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悠の場合 2

山なし谷なし落ちなし…意味はあるかもしれないから、元祖「やおい」には遠い作品ですが、暖かい目で読んでいただけると…


2013.7.7 ENDマークを入れ忘れてたので、入れました。

 土曜日の午後、はるかは鉄子の散歩をしていた。

 うららかな春の日差しが暖かく、気持ちがいい。老犬と一緒にゆっくり歩くのにも丁度良い日である。

 時折様子をうかがうように見下ろせば、左側をついてあるく愛犬は、何かで気付くのか顔を上げて、視線を合わせた。もしかしたら、定期的に確認のために顔を上げているのかもしれない、と思ったこともあるが、以前、母と一緒に歩いている姿を観察した時には、母が見下ろした時のみ顔を上げていたから、鉄子的に感知するための何かがあるのだろう。

 公園に入る前、悠は少し見下ろして「次、曲がるよ」と囁く。鉄子はチラリと見上げて、悠に合わせて滑らかに曲がった。

 公園は、通り抜けのために入る。もともとは、人がそこそこいて、たまに犬もいるので、鉄子の訓練のためにちょうど良いということで入っていた。興味を持った人が近寄れば、立ち止まり大人しく撫でられるために。興味を持たない人には、こちらも興味を示さずに歩くために。犬も同じで、飼い主の許可がなければ挨拶もしなければ吠えたりもしない、そんな練習をするために入っていた。でも、今は十七歳にもなった鉄子にはもう必要のない練習だった。だから、公園の中を通るのは、散歩の距離の調節のためのショートカットでしかない。

 その日もそんな感じで曲がったのだ。

「あの…、田崎のお兄さん!」

 公園の半ばを通り過ぎようとした頃、ふいに声をかけられた。少年の声で、聞き覚えはないが、弟か妹の知り合いだろうと思われ、悠は声のしたほうを向いた。

 シャツにジーンズ姿の少年だった。どちらの知り合いかは判別が難しい。弟妹は年子なのだ。

「ええと? 俺のことかな?」

「はい。……あ、僕、環さんの同級生で」

 古屋慎吾、と少年は名乗った。

 とりあえず、妹から聞いたことのない名前だ、と悠は思う。

「古屋くんね。どうしたの?」

 少年は緊張した面持ちで、全身に力を入れて、ややうつむき気味に立っていた。何か迷っている様子で、悠は、どうしたものかと考える。いくらそんなに暑くない日とはいえ、鉄子を長時間日差しの下にさらしたくはない。黒っぽい彼女は体温が上がりやすい。若いころならいざしらず、随分と体力も落ちたのだ。

「あの……犬、の、ことで…」

 迷うように、呟くように吐き出された言葉に、悠は覚悟を決めた。

「ちょっと移動しよう。時間はあるよね?」

 そう言って、公園の隅の東屋を指す。

 犬のことなら、見過ごすことはできないのだ。



 相談は、自宅で飼っているミニチュア・ダックスについてのことだった。ペットOKのマンションだが、よく吠えるという。近所からも苦情がちらほら出始めて、それほど犬が好きではない父親が、処分しろ、と言い出しているらしく、なんとかならないか、ということだった。

「……なんとか、っていうのは、吠えないようにしたい、ってこと? それとも、新しい飼い主を見つけたいってこと?」

 少し考えて、悠は聞いてみる。おそらく前者だろうが、たまに後者のつもりで話を持ちかけられることもあるから、油断はできない。

 古屋は驚いた顔で悠を見上げ、首を小さく左右に振った。

「違います。あの、太郎を手放すつもりはないです。もう一年も一緒に暮らしてるんです。絶対に嫌です」

 生後一年と二か月くらいか、と悠は頭の中でメモをとる。

「僕とお母さんは、ずっと一緒に暮らしたいと思ってて、吠えないようにできないかっていろいろ試してるんですけど、うまくいかなくて」

 いろいろ、何をしたかが問題になることはあるが、と心の中で呟き、悠は上着のポケットからメモ帳を取り出した。

「とにかく一度、直接太郎くんに会わせてくれるかな? 俺でアドバイスできることがあればそうするし、ダメそうなら、プロの人を紹介するから」

 言いながら、メモを渡す。簡単なアンケート用紙になっていて、犬の名前や年齢、犬種、買ったところ、その月齢、好きな遊び、散歩時間などを書くようになっていた。

「これは、その時までに書いておいて。一応、土日は時間が空いてるし、平日でも四時以降なら空いている。都合の良い日を知らせてくれたら、こっちがなるべく合わせるよ」

「はい」

 すがるようなまなざしの少年ににこりと笑ってみせて、悠は立ち上がる。

 連絡先を知っているかと訊ねたら、判るというので、それは敢えては伝えないことにした。

「焦らないで。お父さんだって、今すぐどうこうって言っているんじゃないでしょ?」

「はい」

「大丈夫。落ち着いて」

 安心させるように頷いて、悠は公園を後にした。



 帰宅した悠は、環に確認をした。

 クラスメイトで、どうやら、環も半月ほど前に直接声をかけられたらしい。その時は、悠を紹介しようか?と訊ねたら、もう少し考えてみる、と答えたそうで、環もそれで放置したという。

「直接声をかけるのなら、先に話しておいたんだけどなあ」

「偶然見かけたのかな? よっぽど切羽詰ったのかな」

 そう呟いて、ふと疑問に思っていたことを口にした。

「で、古屋くんはなんで俺のことを知ってるの?」

「んー? 前に迎えにきてくれたことあったでしょう? あの時に見かけたんだって」

 環は思い出すようにふっと視線を彷徨わせた。

「ああ、あの時」

 たまたま思いついて鉄子の散歩がてら迎えに行ったことがあったのだ。でも、と悠は思う。あの時も鉄子は足元でじっと佇んでいただけで、悠の指示に機敏に従うようなことはしなかった。そのどこで、悠に相談をしよう、と思えたのだろう。

