犬とコーヒーとケーキ
2014.1.25ちょいと修正しました。(書き始めの時には微妙に悩んでた環の年齢設定部分と、瑠菜の呼び方部分)
「あ、ねえねえ! 田崎さん!」
呼ぶ声に、友人の田崎環は足を止めた。
聞いたことのある声だが、すぐには誰と思いつかない、その程度の相手だと見当をつけ、瑠菜も振り返る。
小走りで軽く手を振りながら近寄ってくる彼女は、確か、何かの同じ授業を選択している女子だ。としか思い出せない。
心配そうに瑠菜が見つめると、それに気づいたのか環がちらっと笑顔を向けてきた。
「良かった、間に合って」
軽く息を整えて、走ってきた彼女は少し媚びるような顔を環に見せた。
そう言えば、最初の声も少し媚びた調子だったな、と瑠菜は思う。
「あのね、週末に合コンあるんだけど、来てくれないかな?」
もちろんと言って瑠菜のことも誘う。
「いてくれるだけでいいんだ」
ああ、と瑠菜は思う。人寄せパンダか、と。
環はなかなかの美人だ。黙って座っていてくれるだけで良いと、誘われることが多々ある。瑠菜が環と知り合って半年ほど経つが、その間に知っているだけで十回はある。
「ダメ?」
「週末って土曜日?」
「ううん。金曜日」
「あ、じゃあダメだ。ちょっと用事があるんだ」
「え?」
彼女は断られると思ってなかったというように驚いてみせた。
「男の子たちかなりレベルが高いんだよ?」
「そっかー。でも残念。外せない用事なんだ」
「……ちなみに、どんな用事なの?」
さして興味を持ってないだろうに、彼女は聞いてきた。一体その情報をどう処理しようというのだろうか。瑠菜は不思議に思う。
「うん、うちの犬がワクチンをうつからね」
環が言った瞬間、彼女の顔がポカンと間の抜けたものになる。
「様子を見ておかないとダメなんだ。金曜日の夜はほかに人がいないから」
まるで自慢するように、環はにっこり笑って言ったのだった。
カフェのテーブルに、環はつっぷしていた。
「災難だったよね」
同情するように、でも、くすくす笑いながら瑠菜は言った。
「うん。この顔に産んだかーさんをかなり恨んでる」
つっぷしたままで答える。
「たいていの場合、中味を知ったら引いていくのになぁ…」
さすが、客寄せパンダ扱い。
環は小さくため息をついた。
「だって、環ちゃん美人だもん。中味まで知らない人は大勢いるし」
大学に入ってから知り合った友人だが、瑠菜は環のことをよく知っていた。
「特に他校の男の子たちはそうなんじゃない?」
「………」
同意を示したくはないが、同意見だった。
「きっと、環ちゃんが来るなら行くって言う人が多かったんだよ」
「迷惑だ…」
そう呟いたところで、頼んだコーヒーがやってきて、環は上体を起こした。
店員は何事もなかったかのように、ホットコーヒーを二つとチーズケーキを置いて去っていく。チーズケーキを頼んだのは瑠菜だ。
環は、カップに手を伸ばして口元に運び、香りを嗅いだ。そして、そっと上澄みをすすったところで、がっくりと肩を落とした。
「……環ちゃん?」
「美味しくない……」
環は瑠菜にだけ聞こえる声で呟いた。
「え、そう?」
瑠菜は手を伸ばしてコーヒーを口に含む。わりと美味しいほうだと瑠菜は感じる。
「……そうかな?」
「今の私には、美味しいコーヒーが必要なのー」
世にも情けない顔で、環が言う。
一応この店は、全国チェーンのコーヒー専門のカフェだ。好みの味でないということもあるだろうが、チェーン店に極上の味を求めるのも酷というものだろう。
「……そんなに疲れたの?」
瑠菜は、カップを置くとチーズケーキに手を伸ばす。
「うん。…疲れた」
瑠菜は、先程の環と彼女との会話を思い出す。
あの話が原因だろうとは思うのだが、瑠菜には判らない。
「犬の話は悠ちゃんの管轄なんだもん」
「悠ちゃんって、上のお兄さんだっけ?」
拗ねたように環が言うのを、話す方向へ誘導してみることにする。それで環の気が多少でも晴れるのなら、安いものだ。
「うん。私は、おおざっぱにしか理解してないし、犬について啓発活動をするつもりもないからさ」
と、環は何度目かのため息をついた。
