環の場合 2
「ただいまー」
円がリビングに入ってきて、カバンを入口に置くとそのまま洗面台の方へ向かった。その背中を見て、他に足音もせず姿も見えないことを確認して、悠は軽く首を傾げた。ウガイの音と水の流れる音が聞こえたあと、円が再び姿を現した。時計を確認すると、午後一時過ぎ。
「今日は環と映画に行くって言ってなかったっけ?」
「あ、それね。龍と代わった」
「………へえ…」
悠は軽く眉を上げて先を促した。
「今のまんまじゃ、環は絶対に気付かないだろ? 一回くらいは親友のほうに力を貸そうと思ってさ」
「それは……龍のことを侮ってるんじゃないの?」
などと言いつつ、悠は笑っている。
「コーヒー入れようか。クッキーとロールケーキ、どっちがいい?」
クッキーもロールケーキも円の作ったものだ。どちらもプレーンなタイプ。円は腹具合を確認して、クッキーを選んだ。
「で、コーヒーじゃなくて、ダージリンがいいなー」
バターのたっぷり入ったクッキーには、香りの高い紅茶が好みなのだ。
「了解」
悠は笑って立ち上がりキッチンへと移動する。
「で、環はぜんぜん気付いてないの?」
「どうだろ。鈍いっていうより、龍がふがいないって感じだからなあ」
円の小学校時代からの友人の龍は、一つ年下の妹である環のことを好きらしい。「らしい」などではなく、断言してもよいとは思う。本人は、環の前ではそれを必死に隠している。が、環から見えないところでは、その言動に百面相状態で、周囲の人間には丸わかりだ。
「まあ、幼馴染状態が長いから、なかなか切っ掛けがないんだろうね」
悠はヤカンを火にかけながらしみじみと言う。
それをリビングのほうから首を伸ばすようにして見て、円は口元に笑みをたたえた。
「悠ちゃんはさ、どうやって幼馴染状態から抜け出したの?」
円は、兄のことを「ちゃん」付けで呼ぶ。亡き母がそう呼んでいたのを真似したのが始まりだ。
ティーセットを取り出しながら、悠は頭だけ見えている円に笑いかけた。
「ないしょ」
「ちぇ。けちー」
円はあまり残念ではなさそうに言う。
悠は悠で、環の同級生の八重と今年の春から付き合い始めた。環と龍同様幼馴染である。この二人の場合、八重はもしかして悠のことが好きなのかも?と思うことはあったが、悠のほうの気持ちはさっぱり判らなかった。それがイキナリ付き合うと言い出したのだから、とんでもなく驚いたものだ。
(ま、そのうちにねー)
次の機会を狙うことにして、円は気持ちを切り替えた。
「まあそれでさ、せめてもうちょっと龍を本気にさせようと思ったんだよ」
悠が戸棚から紅茶の缶を取り出して作業台の上に置いところで、お湯がちょうど沸いたのでティーポットに注ぐ。ヤカンの蓋を開けてお湯の残量を確認して、水道から少し水を足した。このアタリは目分量だ。
「ただいまー」
そのヤカンを再び火にかけたところで現れたのは、父である修だ。
「あれ? 今日は仕事どうしたの?」
朝は普通に出勤したはずだ。
「いや、実は今日はもともと休みでね。円と環が映画に行くって言うから、午前中だけ出ることにしたんだよ」
修は、ネクタイを緩めながらふっとリビングにいる円に目を止めた。
「円?」
「おかえり。環なら、龍とデートだよ」
「え?!」
ネクタイを緩める手を止め、円の顔を凝視する父を、悠は内心驚きながら見ていた。
やはり、娘というのは何よりも大切だということなのだろうか。環は父親に似ているが、もし母似の容姿だったことを考えるとちょっと恐い気もする。
(父さん似でよかったな…)
心の中で妹に呼びかけたところでお湯が沸いた。
「龍があまりにも不甲斐ないから、映画を一緒に観に行かせたんだって」
円の代わりに説明をしながらコンロの火を弱火にして、ティーポットの湯を捨て、茶葉を入れる。
「龍なら大丈夫だって」
円は言うと、よっこらしょ、と立ち上がってキッチンへと移動してきた。
「父さんだって、龍のことはよく知ってるじゃない」
「いや、そりゃ知ってるけど」
修は動きを再開して、カバンをリビングの入口の円のカバンの横に置き、作業台のそばへと近づいた。
「でも、二人っきりで…」
「いいじゃん、いつかは嫁に出すんだし。どこの馬の骨か判らないヤツより、龍のが安心だって。とりあえず、龍はきっと何もできないしさ」
円の意見はあくまでも能天気だ。
「円と一緒だと思ってたから、心の準備が…」
修は落ち着きがない。リビングの入口まで戻って用もないのにカバンを持ってくる。
「父さん。これがどこの馬の骨か判らないヤツだったらどうする?」
円は真剣な表情を作って言った。
「え、いや、そりゃあね」
「龍なら安心だろ? 初デートが龍なら心の準備もできるしさ」
「まあ、そう、なんだけどね」
ふらふらと、再びカバンをリビングの入口まで置きに行く。
「はあ…」
「まあまあ、落ち着いてよ」
円は修をキッチンの隅においてある椅子に座らせた。
「環はきっと夕方には帰ってくるよ。だからそれまでに、クリスマスのディナーの用意をしておこう?」
「そうそう」
悠も笑いをかみ殺したような表情で円に同意し、修にティーカップを差し出した。そして、手の届く位置に、クッキーの缶を蓋を開けて、置く。
「父さん、熱いから、気を付けて」
「あ、ああ」
修はカップをそっと口元に運ぶ。……が、上の空のまま焦点が定まらない瞳の状態では、案の定、注意が足らず。
「あつっ」
慌ててカップを口から離す。中の液体は揺れたが、そんなこともあろうかと悠が少な目に注いでいたので、こぼれずに済んだ。
液体の揺れが落ち着いたところで、修は大きく深く息を吐いた。
「そうだね。環が帰ってきたら美味しいごはんが食べられるように、用意をしようか」
なんとか前向きなセリフを吐き出しはしたが、瞳の焦点は未だ定まってはいなかった。