「うん。訓練をどこかでしたのか、って訊かれた。で、お母さんが訓練したって答えたよ。今は我が家では悠ちゃんが一番詳しいって」

 それか、と悠は納得した。

「で、どうするの?」

「まずは、電話がないとね。気にはかかってはいるけど、こっちから押しかけるわけにはいかないし」

 悠とて、相談をされれば気にはかかる。が、一時の勢いで話だけもちかけたが、時を置くとその気がなくなる、ということは多々ある。悠自身の経験は少なくても、母が何度もそんな経験をしていたのは、傍で見ていてよく知っていた。

 犬は、所詮、個人の持ち物でしかない。法律的な意味においてでは。エサを与えないとか、殴る蹴るなどの、判りやすい虐待がない限り、法的に罰せられることもない。だが、母の園子は、躾をしないことも広義の虐待だと、言っていた。特に何を教えたわけでもないのに、大人しく、賢い犬はいる。特に、躾をするつもりでなくても、上手に犬を育てることができる人もいる。だが、そのどちらでもない場合、激しく吠えたり、他者を噛んだり…と、飼い主以外には可愛さを実感できない犬に育つことがある。そんな犬が、近所からうるさいと言われたり、他者を傷つけたりしたら、処分されることもある。それは、犬が悪いのではなく、躾をしなかった飼い主が悪いというのが、園子の持論なのだ。とはいえ、その、母の考えが一般論として通用するわけではないことも、彼女は理解していた。多くの場合、犬を飼おうという人はそこまで考えてはいない。そして、それを今の世の中では強要することもできない。だから、どこかで割り切って待つことしかできないのだ。

「そこ、だよねえ」

 環もそこのところはよく知っているので、肩をすくめる。

 古屋本人がその気でも、家族が反対した場合は、話が進まないこともあるのだ。

「連絡があるといいね、悠ちゃん」

 環の言葉に悠は苦笑するように笑ってみせた。



 結局、翌日には電話があり、次の日曜日にお宅にお邪魔することになった。

 悠が経験したことのある犬は、母の嫁入り道具の一つだった(ちゃ)()と、その後迎えた鉄子の二頭だけだ。そして、その二頭とも、躾をしたのは悠ではなく、園子なのだ。だから、悠は、犬の躾について自信があるわけではない。ただ、目の前にいる犬が、自分を必要としているか自分以外を必要としているかは、判るのだ。言いかえれば、自分の手におえるのかそうでないかが判る。なので、まずは対面することを目標とした。

 約束の日、悠はまず、近所の公園で古屋とその愛犬のミニチュアダックスフントと会うことにした。まずは、外での様子を見たいと思ったのだ。

 少し迷って鉄子も連れてきた。他の犬に対する態度も一応見ておこうと思ったのだ。

 待ち合わせは、公園の噴水の近くだが、悠は少し離れた木陰に立つことにした。二つある入口のどちらも見ることができる場所で、風通しが良い。鉄子は地面に伏せていて、時折風を臭うように首を伸ばしたりしている。

 約束の時間よりも少し早く来て、公園の様子も確認をした。もし自分がアドバイスをするのなら、この公園を使うことになるかもしれないと思ったのだ。

 やがて、時間よりも数分早く古屋とミニチュアダックスフントが噴水のところにやってきた。黒い背中に、足元は茶色の、長めの被毛のその犬は、古屋の少し後ろをついて歩いている。そして、噴水のところで少年が立ち止まると犬は足の間に入るようにした。鉄子と似たような毛色に、少し親近感を持つ。

(ビビりちゃんか…)

 となれば、吠える原因のほとんどは威嚇だ。対処方法のいくつかを思い浮かべながら、悠はさらに観察をする。

 リードは首輪ではなく、胴輪に繋がれている。ちなみに、鉄子は首輪だ。近所のシェルティ飼いの人からは、首回りの毛が切れるのでやめた方が良いと言われるが、首輪をするのは散歩の時くらいなので、悠は気にはしていない。というより、母が気にしていなかったし、実際に首回りが見苦しくはなっていない。胴輪を勧められることもあるが、鉄子がぐいぐい引っ張るわけでもないので、必要性を感じていない。

(太郎ちゃんは引っ張るのかな)

 先程見た限りは、ミニチュアダックスフントは引っ張ってはいなかった。めったに来ない場所に連れてこられたために、恐がっていたのだろうか。それとも、元々から引っ張るタイプではないのか。もし後者なら太郎が付けている両前足と頭に通すタイプの胴輪はすっぽ抜け易い。脚の短さからしても、抜けたあとハズレてしまい易いのだ。

 古屋は、特に足の間にいる犬を気にしてはいないようだった。気にしているのは、どこから悠が現れるか、で、きょろきょろと辺りを見回すばかりだ。

 さて、と、悠は時計を確認する。約束の時間を二分ほど過ぎていたので、登場することにした。何歩か歩くと古屋は気付いたようだった。顔を向けて、わずかに会釈をくれる。それに軽く手を上げることで挨拶を返し、ちらりと鉄子と視線を合わせて早足になった。

