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32話『無力な進軍:B3への階段』

無菌室の扉が、重く、静かに開いた。

その先に広がっていたのは、拍子抜けするほど簡素な踊り場だった。

装飾も、機構も、罠の気配すらない。

ただ――「上へ行くためだけに設計された空間」。

ダリストはそこへ足を踏み入れる。

「……何もないのか」

声は乾いていた。

今の自分は、文字通りの裸だった。

拳を握っても、爪はない。

肩に触れても、銃身の重さは戻らない。

かつて“武器”と呼べたすべては、この階層で「最初から存在しなかったもの」として処理されている。

破片すら残らない。

思い出す余地すらない。

この場所はそういう設計だ。

――余白そのものを、消す構造。

足裏に伝わるコンクリートの冷たさが、じわじわと現実を侵食してくる。

ここにいるのは、世界を喰らう怪物ではない。

ただの、人間だ。

「ハッ……笑えねぇな」

乾いた息が漏れる。

世界を喰らうと言った男が、今は寒さに肩をすぼめながら階段を上っている。

だが、それでも足は止まらない。

一段。

また一段。

上層に近づくにつれ、空気が変質していく。

B4の完全な無臭とは違う。

鼻腔を刺すのは、微かな刺激臭。

焦げた絶縁体。

焼けた金属。

そしてその奥に沈む――腐敗しかけた有機物の気配。

「……見えてきたぞ」

階段の先。

B3の重扉の隙間から、青白い蛍光灯が不規則に瞬いている。

そこには“汚れ”がある。

確実に、生の歪みがある。

武器はない。防具もない。

あるのは、赤く濁った視界と、空虚な腹部。

そして――機能を失ってなお残り続ける「飢え」だけ。

ダリストは一度、自らの掌を見下ろした。

そこにあるのは、戦うための肉体ではない。

だが同時に、“喰らうための器”だけは、まだ消えていない。

彼は迷わず、扉へ手をかける。

――喰らえばいい。

その思考は、もはや意志ではなかった。

呼吸と同じ、反射。

B3の扉が開いた瞬間、世界が“質”を変える。

鼻腔を突いたのは、B4とは真逆の臭気だった。

薬品。焦げた有機物。

そして、何かが“生まれながらに腐っている”ような匂い。

青白い蛍光灯の下。

ダリストの紅い双眸が、それを捉える。

そこに“いた”。

「……ッ、何だ、ありゃ……」

全長三メートルを超える異形。

ムカデに似ている。だが違う。

節ごとに生えているのは脚ではない。

――人間の手と足だった。

男のもの。女のもの。子供のもの。

数百、数千の四肢が胴体に縫い付けられ、意味もなく蠢き続けている。

指先が空を掻く。

足が虚空を蹴る。

それぞれが別々の夢でも見ているかのように。

それらは工房全体に、不快なリズムを刻んでいた。

異形はその無数の“手足”を器用に使い、フラスコを持ち、試験管を振り、緑色に泡立つ薬液を淡々と調合している。

顔は白い仮面で覆われている。

感情は読めない。

だが仮面の奥、裂けた口から覗く黒い牙だけが、呼吸のたびにカチ、カチと金属音を鳴らしていた。

それは咀嚼ではない。

作業だった。

やがて異形は動きを止める。

数百の手が一斉に静止し、仮面の奥の“視線”だけがダリストへ向けられる。

侵入した存在。

B4で剥がされ、何も持たない状態へ戻された“裸の不純物”。

ダリストは自分の掌を見下ろす。

武器はない。

防具もない。

異能も沈黙している。

ただの人間。

その事実だけが、静かにそこにある。

――だが。

赤く濁った双眸だけは、まったく別の答えを出していた。

恐怖ではない。

絶望でもない。

もっと単純で、もっと原始的なもの。

飢え。

「……上等だ」

低く、声が落ちる。

「その“汚れた手足”……全部、喰らい直してやる」

裸の青年は、一歩踏み出した。

その瞬間――B3の工房が“反応”を開始する。

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