悠の場合 1
長男の悠の話ですが、母親(園子)視点です。
園子は頭をかかえていた。
(育て方、間違ったのかなあ…)
長男の悠は、高校一年生。良い子に育ってくれたと思ってはいる。
料理はできる。勉強もそこそこできる。運動は好んではしないが、すごく困ることもない。誰よりも園子の犬に対する愛情を引き継いでいる。多少、意固地で意地っ張りで頑固なところはあるが、基本的には素直だ。
――が。
(このクソ意地っ張りめ!)
どこか困惑した様子で自分を見ている息子を、園子は頬を膨らまして見つめる。そして息を吐き出した。
「判った。じゃあ、これはお母さんからの命令。何かとにかく部活動をしなさい」
母の言葉を聞いて息子は眉をしかめた。
「部活動は生徒の自由のはずだよ。母さんに命令される筋合いはないでしょ?」
「生徒の自由っていうのは、学校側の方針。私は、高校の授業料を出している親として命令しているの」
悠はさすがに母のその言葉に呆れた。
「……横暴だって思わない? 子供の自主性を尊重しようよ」
「子供の自主性を尊重してばかりではいけないと、今、悟った。とにかく、命令。判った!?」
ぴしっと人差し指を悠に向けて、園子は立ち上がった。そして反論を聞く気は無いとばかりに鉄子の散歩に逃げた。
人当りもいい。頭もそこそこいい。でも意固地で意地っ張りで頑固な長男は、おそらく母の命令だから言うことをきかなければならないと思いはしないだろう。けれど、母親がどのくらいの気持ちで言っていることなのかは想像できるはずだ。
とはいえ。
(これじゃ、言い逃げだよねえ)
今日はどの散歩コースにしようかと道を選びながら、園子は肩をすくめた。
ことの起こりは、三年前だった。
ずいぶんと古い話だが、三年前なのだ。
中学校にあがったばかりの悠は、難しい顔で帰宅してきた。
「学校、どうだった? 楽しかった?」
と、ウガイと手洗いが済んだ悠に問いかけながら、園子はそうではないことを察していた。悠はそんな顔をしていた。
が、予想に反して彼は頷いた。
「うん。楽しかったよ。でも、問題があるんだ」
悠はキッチンに作業台のところに椅子を引っ張ってきて、カバンから教科書とノートを一式と、ペンケースを取り出した。
「問題?」
先を促すために、聞き返してみると、悠は頷いた。
「うん。生徒は全員なにかの部活動をしなくちゃいけないんだって」
「そうね。中学校での部活動は学習の一環だからね」
園子は軽く顔をしかめながら、学校の目的を説いてみた。
「でもさ、興味ある内容のものがあるわけでもないし、友達と先輩との付き合いも、部活動に入ってなければできないものでもないでしょ? それよりは、今まで通りにすぐに家に帰ってきて、予習復習して、家の手伝いをしたいよ」
「………」
園子は無言のまま長男の顔を見つめた。悠は、今日受けた授業の復習を始めていて、母の視線には気付かない。だから園子は、そっとため息をついた。
悠が小学校に上がった時に、専業主婦であることを活かして、予習と復習と宿題をすぐにさせるように徹底させた。友達と遊ぶという時には、友達を呼んで一緒にさせた。終わったら、晩ご飯の用意の手伝いをさせた。簡単な料理を教え、食材について教えた。それも、友達がいる時には一緒にさせた。二歳年下の円にも、三歳年下の環にも、もちろん同じようにした。興味を失わないように、危険がないように、飽きさせないように、習慣づけた。
その結果、中学年になるころには、ごく普通に予習・復習・宿題をこなし、兄妹三人で曜日ごとに炊事当番を決めて行った。三人とも、不満も持たずに行っていた。家にやってくる、彼らの友人たちは、その習慣を受け入れられる者たちだけが残っていったが、それについても、三兄妹たちは特になんとも思っていないようだった。少なくとも、それを表に出すことはなかった。
だから園子は、彼らが中学校に上がって、部活動を選ぶのを少し楽しみにしていた。家事手伝いなど、例えイヤな作業ではなくても、自分の好きなことを優先させたい時期というのはあるからだ。
だが、どうやら息子はそうではなかったらしい。部活動に参加するより、今まで通りの生活をしたいと言う。
(……なーぜー?)