「ごめん、ちょっと向こうの日陰で待ってたんだ。気付かなくて遅くなったね」

「いえ。僕も、今来たところです」

 悠は、足の間のミニチュアダックスフントの様子を見て、二メートルほど離れたところで立ち止まる。太郎は、わずかに後じさり、尻尾を足の間に入れていた。これ以上近づいたら吠えるかもしれない。だが、意外と近い場所まで寄ることができたことに感心する。

「君が、太郎くんだね?」

 悠はじっとこちらの様子を窺う犬を見て、手符で鉄子に伏せるよう指示を出す。さっと指示通りにしたのを見てから、「マテ」と指示を出し、半歩進んでしゃがんだ。太郎はわずかに体を揺らしたがじっと見るばかりだ。

「オヤツをあげてもいい?」

 パーカーのポケットに手を突っ込みながら訊くと、古屋は「あ、はい」と慌てて返事をする。それを聞いてから悠はポケットの中のケースから、ササミジャーキーを細かく切ったものを取り出した。

 ササミジャーキーのたったこれだけの量で、どうにかなることはめったにない。が、今はアレルギーやその他の疾患についてもとやかく言われることが多い。神経質になっている飼い主も多い昨今、確認は必要事項だ。

「……あの」

 古屋が戸惑いの声を上げた。が、今は無視だ。悠はじわじわとにじり寄る。

 が、太郎が悠を怖がっている様子はなかった。彼が気にしているのは鉄子のようだ。

 悠は頭を撫でられる距離まで近づいたところで手を軽く握り、甲の方を太郎の口元に伸ばした。彼はそっと鼻を伸ばしてくんくんと臭いを嗅ぐと、ペロリと舐めた。

(うん)

 小さく頷いて、手のひらを反して開く。中には小さく千切ったササミジャーキーを入れてあった。太郎が急いで口に入れたので、悠はその隙に頭をや耳の後ろを撫で、背中を軽く叩いた。

「いい子だね」

 それは、古屋に向けた言葉だった。見上げてにこりと笑うと、少年は慌てて笑顔を作った。

 よいしょ、と少し離れるようにして立ち上がると、足の間から太郎は数歩出てくる。

「あ、ありがとうございます」

 慌てて礼を言う古屋は、しかし鉄子を見ていた。

「あの、でも、田崎さんのお宅のわんちゃんの方が…」

「ああ…」

 悠はちらりと振り返る。鉄子は言われたとおりちゃんと伏せをして待っている。

「あれはね、ちゃんと教えてきたから、できて当たり前。信用してるからリードから手を放すし、ここにも連れてきたんだよ」

 悠はわざとハッキリと言った。

「太郎くんもちゃんと教えればこれくらいにはなれるよ? 鉄子だってそんな簡単にここまでできるようになったわけじゃない。最初にうちに来た時は、太郎くんより何もできない犬だったよ」

「いえ……え?」

 古屋は謙遜の言葉を口にしかけ、それを止めて聞き返した。その意を敏感に察知し、悠は笑う。

「この犬はね、成犬で引き取ったんだ。飼育放棄で躾も放棄状態で我が家に来たんだ。それをだいたい三年くらいかけてうちの母がトレーニングしていったの。最初はビビりでね。いろんなことに吠えたし、散歩も行きたくないってね」

「三年、ですか」

「うん。うちの母はそう言ってたよ。今の太郎くんくらいになるのに約一年で、今のレベルに近くなるまでに三年。その後も維持できるように日頃からいろんなことをちょっとずつやってるよ」

 いろんなこと、と悠は言ったが、実はたいしたことはしていない。ほぼ毎日の散歩や、日々の生活の中で、ちゃんと意志の疎通をして、遊んで、そして態度にブレを作らないことだ。それらは、本当に大したことではないが、犬をぬいぐるみと同じと考えている人には難しいことかもしれない。

 悠の言葉に、古屋の表情が引き締まる。

「大丈夫。人が変われば犬も変わる。これは絶対だから」

 励ますように言って、じゃあ行こうか、と促す。古屋がうなずいたところで、鉄子の名を呼び左の太ももを軽く二回叩くと、すくっと立ち上がった鉄子は悠の左側に立って見上げてきた。その間の太郎の様子を窺いながら、見上げている鉄子の頭を撫でて「GOOD」と褒める。太郎は、多少後じさったが、やはり吠えなかった。



 古屋の家は、五階建てのアパートの三階にあった。入ってすぐのところにエレベーターが一基設置されていたが、彼はその脇の階段へと向かう。

「すみません、階段で。……鉄子ちゃんは大丈夫ですか?」

 思い出したように振り返って言うが、エレベーターを選ぶつもりはないらしい。太郎を小脇に抱えるために身を屈める。

「……エレベーターは犬禁止なの?」

 悠は思いついて聞いてみる。わずかな時間とはいえ狭い空間だ。犬同士でトラブルがあったとしてもおかしくはない。

「……いいえ。太郎が苦手なので…」

「了解。鉄子は無理そうだったら抱っこするから気にしないで」

 平地なら多少の距離は歩ける鉄子でも、ここ数年、階段などは少し辛くなってきた。なので、田崎家では、鉄子が歩けそうな時には歩かせ、疲れた様子を見せたらフォローをすると決めていた。といっても、平地であと少し歩ける距離なら、歩かせるし、階段などなら問答無用で抱えあげる…といった具合に、臨機応変に対応している。十キロほどの小さな体だが、環にはちょっと重く感じられている。それでも、彼女もそのルールにしたがって散歩をしていた。老犬だからといって必要以上に甘やかさないというのが田崎家のルールなのだ。とはいえ、老犬は老犬。寝ている時間も随分長くなってきている。本当に歩けなくなったらベビーカーのようなものを使う予定もある。

