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意識したところで、日常は変わらない。
習慣も、交わす言葉も、この部屋に流れる空気も。
そして、己が履いた“嘘”の重さすらも。
「完全に熱が下がりました!これで、また一緒に眠れますね!」
無邪気、という言葉では生温い。
無垢、という言葉ですら今の俺には毒にも等しい。
嬉しそうに語るタチの悪さは、『境界』の魔物などよりよっぽど凶悪だといえる。
時々見える幻覚。
もしフィオナに犬のような尾が生えていたなら、今頃は風を切るような音を立ててブンブンと振られていたに違いない。
相変わらず彼女の表情に大きな変化はないが、わずかに弾む声と、そわそわとシーツの橋を整えるその指先が、隠しきれない喜びを物語っている。
今俺に向けられているのは、そんな彼女の濁りのない、純粋な信頼の眼差しだ。
(……数日前の俺は、一体何故この光景があると予想できなかったんだ?)
己の愚かさを呪うこと数十回。最早、数えることはとうに諦めている。
恋心などという甘い言葉で呼ぶには、あまりにも泥臭い執着。
それを自覚した今、無防備な彼女を腕に抱いて何もしないと言い切れる自信がない。
まったく、これっぽっちも、微塵も、だ。
故に、こちらは諦めるわけにはいかない。
「……──フィオナ、今日から寝台は別にしよう」
「!」
見開かれた大きな瞳が、こぼれ落ちそうになる。
数秒の静止。
シーツを整えていた指先は、ぎゅっとそれを握りこむ。
「そう、ですか……」
ペタン、と。
今度は垂れた犬耳の幻覚が見えるほど、わかりやすく彼女がうなだれた。
今にも消え入りそうな声で聞き分けよくそんな風に返されてしまっては、とんでもない罪悪感が胸を抉る。
言葉は従順なそれだが、その瞳は、雨の中に置き去られた仔犬のように、雄弁に悲しみを訴えてくる。
「いや、今のなし」と言いそうになる喉を、鋼の意志を持って抑え込む。
……大丈夫、こうなることは予想していた。あまりの光景にちょっと、揺らぎそうになっただけで……彼女を動かすだけの“とっておきの切り札”を用意してあるのだから。
「誤解しないでくれ。これは──訓練だ」
「訓練……っ!?」
劇的な変化だった。
先ほどまでの悲壮感は霧散し、彼女の背筋が、まるで戦場に立つ兵士のように凛と伸びる。
相変わらず例の寝巻き姿で、シーツを握ったままであっても。
その瞳には、歴戦の勇士の如き鋭い光が宿っている。
「熱にうなされている間、寝相がだいぶ落ち着いていただろう」
「……たしかに、そうでした」
俺の切り札に、彼女がハッとしたように己の胸元に手を当てる。
よし、食いついたな。
「常にフィオナの傍にいられるとは限らない。俺無しであってもその悩ましい……違う、悪癖である寝相を律することができるか……一人で眠る夜にこそ、真の自制心が問われると思わないか?」
「たしかに、おっしゃる通りです!」
誰の自制心が問われているんだか。
相変わらず、心配になるほどちょろい……いや、素直すぎる彼女に安心した。
感銘を受けたように力強く頷く彼女を見て良心が痛んだが、背に腹は代えられない。
これは彼女を守るため、そして俺の理性を守るための正しい使い方のされた嘘である。
「……ですが、カイル殿はどこで眠るのですか?寝台の規定はなかったと思いますが、儀式の一環で寝室は共にしなければならないと仰せしたが……」
「俺はまだ……執務が残っている。戻ってきたら寝台に入らせてもらうよ」
「そうでしたか。こんな時間まで、本当にお疲れ様です!」
嘘を嘘で塗り固め、丁寧にコーティングされたその上から純粋な労いの言葉までかけられて。
内心、己という人間の卑劣さに顔をおおいたくなったが……これでいい。
まずは今夜。
それさ乗り切れば。明日、彼女が目覚める前にそっと部屋に戻りさえすれば。
万事解決、そのはずだった。
本当に、心の底から──というには嫌な予感はかすめていたが──信じていたのだ。
数時間後。
朝を知らせる陽光の中、フィオナのいないベッドを前にして。
散々探し回った挙句、まさかという思いでたどり着いた厩の中で丸くなるフィオナを前にして。
彼女の、最早呪いのレベルまで達した寝相が、本当に悪すぎるものなのだと、思い知らされるまでは。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
続きはまた二日後、18時ころに……と、言いたいところなのですが、
ストックがなくなったのでここからのんびりペースになります。
のんびりお付き合いください。