瑠菜は考えてみる。確か、環の顔色が変わったと思った時があったのだ。
「様子を見ておかないとダメなんだ。金曜日の夜はほかに人がいないから」
と言った環に、彼女は
「え? ワクチンっていつうつの?」
と聞いてきた。
「金曜日の午前中に、兄が連れていく予定なの」
「なら、大丈夫よ、うちなんて、その日の夜には普通に過ごしてるもの」
どうやら、彼女の家にも犬がいるらしい。
同じ犬飼い同士ということで、お近づきになろうとしているのだろうか。
「うちの兄が…っていうかもともとはうちの母が、ワクチンの接種をした場合の副反応は、早いものは一時間以内に、遅いものはうってから一日は様子をみないとダメっていう方針でいるの。だから、次の日が休みではない金曜日に接種するし、安静に過ごせるように、接種した晩はちゃんと見ていられる距離で過ごすことにしてるんだ」
軽く頭を横に振ってからそんなことを話し出す環に、彼女は一瞬唖然としながらも、「そうなの。知らなかった! 今度からうちもそうすることにするわ」と言い出した。そして「それなら、合コンの参加は諦めるしかないね」と言ってくれた。
だが、彼女はまだ引き下がるつもりではなかったらしく、
「ところでさ、田崎さんの家って犬を大切に飼ってるのね。犬種はなに?」
そんなことを訊いてきた。いかにも犬好きな興味の持ち方ではないその言い方をしていたが、瑠菜が見る限り、環の機嫌は少しだけ悪いほうへと移行していた。
「シェットランド・シープドッグ、って、判る?」
ほとんど期待をしていない様子で、環が犬種名を挙げる。瑠菜は何度か聞いたことがあるので、もうどんな犬かは知っていた。
「……? ごめん、判らない。そんなに有名じゃないよね?」
が、彼女は知らなかったようだ。
瑠菜自身も、言われた時にはピンとこない犬種名だったが、見たらよく見たことがある犬種だと思ったのを覚えている。
「多分、見れば判るよ。コリーの小さいの、って言えば判る?」
「コリーって、フリスビーとかする…?」
「ううん、それはボーダーコリーだと思う。……名犬ラッシーって判る?」
そこで彼女はようやく思い至ったという顔をした。
「ああ、あれ」
「うん。あれの、小さいサイズのいるの。まったくの別犬種なんだけどね」
「……へえー」
「シェルティって愛称もあるんだけどね。日本でも、名犬ラッシーが流行った大昔に、ちょっと流行ったらしいよ。ラッシーは大型犬だけど、シェルティはコリーよりも小型だから、狭い日本の家でも飼いやすいって」
「……へえー」
彼女の返事が、少しおざなりになってきたのを見て、ちらりと環のことを観察すると、その様子を歓迎しているようだった。次の彼女のセリフを聞くまでは。
「…田崎さんて、犬が好きなんだね。なんか、うちのチビたちも大切にしてくれそう」
ぴきん、と音がしたような気がした。温度も心なしか冷たくなったように感じる。
「ねえ、良かったら、一匹貰ってくれない? トイプードルなんだけど。田崎さんみたいな犬を大切にする人になら、お願いできるわ。うちのモモちゃんが産んだんだけど、貰い手がいないの。小さいから、一匹増えたってそんなに変わらないわよ。小さいから散歩だってさせなくても大丈夫だし」
環の様子がおかしいことに気付かないのか、彼女はそうまくしたてると、にっこり笑った。
はらはらしながら瑠菜は環の様子を窺う。
なんだかものすごく時間が経っている気がしてきたところで、環が口を開いた。
「あ、ごめんね。犬のことはうちの兄にしか権限がないんだ。私が決められないの。それに多分、どっかの保護団体から、成犬のシェルティを貰ってくると思うし」
「え? どうして? 子犬からのほうが可愛いじゃないの。よく懐くし」
ぴきぴきぴき。瑠菜の耳にはそんな音がしたように聞こえた。おそらく空気の凍る音なのだろうと、瑠菜は思う。
「うん。そのあたりは兄にきかないと判らないけど。…シェルティなのは、シェルティのことはよく調べたから、困った時に対応しやすいから、なんだって。だから、ごめんね。気持ちはありがたいけど」
「ふうん……田崎さんのお兄さんって変わってるのね」
「うん。そうかもー」
(ああ、もうやめて!)