「すみません」

 古屋は小さく頭を下げると、太郎を小脇に抱えた状態でさっさと階段を上っていった。悠も鉄子に合図を送って歩き出した。

 三階分をゆっくりゆっくり上がる。鉄子にはそれほど負担はない。多少スピードを落としたものの、最後までスムーズに上がっていった。

 古屋はさすがに慣れた足取りで、悠と鉄子コンビより多少速く進んで行き、三階のフロアに着いても太郎を下さずに部屋の方へ向かう。その背中を見ながら、悠は進む方向を確認した。

「はい、とうちゃーく」

 三階に着いたところで鉄子を見おろして視線を合わせ、頑張って上ったことをねぎらってやる。そして、「さあ、行こう」と促し、古屋の背中が消えた方向に向かって歩きだした。

 角を曲がると、ドアが並んでいるだけで、古屋の姿が見えない。と、困っていると、ふいに一つのドアが開き、古屋が顔を覗かせた。

「すみません、こっちです」

 悠は空いている右手をちょっと上げ、急ぎ足になった。と、吠え声が聞こえ始めた。おそらく太郎だろう。「太郎ちゃん、ダメ」という優しげな女性の声も聞こえてきた。

「すみません、いつもこんな感じなんです」

 近づいた悠に途方に暮れたような表情で言う。それに対し笑顔を浮かべてうなずいて見せた。

「ありがとう、きっと一緒に入ってたら聞けなかったと思うから、助かったよ」

 古屋はきょとんとしたが、すぐに我に返り体の向きを変えて、悠に入るように促した。

「鉄子は玄関で待たせよう。俺だけ中に入るね」

「え? いいですよ、一緒でも」

 手に持つ雑巾を差し出そうかどうしようか迷ったふうに、中途半端な位置で手を止める。

「でも、鉄子が一緒だと、きっと太郎くんが緊張するんじゃないかと思うんだ。この子は慣れてるから大丈夫。あ、雑巾は貸してもらえるかい? 足だけ拭いて、この玄関マットの上で休ませたいんだ」

 手を差し出すと納得いったように雑巾を差し出した。

「すみません」

「いいよ。場合によっては呼びよせるかもしれないけど、とりあえずはここにいさせて。あ…」

 太郎を抱っこして、古屋の母がやってきた。抱っこされた太郎はもう吠えてはいない。

「…あの…」

「こんにちは、おじゃまします。古屋くんにはいつも妹がお世話になっています。今日は、お役に立てるかは判りませんが、よろしくお願いします」

 悠は姿勢を正してきっちり挨拶をする。古屋の同級生の兄とはいえ、まだ大学生の若造がいい加減な態度をとっても良いことはない。そのことを悠はよく知っていた。

 犬を躾けるのは、トレーナーや訓練士の仕事ではない。……正確に言えば、躾けることはできるが、犬がその躾けたように暮らせるかは、飼い主次第なのだ。つまり、トレーナーや訓練士は、犬をしつけ、さらに飼い主に対し指導をしなければならないのだ。年齢的にも若い悠がどんなに実力があっても、単に若いだけでなく学生という身分の男の言うことを素直に聞いてもらえるかどうかは判らないのだ。そのため、言葉使いや態度だけでもちゃんとしているように見えるように、悠は努めている。

(犬のため。犬のため)

 軽く会釈をしたあとも、笑顔は絶やさない。

「いえ、あの、こちらこそ…」

 戸惑いを浮かべたものの、古屋の母親はどこかほっとした様子を浮かべた。

「そのワンちゃんは、あなたの…?」

「はい。ちょっとここで待たせてください」

 深くは語らずに言う。今ここでは、自分の犬がいかに人の言うことをきくかを見せられたら良い。このあと、実際に悠がアドバイスをして躾を行うことになった場合は、太郎にさせることの例を鉄子にさせるかもしれないが、現段階では、信用を勝ち得るための小道具なのだった。

「全然吠えないのねえ…。スゴイわ。おとなしいのね」

 悠はにっこり笑って「ありがとうございます」と言うと、手早く持ち上げて四肢の足のウラを拭いて、玄関マットの上に上がらせた。

「鉄子、休め」

 小さな声で、だがハッキリと言うと、鉄子は後ろ足を横に投げ出したような形のフセをする。

「マテ」

 目をみつめて指示を出すと、上体を起こし「すみません」と言いながら雑巾を古屋に渡した。

「じゃあ、上がらせてもらいます」

「あ、はい。……賢いのねえ」

 感心して鉄子を見つめる古屋の母に、悠は微笑んだ。

「教えれば誰でもできますよ」

 環曰く「うさんくさい笑顔」らしいが、これがかなり有効なのだ。

 古屋の母は困ったように苦笑をしてみせたが、それでも興味をひかれたように悠をみつめた。

 悠は内心「よし」とほくそ笑んだ。



「とにかく、吠えるんです」

 リビングに落ち着くと、古屋母は太郎を膝の上に載せて背中を撫でながら言った。

 古屋自身から聞いた話とほとんど変わらない。

 だが、悠が知りたいのは、どんな時に吠えるのか、なのだ。

「今は、吠えていませんけど、さっき中に入るまでは吠えてましたけど、来客のある時にはだいたい同じような感じです。あとは、お留守番をさせた時にしばらく吠えているようです」

「そうですか」

 相槌をうちながら、古屋母の膝の上にいる太郎の様子を観察する。多少は悠のことを気にしているようだが、警戒とまではいかない。それは、一旦外で会っているからかもしれないが。

