるが、未だ中に入って来ようとはしない。なにやら、龍と言い争っているようだった。
「円」
苦笑しながら悠が弟の名を呼ぶと、円も苦笑しながら小さくうなずいて立ち上がり玄関のほうへ向かった。
龍とは家族ぐるみの付き合いだが、一番親しいのは円だ。助け船を出すにしろ、帰る龍を見送るにしろ、顔を出したほうが良いとの判断だ。
「あ、円ちゃん、ただいま。ポイントありがとう! 映画、面白かったよ……って、龍ちゃん、なに帰ろうとしてるの」
どうやら、龍は帰ろうとしているらしい。
「龍」
円が名を呼ぶ。
「ちょっと待って。小母さんにロールケーキを持って帰って」
どうやら龍は立ち止まったらしい。
「うん。龍はいらないかもしれないけど、いつもお世話になってるから、俺から小母さんに渡したいの。ちょっと待ってて」
龍がなにやら文句を言っているのは聞こえるが、円はさっさとキッチンに戻ってきて冷蔵庫を開け、用意しておいた紙袋を取り出し、玄関へととって返した。
「じゃ、これ。今日は環のエスコートありがとうな」
どうやら円は龍を返すことにしたらしい。
「龍ちゃんに上がってもらったらよかったのに」
ドアが閉まる音がして、環の不満そうな声が聞こえる。
はずむような鉄子の足音も聞こえてきて、円、環、鉄子の順でキッチンに入ってきた。
「まあ、いいじゃん」
円は苦笑しながら言う。
環は荷物をリビングの入口に置きに行って、ふっと首を捻った。
「ん? ちょっと待ってね?」
そのまま洗面台へ移動しかけて足を止める。
「ロールケーキをお土産に渡したってことは、龍ちゃんが来ることを知ってたんだ」
円は、環から見えない場所で視線を上に向けて苦笑した。
「まあね。ほら、とっととウガイと手洗いして」
しっしっと、手を追い払うように動かす。環はちょっと頬を膨らませたが洗面台へと移動した。
その様子をしばらく振り返って見ていた鉄子は、窓際の定位置へと戻っていく。
修は小さく息を吐いて、まな板の上に転がる包丁を手に取り、作業を再開し、悠がコンロにヤカンをかけたところで、環がキッチンへ戻ってきた。
「むー」
唸りながら円を睨む。しばらく睨んでいたが、円が素知らぬ顔を通しているので、ため息をついて肩をすくめた。
「判った。その話はあとでね。…あのね、龍ちゃんにちょっと悪いこと言ったなって思ってね。円ちゃんと話をして気を紛らわせて欲しいなって」
環は円から視線をそらして泳がせる。
「………」
(「あとで」かい! てか、何を言ったんだ?!)
円はちょっと驚いた表情をし、視線を合わせようとしない環を見つめる。
「何を言ったんだい?」
コーヒーの準備をしながら、悠が訊ねた。
「えー?」
頭を掻きながら言いよどむ様子をしばらく見せ、環は小さく息を吐く。
「龍ちゃんの初恋はお母さんだったよねって、ぽん、と口をついて出ちゃってさ…」
その瞬間、円が吹き出し、悠は視線を上に上げ、修は目を見開いて環を見つめた。
「いや、だってね! 八重ちゃんが、龍ちゃんの気持ちを知ってるのかとかって言うから!」
顔を赤くしながら環がさらに続けると、円は声を上げて笑いだし、悠は明後日の方向を見て、修はため息をついた。
「そりゃ、言われたくないよな…」
と呟くように言ったのは修だ。
「もう! 円ちゃんたら笑い過ぎだって! 一応、私だって後悔してるんだから。映画が始まる直前に言って、終わってからはもう、龍ちゃんたらどんよりしちゃって…」
それからしばらくして笑いがおさまったところで、円は環の肩をポンポンと叩いた。
「そっちは、あとで電話でも入れておくから。とりあえず反省して、鉄子と散歩でもしてこい」
「え? でも、晩ご飯の用意は?」
「三人もいれば大丈夫だし、帰ってきてから手伝ってくれたらいいよ」
環は父と兄二人を順番に眺めてから、小さくうなずいた。