確かに、長く続けさせるために、興味を持たせるように、辛くならないようには工夫をした。だが、炊事当番のために遅くまで遊べないことや、曜日を弟妹に替わってもらうよう事前に手配しなければならないことは一度や二度ではなくあり、それなりに悔しくて面白くもない思い出もあったはずだ。中学生ともなれば、部活動を言い訳にして面倒事から逃げたいと思ってもおかしくない時期なのに、と園子は思うのだ。だから、悠の意見は不思議でならない。
「決めるのにまだ時間があるんでしょ? じっくりあっちこっちを見て回ったら?」
だが、下手なことを言えば、この意固地で意地っ張りで頑固な息子はヘソを曲げてしまうことが容易に想像できた。とりあえず無難な言葉を伝えてみる。
「……うん」
悠は返事をしたが、母の言葉にそれほど納得しているようには見えなかった。
そして、それから毎日、日を追うごとに彼の表情は険しいものになっていった。
キッチンの作業台の隅に椅子を三つ並べ、三人がそれぞれ予習と復習をしながら、作業をしている母と言葉を交わすのが田崎家の毎日の習慣だ。友人のこと、勉強のことをそれぞれが口々に伝え、それぞれ会話する。その際に、悠は友人のこと、勉強のことは明るく楽しそうに話すが、未だ決まらない部活動のこととなると眉間に縦皺が寄る。弟と妹も自分たちの未知の世界である中学校生活については興味があるらしく、教科別に教師が違うことや部活動のことなどを知りたがり、最初のうちは根掘り葉掘り訊いていた。しかし、部活動のことになると、悠の態度が頑なになる。初めは適当な運動部名や文化部名を挙げていたが、どれも乗り気でない返事をするので、とうとう触れなくなってきていた。
「帰宅部、とかはないの?」
最後の手段、という気持ちで園子は言ってみた。本当は、なんでも良いので部活動に参加して、そういった世界も経験して欲しいと思っていたが、そればかりが学校生活ではない。予習・復習はともかく、家の手伝いを優先させなくてはならないと思っているわけでもないのなら、自由にさせてやるのもありだと思ったのだ。
そんな母をチラっと見て、悠はノートに顔を向けながら小さく息を吐いた。
「ダメなんだって」
自分の中学校時代にも、なんだかんだでどこかの部活動に参加させられたのを思い出し、園子は息を吐く。
「どっか、楽なところに入ればー?」
と言ったのは円だ。文化部の中には活動が週に一回程度しかない部活動もあるだろう。どうやら、友人からいろいろ聞いてきているようだった。
「……うん。それも考えたんだけど」
そうは答えるが、園子は悠がそんなことはしないことを知っていた。そういう器用さを持ち合わせていたなら、眉間に縦皺が寄るなんてことにはならないのだ。
そして結局、悠は「自由研究部」という部――というか、研究会を作った。部員はその時点で悠一人。部として認めてもらうにはもう二人は集めねばならない。が、すぐには集まりそうもなかったので、研究会として、活動をすることになった。
どんどん険しくなる眉間の皺と頑なな態度にイライラした園子が、ママ友に愚痴っていたところ、中学校のとある先生に相談すれば?とアドバイスをくれたのだ。円の友人の母である彼女は、悠と同じ中学に通う二年生の娘がいて、その娘から話を聞いたという。
世間話に紛れさせ、悠にそのことを伝えると、彼はすぐさま行動に移したらしい。晴れやかな表情で「自由研究部」というものを作ったと報告してきた。まさかそんな手に出るとは思っていなかった園子は唖然としながらも訊ねてみた。
「そこで何を研究するの?」
「犬の行動学……など」
悠は小さく頷いて、ちょっと照れたようにそう告げた。
園子から聞いた話をヒントにその教師を探し、相談したのだと言う。
何がしたい、ということから丁寧に聞いてくれたその教員が、新しい部活動を作れば良い、とアドバイスをくれ、設立するのも手助けをしてくれたのだ。