「かあさん」

 母親の隣に腰をおろした少年がつつく。

「あ、あれね」

 つつかれたほうはそれで判ったようだ。立ち上がると太郎を抱っこしたままキッチンの方へ移動し、紙切れを持ってくる。先日悠が渡したメモ用紙だ。

「あの、これ…」

「あ、ありがとうございます」

 両手を伸ばして、差し出されたメモ用紙を受け取る。それにざっと目を通して、悠は二人を順番に見た。

「詳しくありがとうございます。もう少し質問しても良いですか?」

「あ、はい」

 再びソファに腰を下ろした古屋母と古屋は、こころなしか背筋を伸ばした。

「お留守番の時は、太郎くんはどちらに? ケージなどに入れているのでしょうか?」

「いえ…。トイレの失敗がなくなってから、自由に過ごせるようにって…」

「そうですか。…だいたい、判りました」

 二人はごくりと唾をのみ込んだ。

「たぶん、そんなに大変なケースじゃないので、いくつか僕が言うことをやってみたら改善するんじゃないかと思います。ただ、時間はかかります。今日始めて、一週間後には改善する、ってわけにはいかないと思います」

 悠はそこで一旦言葉を切り、二人を等分に眺めた。

「世の中の、ドッグトレーナーさんや訓練士さんの中には、一発でそういうのを直すって言う人もいます。僕は、残念ながらそういう方法をされる人は知りませんが、一応、ドッグトレーナーをしている人は知っています。なので、紹介することも可能です」

 再び言葉を切り、二人が意味を理解できるまで時間をあける。

「これから言う方法が納得いかなかったり不安を感じられるようなら、そのトレーナーさんを紹介しますので、そう言ってくださいね。もし、始めてみても改善しないようでも、トレーナーさんを紹介します。……こういう手順ですが、良いですか?」

 悠がてきぱきとそう言うと、古屋母はきょとんとした顔をした。

「あ……の」

 どうにか持ち直して、声を出す。

「た……田崎さんは、お仕事で犬の訓練をされているわけでは…」

「かあさん、それは違うって」

「え? そうなの? てっきり私はそういうお仕事をされてる人だと思って、だからお願いしてみようって」

「だから、説明したじゃん。まずは太郎を見てもらって、訓練士さんにお願いしたほうがいいかを判断してもらおうって」

――本当はどんなレベルでもプロのほうがいいんだけどね。

 悠は内心苦笑する。

 悠自身はまだ大学生で、資格もとってなければ経験も少ない。だから、相談にのりはしてもお金を受け取るようなことはしない。ただ、井戸端会議程度のアドバイスをするのみだ。古屋のほうは環から噂を聞いていておそらくそれを知っていて理解もしていて、散歩友達と同レベルの相談を持ちかけたのだろう。だが、散歩友達なら本来そこにいるべき犬がおらず、仕方なく出向いた、というのが今回の状況なのだ。

 また、プロに相談した場合、どれくらいかかるか判らない、というのも、直接相談をしなかった理由として挙げられるだろう。どういった方法でトレーニングをするのかとか、そういった予備知識がまったくないことが不安で、それも含めた相談なのかもしれない。

「そうだったの…」

 古屋母は少しばかり落胆したように表情を曇らせ、まっすぐに悠を見てきた。

「あの、すみません。私、誤解していて」

「いえ、いいんですよ。僕自身は太郎君にとって一番良い方法をアドバイスできればいいんですから」

 落胆は、悠自身に対する落胆だ。古屋母は、悠がすぐにでも太郎が良い方向へ向かうよう、なんらかの手を講じてくれると思っていたのだろう。だが、実際に聞いた話ではそうではなかった。時間はかかると言うし、上手くいかなければドッグトレーナーを紹介するという。さらには、悠が示した方法に納得いかなければ…などと言えば、不安になるのも仕方ないだろう。

 だが、と悠は思う。結局、犬をどうこうできるのは飼い主しかいないのだ。その飼い主がちゃんと考えて選択しない限り、飼い主自身が犬に向き合えない、悠はそう考える。

 だから、悠はにっこり笑う。

「実はですね、うちの母の遺言なんです。犬たちが幸せになるように手を貸して、って」

 古屋母はきょとんとする。

「遺言、ですか…」

 悠は大きく頷いた。

「ええ。死ぬ間際に。……母は数年前に他界したんですが、病気で、もう自分には時間がないことを知っていました。病院で起き上がれなくなって、医師からも、もういつ息を引き取ってもおかしくない、と言われていた時に、危篤になったんです。父も妹や弟も駆けつけて、その時は持ち直しました。持ち直して目が覚めて父が付き添っていた時だったそうです。二つ三つ、言葉を交わしたあと思い出したように『お願い、犬たちが幸せになるように、手を貸してあげてね』って言って、疲れたように眠って、それっきりだったらしいんですよ」

「あ……の……」

 古屋母は困惑したように悠を見た。それはそうだろう。自分の母親の死について、悠は思い出し笑いをしながら言ったのだから。

「ああ、すみません。これ、我が家では笑い話なんですよ」

 古屋母はさらに困惑したように口をパクパクとさせる。

「鉄子……玄関で待たせてる犬ですが、あの犬の前にも同じ犬種を飼ったんですよ。僕や弟、妹が小さい頃は子供だから犬の扱いを知らないでしょう? それでもとにかく母は犬のほうが優先でしたね」

 優先と言っても、犬を優遇していた、という話ではない。力の加減を知らない子供が犬を叩いたり、毛を引っ張ったりしたら、それはしてはいけないことだと、言われるのだ。もちろん、幼い子供相手のことだから、叩いたり怒ったりするわけではない。ただ、まだ何もわかっていない子供に対しても「わんちゃんがイヤがるから、それはやめようねー」と、まじめな調子で言うのだ。

