バレンタイン・チョコケーキ
「あ、美味しい!」
環はにっこり笑った。瑠菜の反応は素直で、見てて嬉しくなる。
「これ、円さん?」
右手に持ったチョコレートブラウニーを瑠菜は軽く持ち上げた。
「違う違う。それは私が作ったの。円ちゃんが作ったのはこっち」
と、小さな紙袋をテーブルの上に載せる。
ここは、環が最近お気に入りのコーヒーショップだ。円のコーヒーとはまた味が違うが、なかなか美味しくて、瑠菜と二人でよく利用している。また、店主がこだわっているのがコーヒーのみで、菓子類に力を割く気が毛頭無いらしく、食べ物は持ち込み可というのも、気に入っている理由の一つだ。
だから、今日は明日のバレンタインデーを前に、チョコレートケーキを楽しむためにやってきたのだった。女二人で、という部分は、二人とも気にしていない。
「環ちゃんも、お菓子作るんだ」
「うん。私と悠ちゃんは簡単なものだけ作るんだ」
「え?」
瑠菜は驚いて、チョコレートブラウニーをまじまじと見る。
「これ、簡単なの?」
「うん。簡単」
このチョコレートブラウニーは、しっとりとして、甘いけれど甘すぎない、ナッツ類が香ばしくて、チョコレートの味が濃厚な、焼き菓子だ。レシピは、母の残したもので、チョコレートも、板チョコが何枚とか、ナッツ類数種類○グラム以上とかアバウトだが、とにかく美味しい。円曰く、母のレシピが美味しいのではなく、そういうお菓子なのだろう、とのこと。ちなみに、円が作ると、質が一段上がる。家庭的で間違いなく美味しいものが、どこかのお菓子屋さんで売られているような上質なものになる。おそらく、家庭料理の延長で作るのと、まじめに菓子作りを究めようとしているのとの差はそこなのだろうと、環は思っている。
「そうかー。で、こっちは?」
瑠菜はもぐもぐと、残りをすべて食べて、テーブルの上に載せられた紙袋を覗き込む。
「ココアロール、バレンタイン・デー・スペシャルバージョン、だって」
紙袋の中に入っていたのは、コンビニのスイーツのように、透明なプラスチック容器に入ったケーキだった。しっかりと、保冷剤も入っている。
「すっごい、きれい…」
瑠菜はそっと取り出して、角度を変えながらしげしげと眺めた。
厚めに切ったロールケーキで、中心はチョコクリーム、それ以外は白いクリームが巻かれている。トップには飾りのようにホイップクリームが絞り出されていて、その上に削られたチョコレートが飾られていた。
「円ちゃんは、凝り性だからねえ」
瑠菜が見ている間に、環は可愛らしい白い皿とフォークを取り出して、テーブルの上に置く。
「はい、それ開けて」
「え?」
いつの間にやら、ケーキさえ載せてしまえば、普通のカフェメニューになるような状態になっている。
「……なるほど…」
瑠菜は納得したように、ケーキをテーブルの上に置いて、丁寧に蓋を開けた。
「あ、待ってね、そこからは私がするね」
と言って、ケーキトングを取り出す。
「……環ちゃん?」
さすがに瑠菜も驚いたようだった。
「円ちゃん、凝り性なのよ…」
そう言いながらも、環は別に嫌そうでもなんでもない。ごく普通にトングを扱っている。瑠菜は思わずそっとあたりの様子を窺った。割と多めの客席の大半が埋まっていて、その半数くらいが環に注視をしている。
なんとなく気付きつつも無視をして、環は皿にケーキを載せて、フォークもしっかりと添えた。
「どうぞ」
環はケーキトングやプラスチックケースはビニール袋に入れて、いつの間にやら取り出した大き目の紙袋の中に突っ込んだ。テーブルの上をキレイにすると、まるで、普通のカフェメニューのように見える。その瞬間、かすかなどよめきが伝わってきたように感じた。が、環は、まあ仕方ないことだと気にしないことにする。そんなことを気にしていては、母の娘などできなかったのだ、というのは、家族にしか通じない話ではあるが。
「………」
「す、すごいね」
「まあね。どうせ食べるならって、円ちゃんが用意してくれたのよ」
「えっと、それだけじゃなくて…」
よく、円のセッティング通りにこんな公共の場で環もできるな、ということらしい。
「うん、だって、どうせならキレイな状態で食べたいじゃない? ブラウニー程度ならビニール袋に入ったままでもいいけど」
環はにっこり笑ってみせる。恥とか外聞とか、言う人はいるだろうが、他の人に迷惑をかけるわけでもないことには彼女は興味を持てない。というか、そう母に教えられた。
もしここに、山ほどのケーキを持ってきて五時間もコーヒー一杯で居座るようなことをするのなら、それは間違いだろうと、環も考える。
周りをのことを考えずに大声で話すのも違うだろう。
これはあくまでも、自分が座っているスペース内で、ゆっくりお茶を飲むためのセルフセッティングの延長で、その範囲内に収まっていると思っているからこそできることなのだ。
「はいはい、コーヒーが冷めないうちにどうぞー」
とは言いつつも、先にブラウニーをつついていたので、実はコーヒーは結構冷めてきているのだが。
「う、うん…」
瑠菜は気圧されたようにフォークを手に取って、端のほうを小さく切ると、それを刺して口に運んだ。
とたん、ふわりと幸せそうな顔になる。
「……これ、」
「ふふふふー。美味しいでしょー? 円ちゃんのココアロールは絶品なのよー」
瑠菜が「美味しい」という言葉を飲み込んでしまうほどの味を、環は前日に味見をして知っている。思わず、これを定番にすべきだ!と円に言ったのだが、次兄はそれは違うと言い切った。何が違うのかは判らないが、どうやら円の理想とは違うらしい。
普段のココアロールは、チョコクリームは使われていないし、トップにホイップや削ったチョコレートは載っていないし、オレンジの香りも、スペシャルバージョンほど強くもない。むしろ、それなら今回はどうしてこんな味にしたのかを訊きたいくらいだ。
「あぁ……、食べると減っていく…」
そんなことを呟きながら、瑠菜はどんどん食べていく。気持ち良いくらいの食べっぷりだ。環も時折コーヒーを楽しみながら食べていった。
「……はぁ…」
瑠菜はフォークを置いて、コーヒーカップを両手で持って口をつけた。
「なんでこんなに美味しいんだろう…。環ちゃんのせいで、最近、普通のケーキ屋さんのケーキじゃ満足できないよ…」
椅子の背もたれに背中を預け、カップを両手で持ったまま、瑠菜は呟くように言う。
「大げさなー」
「全然大げさじゃないよ。シフォンケーキなんて、好みのケーキ屋さんのものが無いんだから! チーズケーキだって…。……あ、イヤなことに気付いた。もう、ココアロールもダメなんだ」
環は笑った。
「円ちゃんの味が、岬ちゃんに合って良かった、ってことにしとく」
「幸せなのか不幸なのか判らない…」
「あははははー」
「笑いごとじゃないってば!」
拗ねたように言う瑠菜に、環はそうだよねえと暢気に返すのだった。
―END―