悠が一番やりたかったのは、犬についての勉強だった。そのことを告げると、その教師は、生物部ではどうか?と聞いてきた。が、訓練やドッグスポーツにも手を伸ばしたいと考えた場合、生物部では活動範囲が狭められる可能性が出てくる。実際、現在の生物部は植物やもっと小さな生物の観察をメインにしているらしい。そんな中で一人犬と戯れるのも他の部員からは快く思われないだろうし、悠自身、他の小動物にはまったく興味がないのだ。そう言うと、ふむ、と考えた教員は、自由研究部というのを作ってみては?と提案してきたという。既存の部活動ではできない活動をやりたい生徒が誰でも参加できるように、と。部活動の顧問も引き受けてくれたのだという。
「……良かったわね」
ほかに何とも表現しようがなく、園子はそう言った。
「うん。でも、先生も、漠然とそういう部活動が欲しいと思っていたみたいだよ」
と、悠は随分とご機嫌だ。
だが、妙に都合よくことが進んだことを、園子は素直には喜べなかった。
三年前のことを冷静に、客観的に考えてみると、要するに息子が大して困らなかったことが面白くなかった、ということになる。それはさすがに母親としてどうかと思うので、当時の園子はそれ以上何かを言うことはしなかった。
が、三年間、自分の気持ちの整理のためにことあるごとに思い出し考えた結果、ひとつの結論に至った。
――固い信念が必ずしも通るとは限らないことを知る、とても良い機会だったのでは、と思っていたのだ。
悠は、とても頑固で維持っぱりで意固地だ。一見あたりが柔らかい素直な性格に見せて、その実わけの判らない信念でもって自分の意志を通すことがたまにある。たまに、なのは悠の基準ゆえであって、何度かあるうちのいくつかで意志を曲げて譲っているわけではないと、園子は見ていた。優柔不断よりはマシという意見もあるだろうが、過去何度かあったその場面で、悠は自分の意志を結果曲げざるを得ないようなことにあったことがないのだ。母親としては、早いうちに挫折を知っておくべきではないか、と思ったのだ。
だが、それは部活動をさせることの目的とは少し違う。だからあの時に文句を言わなかったことは結果オーライだと、園子は思った。……思うことにした。今さら言っても仕方のないことでもあるので。
そして、三年が経ち、悠は高校での部活動で、また困っていた。やはり、またもや入るべき部活動が見つからないと言うのだ。しかし、部活動の数がとても多いので、まだどこかに何かあるとも思っているらしい。思いついた端から見学をしたり、部活動の内容を調べたりはしているようだが、時折様子をうかがうと、一応現状を教えてくれるが、芳しくないようだ。
今回は、中学校の時と違い、強制ではない。強制ではないが、推奨ではある。だから、どこかへ入るつもりはあるようだが、最終手段としては帰宅部と考えているのは、間違いなかった。
部活動をだいたい八割がた調べたところで、悠は、入らないことにした、と園子に伝えた。中学校時代のことがあるので、園子はあからさまに眉をしかめた。
「あと二割くらいは調べてないんでしょ?」
不機嫌そうな母親を見て、悠は困惑の色が隠せない。
「そうだけど、その二割って、一目でどんな部活動かわかるようなのばっかりだよ? バスケ部なんて、入らなくても活動内容が判るようなのはわざわざ調べないよ」
「じゃあ、その二割の部活動を全部言える?」
言いながらも、園子はそれが無茶振りであることは自覚していた。
「言えないけどさ、でも、そこまでして部活動しなくてもいいと思ってるし」
ちょっとムッとしたように返事をする悠に、園子は、思わず作業台を両手で叩いていた。
驚いた顔で自分を見つめる息子に言ったのが、「絶対に部活動をするべし」宣言だった。
むぅ、と頬を膨らましたまま、玄関先で躊躇する。傍らの鉄子が不思議そうに見上げるのに小さく苦笑を返して、えいや!とドアを開けた。言い逃げしたことで、どうにも決まりが悪い。それでも、帰らないわけにはいかないことも判っていた。
「ただいまー」
何気ないふうを装って入っていく。散歩をしながらいくら考えなおしても、ここは譲れない、という結論しか出ないのだ。ならば、今はまだ謝れないし、後悔の素振りも見せられない。