 悠が中学生、円と環が小学生の頃、ふっと思い出して三人で話したことがある。「最初に覚えたのは、犬の嫌がることをしてはいけない、ってことだったよね」と。

 母は、それくらい、犬を中心に考えていた。そして、父親も自分も弟妹も、そのことについては笑うしかないくらいに、仕方ないことで、だから、母の最期の言葉は、とても母らしい言葉だと四人で笑いあったくらいなのだ。

「僕たちが最初に覚えたのは、犬の嫌がることはしない、ってことでしたよ」

「あの、でもそれって…」

 古屋母はいぶかしげに眉間にしわをよせる。

「権勢症候群、ですか?」

 または、アルファシンドローム、と言う。犬は、犬の祖先であるオオカミのように序列の世界で生きているので、最下位に置かないと手がつけられなくなる、というものだ。

 母は、この言葉が出ただけで、今の古屋母よりもさらに険しい顔になったものだ。母的には全否定はしないけれど、すべてに当てはまることではないと思っていたらしい。悠自身が犬についていろいろ学んだ今は、すべての原因を権勢症候群だとすることが、一番腹立たしいことだったらいと思い至った。そして、今では悠自身も母の意見に賛成だ。しかし権勢症候群は、世間でささやかれ始めてから随分と経ってそれが浸透し、さらには否定する意見が出始めてそれも浸透してきた今も、未だに根強く残っている。否定するのは簡単だ。だが、ちょっと面倒臭いと思ってしまう。多分、母も同じ気持ちだったのだろうと、悠は想像している。母も自分も、ちゃんと資格をとった訓練士でもトレーナーでもない。そのためか正しいことを伝えても、どこかで真面目に受け取ってもらえないのだ。説明したその時は納得しても、別の意見をしっかりとした肩書と実績を持つ人がテレビなどで言えば、そちらが正しいと思ってしまう。もう、そんなことを何度も繰り返してきていたのだ。

 だから今も、小さく頷く古屋母に小さく笑って見せた。

「犬の嫌がること、と言っても、叩いたり踏んだりっていう、ごく当たり前のことです。母は同時に、犬とどう付き合っていくのかも教えてくれましたから」

 権勢症候群にならないためには、犬のボスでなければならない。そう言われている。そして、その言葉をそのまま受け取った人は、犬の言いなりになってはいけない、と考えてしまう。そして、力で抑えつけようとする人もいる。すべての人が、ではないが、中にはいる。要するに、これが問題なのだ。大型犬については、それは確かに多少の力が必要だ。だが、基本的には、観察をすることと、人間の知恵で大抵の犬を扱うことはできる。力で抑えることは、その観察と人間の知恵を使わなくさせることがある。それが悲しいのだ。だから、母は、権勢症候群という言葉を聞くと、険しい顔になったのだ。

「太郎くんはまったくそんな様子はないですよね。今も、お母さんをとっても信用しているって、全身で言っています」

 悠は安心させるように微笑んだ。

「古屋くんも、お母さんも、太郎くんが言うことをきかないので、自分のことをボスだと思ってるって、そんなふうに感じてるんじゃないんですか?」

 古屋母は、おずおずと、小さく頷いた。

「やっぱり」

 悠は微笑んで頷く。

「でも、違いますよ。太郎くんは、よその人が恐いんです。物音が恐いんです。一人が寂しいんです。よその人が恐いから、自分のテリトリー近くになると『来るな!』と吠えます。たいていの人は、いつまでも太郎くんのテリトリーに居座ったりはしないから、吠えているうちにいなくなりますよね? 太郎くんは、だから吠えていればテリトリー内から去ってくれる、って思ってるんです」

「でもそれは、自分が家族を守ろうって思ってるからじゃ…」

 悠は笑顔を絶やさないままで、首を横に振る。

「今日ここにお邪魔する前に、公園で古屋くんと太郎くんに会いました。その時、太郎くんは彼の足の間に隠れてました。自分をボスだって思っている犬は、飼い主の前に立ちふさがり吠えたてます。ボスは、下位の者を守るのが仕事なんですから」

 そう、誤解されているのはそういう部分なのだ。吠えることは、唸ることも含めて攻撃の行動とは限らないのだ。

「仮に、小ずるいタイプの犬だったとしても、足の間で吠えます。近寄ったら黙っても、遠ざかったら足の間から出てきて吠えます。太郎くんは、ただ小さくなっていました」

 悠が言うと、古屋は先程の公園での悠の行動を思い出したようだ。

「だから、気にしなくてもいいんですよ」

 こうまで言っても、信じるのは今だけかもしれない。それでも、今だけでも気が楽になればと思う。

「……そうなんですか」

 古屋母は、気が抜けたように表情を緩め、ソファの背もたれに背中を預けた。

「てっきり…。散歩で出会った詳しい人が、熱心に言うから…」

「ええ、よくありますよね」

 テレビ、本、他の犬の飼い主など、情報源はいろいろある。それらすべてが間違っているとは言わないが、見極めが難しいことは多い。テレビなど、メッセージ性の強い部分のみを強調して伝えたり、伝え易い形にするために複雑な部分をそぎ落としたりした結果、誤解して伝わってしまっていることも多々ある。それでも問題ないこともあるし、問題が起こる場合もある。

「見分けのつきにくいこともあることなんですよ」

 今回の太郎のケースは、問題が起こったパターンだと言える。少なくとも、古屋母の心を悩ませたという点においては。アドバイスしたほうも、よかれと思ってやったことだ。それをとやかく言うつもりは、悠にはない。