という瑠菜の思いが通じたのか、彼女はそこで話を終わりにしてくれたのだった。
そして、今に至る。
(わかった。あの時だ。子犬を貰ってって言ってきた時だ)
それまでの環の対応は、面倒そうではあったが、怒ってはいなかった。
思い出したはいいが、その何が環を怒らせるのかが判らない。怒っただけでなく環は行儀が悪いことにテーブルに右頬をつけたまま、瑠菜を見上げていた。
見た目に反して気持ちにきわめて正直な性質の環ではあったが、ここまであからさまに怒りを表に出すことはほとんどない。少なくとも、出会ってから半年の間にはなかった。
なにが環にそうさせるのか。瑠菜には不思議でならなかった。
「チーズケーキ、一口食べる?」
「……」
環は、瑠菜をじっと見つめてきた。見ようによってはケーキを寄越せと懇願するようにも見える。
思わず、一口大にカットしたのを環の口の中に入れてしまおうかと、瑠菜は思ったがやめた。
「……円ちゃんのケーキが食べたい…」
瑠菜は、こりゃダメだ、と心の中で呟いた。
「岬ちゃん、これからヒマ?」
ぬうっと、上体を起こし、真剣な顔でそんなことを環は言う。
「えっと、ヒマ、だけど…」
「奢るから、場所変えよう」
「え? ヒマだけど、これ以上食べるのは…」
「大丈夫大丈夫」
コーヒーしか頼んでいない環は、さっさと残す決意をして立ち上がる。が、不味いとは思っていない瑠菜はまだ半分以上残っているチーズケーキは食べ残したくないのだ。
「や、待って! これ食べるから!」
「もーう、仕方ないなあ…」
腕組みをして、軽く首を傾けて言う環は、少し元気になったようだった。が、なかなか迷惑ではある。
瑠菜は大慌てで口の中にケーキを押し込んだ。
環が連れて行ったのは、先ほどのカフェから一〇分ほど離れた場所にある、喫茶店だった。
カフェというより、喫茶店というのがよく似合うような姿の店なのだ。
カランと音のするドアを開けて中に入ると、カウンターの中の男性が顔を上げながら「いらっしゃいませ」と声を上げ、続けて「環」と、声をかけてきた。
環は、店内に誰もいないことを確認してから「円ちゃん、コーヒーとケーキ食べさせて!」といきなり甘えた声を出す。
環の背後でドギマギしている瑠菜は、小さく苦笑した彼が自分の目をとめて小さく会釈するのに気づき、慌てて頭を下げた。
「環、そこ邪魔だから入って。それから、後ろの彼女はお友達? 君はなににする?」
「あ、はじめまして。岬瑠菜と言います。環ちゃんには、仲良くしてもらってて…」
瑠菜は、環が「あ、そっかそっか」と店内に入っていなくなったので、再度丁寧に頭を下げた。
「うん。妹が迷惑をかけてるだろうけど、よろしくね」
にっこり笑う彼は、あまり環とは似ていない。キレイというよりは、可愛い感じの、爽やかな青年だ。
「あ、それで、あの、私はもう食べてきたので、何か軽いケーキ、ありますか?」
訊かれていたことを思い出して瑠菜は慌てて言う。環がこれほどまでに食べたがっているケーキだ。食べないという選択肢は瑠菜にはなかった。と、円が吹き出した。
「ゴメンね。きっと、どっかで食べてて美味しくないから移動しようとか言いだしたんでしょ?」
「あ、ええと…」
あまりにズバリな言い当てかたに、瑠菜は目を泳がせた。
「あははは。いいよ、気にしなくても。コーヒーでいい? ケーキは適当なのを持っていくから。あ、ちなみに、何を食べてたの?」
「チーズケーキです」
コーヒーで良いと頷いて、返事をすると、彼は「チーズケーキね」と繰り返して、さっさと席についてる環を指した。
瑠菜は小さく頭を下げてその席へと進む。環は窓際の二人掛けの席について、テーブルに突っ伏していた。どうやら、少し残っていた元気も使い果たしてしまったようだった。