キッチンに入っていくとそこに長男の姿はなかった。
「母さん、悠ちゃんに何言ったの?」
内心ほっとしていると、円が顔をしかめてそんなことをきいてきた。隣で環もちょっと不安そうな顔をしている。
「んー?」
実際のところ、三年前の悠の行動は、下の二人にも微妙に影響を与えている。二人とも、部活動を選ぶのにそれなりに苦労したのだ。二人とも、悠と同じように、家の手伝いを優先させねばならないとは考えてはいなかったが、それでも、興味があるからとか、友人に誘われたからとか、そんな理由で選ぶことを良しとはしなかった。妙に生真面目なのは自分に似たのか、と思うこともあったが、そうだとしても今さらどうにもできない、そう思って見守ることに徹した。結果、円は女子ばかりいる料理部へ、環は悠が作った自由研究部へ。時間いっぱいを使って、決めた。偶然、環の担任は悠の一年の時の担任と同じで、三者面談の時に、悠と似ている部分があると、それとなく言われた。特に意味のない言葉かもしれなかったが、園子の心には突き刺さっていた。
だから、円にどうこたえるか、ちょっと思案した。
「悠ちゃんはなんて?」
「母さんは横暴だ、って」
「ふふふふ」
「そんなことは判ってるけどさ」
嬉しそうに笑うと円はそんなひどいことを言う。
「なんで、絶対に部活動をしなきゃいけないの?」
顔をしかめて円が言うと、横で環も小さく頷く。
「悠ちゃんには必要だから、かな?」
二人は首を傾げる。
「んー」
納得いかない、といった表情の二人を見比べて、園子は小さく笑った。
「上手く説明できないなあ…。いつか判るわよ、二人にも」
たぶんね。という言葉は敢えて言わずにおく。
「今は判らないってこと?」
食い下がったのは環だ。
「うん」
それに笑顔で頷いて、さっさと話題を変えたのだった。
そして数日後。悠は部活動を決めてきた。
正直なところ、もっと揉めると思っていた園子には拍子抜けするような感じがした。
というか、やけにあっさりと決まった気がして、なにやら悔しい思いがしたのだ。
(なんで悠に対してはこんなに意地悪なのかな、私)
中学校の時と比べても、決まるのには時間がかかっているのだから、決して「あっさり」ではないのに、どうしてもそういう気持ちになるのだ。
が、悠自身も、どうも納得いってない様子だった。
報告してきた日も、顔に「不本意」と大きな文字が書かれたような状態だったし、部活動に参加を始めてからも、その話をすることには抵抗があるようだ。
どうやら、悠は悠で、母に言われた直後に興味のある部活動が見つかったことが悔しいらしい。
仕方ないので
「この間は言い過ぎた。ごめん」
と、園子から謝った。
(大人だからね)
と何度も自分に言い聞かせて、平生を装っての言葉だ。悠は小さく頷いただけだった。
悠が入部したのは「桜部」という、高校独特の部活動だった。もとは園芸部の一部で、校地に植わっている桜の木の世話をしていたのだが、活動が専門化するにつれ、桜目的で入部する生徒とそうでない生徒に分かれ、独立したと言う。剪定、消毒、採種など、一年を通じての活動は、その本数が多いが故になかなか忙しい。が、悠はそれが楽しいらしく、園子がオトナの対応を見せてからは、以前のような調子で報告をするようになった。
それでも、部活動にいそしむ悠は帰宅が今までよりも遅くなったため、勉強は自室(円と同室)でするようになり、少しばかり会話が減った。当番制の食事の用意は、週に二回きちんとしている。園子は部活動を優先させても良いと言ったが、頑なに拒否し、どんな簡単なものでもしっかりと夕食の用意をしている。そこは譲れない何かが彼の中にあるのだろうと思われた。
だが、それを見て、きっと同じようにしなくてはならないと思ってしまっているだろう弟と妹を、園子は不憫に思うのだった。
(まあ、二年後、三年後にどう考えるかは判らないか)
と、思い直し、今までは悠の口からはほとんど出てこなかった「先輩が」という言葉を嬉しく聞くのだ。その程度のことが嬉しいことに、我ながら単純だと思いつつ、園子は今日も鉄子の散歩に行くのだった。
―END―