「だから、ドッグトレーナーって仕事が成り立つんですよ」

 悠が茶化すように言うと、古屋母は吹き出した。

「本当に、そうね…。だから、テレビに出ているような研究者の方がいるのね…」

 誰にでも簡単にできることなら、職業として成り立つわけはないのだ。それは、ひとつの事実だが、一つの事実でしかない。本来は、飼う前にいろいろと調べるべきなのだ。人が子供を産み育てる際にも、専門家を頼っているのが現状だ。なのに、人間ではない生き物を飼うのに、専門の知識を入れようとしていない。それでも結果に問題がないのならいい。だが、現状は、飼いきれずに放棄されることもしばしばだ。飼いたい犬種が、自分のライフスタイルに合っているかどうかを調べるだけでも違うのに。

「ええ。僕たちは、犬が身近な動物すぎて、なんかいろいろ忘れてますよね」

 古屋母は肩の力が抜けたようでおだやかに微笑んでうなずいた。

 悠は、さて、と気を引き締める。ここからが最後の山だ。

「先程話した母ですが、いつも言ってたんです。人間が犬を変に擬人化したりしないで、犬っていう生物として見て付き合ってやれば、もっとステキな関係が築ける、って」

 古屋母は、わずかに表情をひきしめ、頷いて先を促した。

「でも、それは飼い主さんがすることなんですよ。ドッグトレーナーなどは、お手伝いしかできないんです。それから、別の飼い主さんに渡すのもダメです。それは、本当に本当の最後の手段なんです。どうしてだと思いますか?」

 今回は、古屋父が手放すと言っている。そうならないためには、この二人の努力が必要なのだ。

 悠は二人が答えるのを待たずに口を開く。

「太郎くんにとっての大好きな人たちは、あなたがた家族だからですよ。例えば、僕が太郎くんを連れて帰れば、古屋くんとお母さんよりは上手に飼えます。それは結果的に太郎くんの生活水準があがることになるかもしれません。でも、太郎くんは、大好きな家族から引き離されたと思います。僕は……僕も母も、犬たちにそんな思いはさせたくないんです。せっかく出会って家族になったんですから、そのご家族のかたに、ちゃんと向き合って、家族である犬に楽しい気持ちでいろんなことを教えてあげて欲しいんです」

 本当は、預かり訓練も、賛成したくはない。

 が、それが必要な時もあることを、悠は一応知ってはいた。

 知ってはいたが、心から納得はしていないので、こういう場合は敢えて言葉にはしない。問われれば、利点と欠点を添えて伝えることにしている。

 とりあえず、二人が納得したように思えたので、悠は小さく頷いてから微笑んだ。

「大丈夫ですよ。今まで上手くいかなかったのは、二人が太郎くんをよく知らなかったからです。一口に犬と言っても、いろんなタイプがいるんですから、それは仕方のないことなんですよ」

 悠は、瞳に力を込めて、話し出した。おそらく、この二人は悠の提案通りにするだろう、そう確信しながら。



「おかえりー」

 帰宅すると、環がリビングから顔を出し、興味津々寄ってきた。

 足の裏を拭かれた鉄子は軽くしっぽを振りながら環に寄り、ただいま、と言うように頭を上げる。

「鉄子、おかえり。良かったねえ」

 目を見ながらわしわしと頭を撫でると、耳がぶるんぶるんと揺れる。総じて環の鉄子の扱い方は乱暴だ。

「ただいま。お茶、飲むかい?」

 話を聞きたそうにして、じっと視線を向けてくる妹に、悠は言う。確か戸棚に、円の焼いたロールケーキが残っていたはずだ。

「私が入れる。悠ちゃんは鉄子に水飲ませて。喉が渇いたって。……お抹茶でいい?」

 キッチンに足を向けながら言う妹に、悠は眉を顰める。よりによって何故に抹茶なのか。

「おばあちゃんが羊羹を送ってくれたの」

「……ああ」

 母の田舎のほうで売られている羊羹だ。ずっしりしている割に甘さが軽い。もちろん、充分甘いのだが、それほどくどさを感じないのが、田崎家のお気に入りで、父も気に入っている。

「じゃあ、抹茶で」

「了解」

 右手の人差し指と中指をビッと揃え、敬礼の真似をして、環はヤカンを手に取った。

 悠は、窓際にある水入れを取りに行く。チラリと鉄子に目をやると、別段普段と変わることはない。だが、中に入っている水を捨て新しく水道水を入れて目の前に出してやると、スゴイ勢いで飲み始めた。多少は喉が渇いていることは想像できてはいたから、悠ももちろん鉄子に水を飲ませるつもりはあった。だが、ここまで水を飲みたがっているようには思っていなかった。正直な話、かなわないな、と思う。

--あの子は、本当に言葉が判るんだろうねえ。

 以前母が苦笑しながら言った言葉だ。それから、「お母さんも観察してるけど、環の域にはなかなか達しないわ」と、肩をすくめたのを覚えている。

--俺も、まだまだだな。

 そう思いながらも、だからこそ、今の環には人に教えることができないことを実感する。彼女は、犬側に立つことはできても、人側に立つことはできない。この先、犬と人との懸け橋になるためには、犬のことを人に伝えるための勉強が必要だ。おそらく、彼女がそういう仕事を選ぶことはないが。

 シャカシャカという、茶筅が茶碗をこする音がする。

 抹茶といっても、茶道をしているわけではないので、自己流だ。というか母流だ。母が言うには、母の家では、お客様にお茶を出す際に、ごく普通にお抹茶を出していたらしく、紅茶とか煎茶とかコーヒーとかと同列なのだそう。そのため、田崎家でもごく普通に、お菓子によって飲むものを変えていたが、小学生の頃になにかの折りに友人に言って驚かれ、あまり普通のことではないことを知った。環も円も同じような経験があったらしく、それぞれ興奮して母に報告していたのを覚えている。