「……」
瑠菜は少し迷っていた。
正直なところ、なぜここまで疲れているのか訊いてみたいが、環に訊くのは躊躇われるのだ。
「犬はさ、余ってるんだよ」
ぽつりと、テーブルに突っ伏したまま、環は言った。
「え、」
「犬はね、年間四万頭くらい、殺処分されてるの」
「環ちゃん、いいよ、無理しなくても。あ、もちろん聞きたいよ? でも…」
瑠菜は慌てて言う。
「うん。あのさ、嫌じゃなかったら聞いて欲しい」
言いながら、環は上体を起こした。そこへ、円が水とおしぼりを持ってくる。
「あ、円ちゃんありがとう」
「あんまり友達に迷惑かけるなよ」
「はーい」
「ごめんね、犬バカな一家なんだよ」
申し訳なさそうに言う円に、瑠菜は小さく首を横に振る。
「いえ…」
とは言ったものの、言葉は続かない。瑠菜は別に犬に興味はない。知りたいのは環の気持ちなのだ。
「うん。ありがとうね」
言い淀んでいる瑠菜に、円はにっこり微笑んで去っていく。
「惚れてもいいけど、私はとりもったりはしないから、がんばってね」
去っていく円の後ろ姿を思わず見つめていると、環がそんなことを言いだした。
「え? ちょ、なにそれ」
瑠菜は慌てて声を上げる。
環は別段気にしてるふうもなく、軽く肩をすくめる。
「割と昔から、悠ちゃんも円ちゃんもモテてたから、よく紹介して欲しいって言われてたの。でも、紹介したら、今度は仲を取り持って欲しいって、協力して欲しいって言われるのよ。一応、引き合わせるところまでは協力するけど、そのあとは自分で頑張れって思うのよ」
「私のお兄ちゃんを取らないでよ!とかはないの?」
「……ないなぁ…。まあ、悠ちゃんはもう彼女いるし、そこは好きにしたら良いと思うんだ」
「……へえ…」
今までの環の言動から、もっと兄弟にべったりなのだと、瑠菜は考えていた。が、環の言葉には気負いが感じられないし、どうやら本気らしい。
「ってことで、もうお知り合いになったんだから、あとは自分でどうにかしてね」
「環ちゃんて、もっとお兄さんにべったりかと思ってたわ」
瑠菜は思わず言葉にしてしまった。
「えー? そうかな…。なんでだろう…」
それは、ことあるごとに兄の話を出すからだろう、というのは黙っておくことにする。
「ま、いいや。それで、犬の話」
環は頭を切り替えたらしく、さくっと話を変えた。真面目な顔で瑠菜を見据える。
「年間約四万頭ってことは、一日に約一〇九頭。一県では一日に二頭ずつ殺処分されてるの」
「……年間四万頭って、それ増えてるの?」
瑠菜はふと思いついたことを訊いてみる。
「ううん。どんどん減ってる。何年か前までは一〇万頭以上だった」
一〇万頭ということは、一日当たり二七四頭。一県当たり、約五頭。
なんとなく頭の片隅で計算しながら、これでも、きっと減ったのだなあと、瑠菜は思った。
「それは、スゴイことなんだね、きっと」
正直なところ瑠菜にはピンとこない話だった。
環には申し訳ないが、見も知らない犬が何頭死んだ、という話を聞いても、アフリカでヌーが何頭ライオンに食べられたという話を聞いたのと同じくらいの感想しか持てない。
「うん。スゴイことなんだ。…で、ここで岬ちゃんに訊きたい。殺処分ってやめた方がいいと思う?」
突然の質問に、瑠菜は言葉を失った。それは、考えてもいなかったことだ。
「……ええと?」
「犬っていったって、一つの命を持ってる生き物だよね? 犬が好きで飼っている人にとってはそれは家族も同然なんだ。誕生日だって祝うし、お葬式だって挙げちゃう」
「あ、それは判る」
そういうことはよく判る。子供の頃は、大切にしていたヌイグルミの誕生祝いをしたものだ。