「悠ちゃーん、入ったよー」

 とん、とダイニングテーブルの上に置かれる。その横には、小皿の上に厚く切られた羊羹が二切れ載せられていた。

「おお」

 リビングまで移動せずに、椅子に座り、添えられたフォークで羊羹を刺すと口に運ぶ。ねっとりとした口あたりが懐かしい味だ。考えてみれば、もう一年以上食べていない。

「なんか、すっごい久しぶりだな、これ」

「うん。この間おばあちゃんと電話で話しててこれの話になってね、そしたら送ってくれるって言うから」

「へえ」

 何気なく妹のほうに視線をやると、端っこのほうを、悠よりもさらに厚く切って載せている。

「この、端っこのじゃりじゃりがたまんないんだよね」

 えへへ、と満足そうに笑って、フォークで突き刺す。

「俺、それはイヤ」

「うん、大丈夫、それは私が担当するよ。おばあちゃんもあんまり好きじゃないんだって。なんか、買ってきてしばらく食べずに置いておいたのがあるからって言ってて、端がじゃりじゃりしてるみたいな話になって、私がそれが好きって言ったら、じゃあ送るって」

 ようやくどういういきさつで羊羹が送られてきたのか納得し、今度、円になにか作らせて送ろう、と心に決める。

「んー」

 羊羹を口に含んだ環は幸せそうに顔をほころばせる。

「やっぱり、美味しいー」

「うん、ちょっと違うよな」

 一切れ食べ終えたところで、抹茶を飲む。独特の苦さと甘さが口に広がり、ほっとする。

「うん。近くに美味しいのがないかなって思って、ちょこちょこ買ってみるんだけど、やっぱり違うんだよねえ」

 たまに羊羹がお茶菓子として登場する理由にが判って、悠は苦笑を漏らした。高校生のお小遣いではなかなかに高価なものだろうに、よほど好きなのだろう。

「ただいまー」

 玄関で、円の声がした。

「おかえりー。円ちゃん、羊羹あるよー」

「おー」

 返事のあと水の流れる音とウガイの音が聞こえる。

「どこのー」

 肩にかけたカバンを下しながら入ってきた円はどかっと席に着く。

「あ、それは!」

 包装紙に目をやり声を上げる。

「美味しいよねー」

 ヤカンを火にかけてから包丁を手に取る。

「厚くね、厚く」

「判ってるって」

 環が包丁を入れるところまで確認して、円は悠のほうを向いた。

「で、どうだったの?」

「あ、そうそう、私も聞きたいそれ」

 切った羊羹を皿の上に載せて円の前に出しながら環も言う。

「どんな子だったの?」

 悠は苦笑しながら、残ったもう一切れにフォークを刺す。

「まあ、シャイボーイだね。社会化不足に、おせっかい散歩友達のリーダーになれ助言」

 簡潔に伝えると、二人は曖昧な笑みを浮かべた。

「とりあえず信頼してもらえるよう話をして、あんまり下手なことを周りにも言わないように言って、いくつか課題を出してきた。あと、ブログをアップしてもらうようにして」

「なんとかなりそう?」

 心配そうに訊ねてくる環に小さくうなずく。

「太郎くんは良い子だからね。ダメでも榊原先生にお願いできるから、まあ大丈夫じゃないかな」

 よかった、と環は笑う。

「あ、環からも言っといて。おせっかいおばさんたちに、それは違うとか言わないようにって」

 もちろん悠もクギを刺しておいた。が、念には念を、だ。

 この先、少しでも良い方向へ向かえば、それをよその人に伝えたくなる。自分に間違ったことを伝えた人には、特に言いたくなることもある。下手な伝え方をしたら、それで人間関係がこじれることもある。悠が、ちゃんと資格を持って職業にしているような人間ならまだいいが、いかんせんただの素人だ。真面目に勉強してちゃんと犬をシツケられていると自負のある人たちは、他の素人に自分の意見を否定されるのを好まない。下手な反論をされて、古屋親子と悠との信頼関係にひびが入ることは避けたいことだった。

「了解。ねえ、可愛かった?」

「うん。ブラタンのロングコートのミニチュアダックス。ああいうのもいいね」

 黒地に、茶色が目の上、頬から顎にかけて、胸、足先に入っている、通称マロ眉のある毛色だ。

「おお、鉄子模様ね!」

「白い色は入ってないけどね。馴れると甘えてくる良い子だったよ」

「いいなあ、今度私も会いたいな」

「それは本人に交渉して」

 悠は笑う。

「あ、鉄子は褒められてたよ。すごく。鉄子もお仕事モードだったしね」

 家にいるときよりも心持ちビシっとして動いていた。鉄子もちゃんと判っていたのだろう。

「うん、帰ってきた時に疲れたけど充実したって顔してたもん」

 窓際に視線を向けると、フセの姿勢のまま頭を床にくっつけて寝ていた鉄子が、顔も動かさずに目だけを開けて視線だけを寄越した。ふん、と鼻息を漏らしたりするところが、なんだか偉そうだ。

「あとでブラッシングな」

 そう言うと、目を閉じてまたもや鼻息で返事をしてきた。

「『余は満足じゃ』だって」

 環がいちいち通訳してくれるが、これくらいなら悠にも判る。そう思ったが言葉にはせず、残りの抹茶を飲み干した。


―END―

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