「うん。大切な大切な自分の家族と同じ生き物が、無碍に扱われているって、許せる?」
「うーん」
かと言って、そこまでは飛躍できない気分だ。
「じゃあさ、同じ種類で同じような模様の犬が、酷い目にあわされてたら?」
「ああ、うん」
それはなんだかピンときた。純血種の犬は同じような模様の犬も多い。でも、飼い主には顔立ちとか模様とか区別がつくのだ。瑠菜自身に、同じタイプのぬいぐるみの判別がついたように。
そこまで考えて少し判ってきた。あの頃、自分のコじゃなくても同じタイプのコが粗雑に扱われるのが嫌だったのを思い出した。
「そこで、ふと我に返る。同じ犬種じゃなくても、同じ模様じゃなくても、自分の犬と、あの犬とは同じ種類なんだな」
瑠菜の心にすとんと落ちた。
「うん」
うん。
「……何が」
うなずいたところに、するりと環の声が入り込んだ。
「え?」
改めて環の顔を見たその瞬間、
「違うんだろう?」
問いかけられた。
何が。
瑠菜は一瞬押し黙る。それは…
「運」
丁度頭に思い浮かんだ単語を環が言う。
「運が違う。うちの犬は、たまたま自分と出会った。あの犬は出会わなかった。ただそれだけが違う」
「……」
瑠菜は、ただただ環を見つめる。
本当に、運、なんだろうか。運が違うだけで、一方は幸せに大切に扱われて、一方は死んでいく。
「運が違うだけで、殺されることは正しいのだろうか」
「正しくない、って言いたい」
瑠菜は、はじかれたように言った。
そこで、
ぱん、
と環が手を打った。
「え?」
驚いて、目を丸くすると、環がにっこり笑った。
「でもさ、殺処分されるようなのは、雑種の犬が多いんじゃない? って意見もあるの。雑種なら、仕方ないんじゃないって」
「……それって、変じゃない? だって、同じ命、でしょ?」
瑠菜がそう言うと、環は苦笑した。
「うん。同じ命。彼らはたまたま雑種に生まれただけ。純血種の犬は、たまたま純血種に生まれただけ」
そう答えたところで、円がやってきた。
「あ、円ちゃん、ナイスタイミング」
「あんまり苛めちゃダメだよ」
円は苦笑しながら、コーヒーと小さめのシフォンケーキを瑠菜の前に置く。
「プレーンのシフォンだよ」
にっこり笑って、環のほうにはコーヒーとチーズケーキを置く。タルトの上に乗っているベイクドタイプのチーズケーキだった。
「あ、ありがとうございます」
通常の半分ほどのサイズのシフォンは、おそらく瑠菜の申告を考慮したものだろう。
「環、お代は悠ちゃんからもらうことにするから、ここは俺の奢りね」
それを聞いて環がにんまりと笑う。
(でもそれ、円さんの奢りって言えるんだろうか…)
瑠菜はそんなことを思わず考えていた。
「円ちゃんも立派な犬バカだね。そこで悠ちゃんに奢らせるのはアレだけどさ」
「はいはい。仲良し家族だからねー。じゃ、ごゆっくりー」
ひらひらと手を振って、円はカウンターに戻っていった。
「まあまあ、食べて? あ、チーズケーキ、味見する? ってか、して?」
環は、まだ手をつける前のそれを瑠菜の前に差し出した。
「え?」
「絶対に、美味しいから!」
環は自信満々の笑顔で勧める。
「え、でも。環ちゃん、チーズケーキ食べたかったんでしょ?」
確かに味見はしてみたいが、楽しみにしていた環から奪うのはどうかと思うのだ。
「チーズケーキが食べたかったなら、ここに入ってきた時に円ちゃんに頼んでたよ」
だから、はい、とさらに勧めてくるので、瑠菜はそれじゃあ、と自分のフォークで小さく切った。
思ったよりも柔らかめの感触でタルトのところまで辿り着くと、フォークを立ててタルトに突きさし、丁寧に割る。
(あ、美味しい)
何故か瑠菜はその時そう思った。まだ、口の中にも入れていないのに。
そっと、口の中に入れると、オレンジの香りが広がった。そして、チーズの程よい酸味とともに溶けていく。
「……美味しい」
「でしょ?」
環はにっこり笑う。
「私としては、タルトは邪魔なんだけどね。水分の問題で外せないんだって」
「ん? でもタルトも美味しいよ?」
さくさくとした食感が気持ちいい。
「うん。好みの問題だから」
余韻を楽しみながら飲みこんで、当たり前の流れでコーヒーに手を伸ばした。
「あ、美味しい…」
一口含んで思わず呟いた。
先程飲んだコーヒーとは雲泥の差だ。
瑠菜が環を見ると、にこにこと微笑んでいた。
「さてさて」
美味しいコーヒーとケーキを堪能し終わると、環がそう切り出した。
シフォンケーキもとても美味しかった。シフォンケーキ単体で、生クリームも何も乗っていないのに、滑らかでふわふわするだけでなく、ちゃんと後味の残るもので、瑠菜が初めて食べるタイプのシフォンケーキだった。そしてそれがまた、コーヒーともよく合うのだ。
その余韻を楽しんでいた時だったから、瑠菜は正直なところ、話の続きはご遠慮申し上げたかった。
なんとなく、ほんの十数分前のことなのに、随分と昔のことに感じられるような、そんな不思議な感覚があった。
「さっきは、変な訊き方をしてごめんね?」
環が、両手を合わせて、頭を下げる。
「え?」
「ちょっと、誘導尋問的な流れを作ってみました」
誰に対してでもできるわけじゃないんだけど、と付け加え、深々と頭を下げる。
「ちょっと犬を殺すなんて許せないー!って思っちゃったでしょ?」
「……うん」
あれが誘導尋問?と、瑠菜は不思議に思う。
「淡々と、年間何頭殺処分されてて、一日当たり何頭で、って数値だけ聞いても、身近に犬とか猫とか飼ってない人はピンとこないんだよね。だから、殺処分そのものに嫌悪感を持つように話してみたの。岬ちゃんがどういう人なのかは知ってるし」
「……ああ…」
「うん。それで。ちょっと考えてみて? 殺処分って、なくなった方が良いと思う?」
「……?」
瑠菜は、環の言っている意味が判らない。
「そりゃ、そう思うけど、どうしてそんなことを訊くの?」
環はにっこり笑う。
「うん。じゃあさ、殺処分をやめたら、どうなると思う?」
「どうなるって、死ぬ犬が減る、よね?」
「うん。それで?」
「それで…」
瑠菜は考えてみる。瑠菜の拙い知識では、殺処分は保健所で行われることになってはずだった。保健所というところは、野良犬を捕まえたり、不要な犬を引き取ったりしていたはずだ。それらが殺されない。
「あ……」
ふと気づいて、瑠菜は環を見返した。
「岬ちゃん、頭いいなあ…」
「犬が、どんどん増えていく、のね?」
環は大きく頷いた。
「犬のサイズにもよるから適当な計算だけど、安い餌で一か月千円かかるとするね?」
環は計算を始めた。
一か月で千円として、十二か月で一万二千円。それが四万頭にかかると、一九二億円。千円が高いというのなら、その半分でも、九六億円。仮に一か月百円だとしても、一九億二〇〇〇万円。それが、毎年毎年増えていく。
「そのお金は、誰が出すんだと思う?」
「……税金、なんだよね?」
「うん」
言いながらも、瑠菜にはそんなにまだ実感がない。いいところ、消費税くらいなものだ。
「犬を飼ってない人が、犬を嫌いな人が、そんな税金で犬を養うことを、良しとすると思う?」
瑠菜は、首を振るしかない。いくらなんでも、それくらいは判る。テレビなどでも、税金の使い道について取り上げられていることは知っているからだ。
「このあたりは全部、母と悠ちゃんの受け売りなんだけどね」
と、環は笑う。
そうやって笑ってもらって、瑠菜は少し力を抜いた。
「さて」
ぱん、と環は再び手を打った。
まだ、続くのだ。
「殺処分される頭数は年々減ってきてるのは、喜ばしい話だよね。でもね、まだ余ってるのを示してることがあるんだ。何だと思う?」
なんだか、急に話が変わったような気がして、瑠菜は目を瞬いた。
「示している、こと?」
「うん。すごくアタリマエの光景。痛ましい気持ちになっても、多分、それがどういう意味かはピンときてないと思う」
瑠菜は考える。犬に関わることで、アタリマエの光景。そして、ふっと頭をよぎる。
「ペットショップ……」
「うん」
「いつも犬がいるね」
「うん」
「何人の人が買うか判らないのに、いつもいつも犬がいるね」
「うん」
「あれは、消費者のためのお店なんだね…。欲しいと思った人が、いつでも欲しいものを買うための、お店。だから、必要とされる以上を揃えている」
余った野菜なら、捨てる。消費期限が切れたものも捨てる。
「もちろん、一番よく売れる可愛い盛りの、生後一か月~二か月を過ぎても、ペットショップは放棄したりはしない。売れるまで店に置いておくところも多いと思う。あ、今はもう少し月齢が上がらないと売っちゃいけないんだったっけ?」
これだから、知識が中途半端だとなぁ、とぼやきながら、環は言う。
「まあいいや。でね、問題は、ええと…」
環は少し考えるように視線を上げた。
「あ、そうそう。問題は、犬を売ってるのは、ペットショップだけじゃないってことなの。インターネットで検索したら、本当に山ほどヒットするのよ」
それは、簡単に想像できたので、瑠菜は頷いた。
「良かった…。まあそんなわけで、今、犬は余ってるのよ」
瑠菜は納得した。
その様子を見て環も察知したのだろう。満足そうに微笑んだ。
「だから、そんな犬が余ってる状態で、犬を増やす人は大嫌いなの」
ぽん、と、結論を言われて、瑠菜は目を白黒させた。何がどう繋がったのか、と考えを巡らせて、環に声をかけてきた彼女のことを思い出した。
「それだけじゃなく、小さいから散歩は不要? あり得ない!」
語気が急に荒くなったのに驚く。それまでの様子とまったく違っていて興奮しているようだ。
「犬の散歩は、運動のためだけじゃないのに! きっと、誰にでも吠える社会化が全然できてない犬なのよ。そんな犬が産んだ子犬が、ちゃんと犬の教育ができるわけがないじゃない」
「え、えっと、環ちゃん?」
「別にね、社会化の出来てない犬を飼うのが嫌だって言ってるんじゃないの。そういう飼い方しかできてないのに、犬のことをよく知ってるって顔して、犬は余ってるのに!わざわざ増やして、散歩が必要ないとか、うちのワクチンの方針に対してあーだこーだ言うのが許せないのよ!」
どん、と両手で、テーブルを叩く。その息は荒く、肩で息をしている。
「どうどう…」
いつの間にやってきたのか円が環の横に立って、頭をぽんぽんと叩いている。
「え、えっと…」
「ごめんね? うちの兄は犬のこと全部に対して頭がバカになるんだけど、妹は、生活環境でバカになるんだ」
「あたりまえじゃないの! 犬の幸せは飼育環境で決まるんだから」
「はい、どうどう。龍、呼ぶ?」
「ううん、いい。岬ちゃん送ってかなきゃだし」
りょう?と、瑠菜は初めて聞く名前に首を傾げる。
「そ? じゃあ、そろそろ出た方がいいよ」
円は壁の時計を示した。
「うん」
「それから、これ、お土産…ってほどじゃないけど、岬ちゃんが食べた残り半分ね。良かったら明日の朝にでも食べて。潰れないように気をつけてね」
小さな紙袋をテーブルの上に置かれる。
「あ、ありがとうございます」
慌てて礼を言って頭を下げる。
(りょ、りょうって…?)
疑問が頭の中を渦巻いていても、どうも今は聞けそうもない。後で聞こう、と心に決める。
「円ちゃん、今夜も遅いの?」
じゃ、帰ろうかと小声で言ってから、環は円に問いかけた。
「そんなに遅くないよ。でも、晩ご飯はいらないかな」
「うん。判った」
二人のやり取りの間に、バッグを持って、帰る用意をする。
「じゃ、出ようか」
「あ、うん。……あの、ごちそうさまでした」
「どういたしまして。またいらっしゃい」
にっこり笑顔の円に送られて、二人は店を出た。
「美味しかったー。美味しいコーヒーって、美味しいんだね」
店を後にして駅に向かいながら、瑠菜は言った。
本当は「りょう」について訊きたい気持ちがあったのだが、それを言いだすと、感想を言うのがとんでもなく遅くなりそうだったのだ。
「円ちゃんのコーヒーは世界一だって言ってもいいのよ」
それは言い過ぎだとは思ったので、瑠菜は微笑むにとどめる。
「紅茶は悠ちゃんなんだけどねえ」
「こだわりがあるのね…」
「お料理が好きで上手な凝り性の家族がいるのって、幸せだけど不幸よね…」
環はふう、とため息をついた。
なんというか、贅沢な悩みだ。
と思ったが、次のセリフを聞いて納得した。
「たいていのお店に行っても、料理が楽しめないんだもん」
「なるほど」
「悠ちゃんはどっかで働いてるわけじゃないから、今度うちにおいでよ。円ちゃんのお菓子と一緒に悠ちゃんの紅茶を飲むのは、もう、幸せで幸せで!」
「うん、ぜひ!」
力説する環はちょっと面白いが、彼女がここまで言うのかと思うと、期待が膨らむ。
「そしたら、犬関係のことをもう少し悠ちゃんに説明させるから!」
「あ、いや、それは…」
正直なところ、それはもう、お腹いっぱいだ。
その様子を見て、環がふふふと笑う。
「悠ちゃんは私より説明が上手だから、もう少し聞いてあげて? 岬ちゃんが犬のことに興味ないのは判ってるけど、私の中途半端な説明で終わるのは、さすがに犬たちに申し訳ないから」
「中途半端、だった?」
要点を上手く説明してもらえた、と瑠菜は感じていた。それは、何も知らないからそう思うだけなのだろうか。
「うん。放棄された犬を全部助けたらの話も中途半端だったし、繁殖の問題も中途半端だった」
言ってから、やっぱダメだなぁ…とガシガシと頭を掻きむしる。
その行動が、容姿にそぐわないのだが、環にはよく似合うと、瑠菜は思う。
だから、ブツブツ言う彼女をしばらく眺めて。
「ねえ、りょうって、誰?」
と、訊いてみた。
慌てふためく環を想像して、返答までの一瞬に期待を膨らませる。
……が。
「え? 付き合ってる人だよ」
環はいともあっけなく答えた。
そこには、気負いも照れもまったくない。
そこが、あまりにも残念だ…。
とは、口には出さずに、瑠菜は、笑いだした。
「え、ちょっと。岬ちゃんてば」
戸惑う声を聴きながら、笑いが止まらない瑠菜は、あとでどう説明しようか考えるのだった。
END
帰宅してすぐに、瑠菜はもらった紙袋を開けてみた。
出てきたのは、円が言った通りシフォンケーキの半分と、小さなチーズケーキだった。
だが、チーズケーキは、環が食べていたものとは違ってタルトに乗ってはいなかった。セロファンを丸く筒にして、その中にクリーム色のものが入っている。底はアルミホイルのカップで、どうやらスポンジもビスケット生地もない。
ふっと、環の言葉が頭の中によみがえってきた。
――私としては、タルトは邪魔なんだけどね。
確か、そんなことを言っていたはずだ。
「うううう」
食べたい。食べてみたい。味見したい。
瑠菜は、テーブルの上に置いたそれを見て悶えた。
でも、どう考えても今日は甘いものを食べ過ぎだ。
ここは、ぐっと堪えなければならない。
幸いなことに、瑠菜は一人暮らしだ。大学に入ってこの街で暮らしはじめた。冷蔵庫の中に入れておいたものを勝手に食べるような家族はいないのだ。
翌日の朝まで無事に残っているのは間違いないのだ。
でも。
けど。
「ああもう!」
瑠菜は誘惑に負けてしまったのだった。