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5話 “魔術”の基礎

夕食を終えた後の居間には、暖炉の火が静かに揺れていた。

外はすでに夜気が満ち、窓の向こうでは冷たい風が木々を鳴らしている。


ディートリヒは机の前に腰掛け、白い紙を一枚引き寄せた。その様子を、シグルズは少し緊張した面持ちで見ていた。


「さて、シグルズ。“魔術”の話をしよう」

「……はい」


シグルズは背筋を伸ばした。

魔術。稽古場でグンナルが炎を纏わせたあの光景が、脳裏に焼き付いている。


「まず、勘違いしやすいことから言っておこう。魔術は、誰でも使える力ではない」

「……魔力がないと、使えないんですよね」

「正確には、魔力を“操る適性”がないと使えない、ということになりますね」


ディートリヒは静かに言い直す。


「魔力そのものは、ほとんどすべての生き物が持っている。人間も、獣も、虫ですらね。しかし──それを意図して動かせるかどうかは、話が別です」

「それが……適性、ですか」

「そう。しかもその適性は、努力よりも血筋に左右される」


ペン先が紙の上を走り、簡単な円と幾何学的な線が描かれていく。


「君の実の母親は、おそらくうちの家門の騎士です」

「……はい」

「君が魔力の適性を持っている可能性は高い。魔術適性は、親から子へ受け継がれることが多いからね」


シグルズは、胸の奥がわずかに熱くなるのを感じた。


「では、魔術とは何か」


ディートリヒはそう言うと、紙の上に描かれた図形に指を置いた。


「魔法陣、詠唱、刻印──そういった“術式”を用意し、そこへ魔力を流し込むことで発生する現象。それを魔術と呼ぶ」

「……現象」

「火を生む、氷を生む、刃を生む。だが、あくまで起きているのは“現象”だ。奇跡ではない」


次の瞬間だった。


ディートリヒの指先が、淡く蒼い光を帯びる。

紙の上の魔法陣が静かに輝き、まるで水面から浮かび上がるように──蒼色の剣が形を成した。


「……!」


シグルズは思わず息を呑む。

それは実体を持つ剣でありながら、どこか儚く、冷たい光を宿していた。


「これも魔術です。紙に描いた簡易術式に、最低限の魔力を流しただけのものだがね」


ディートリヒは軽く指を払う。

蒼剣は霧散するように消え、紙には魔法陣だけが残った。


「だが、人間に宿る魔力は多くない」

「……どれくらい、ですか」

「小規模な魔術でも、せいぜい三回。そこで魔力は枯渇する」


淡々とした声だった。


「戦況を左右するような戦術的魔術なら、一回で終わりだ。連続使用など、ほぼ不可能だと思っていい。」


ディートリヒは一瞬だけ目を細める。


「──“魔女”ぐらいのものだろう」


暖炉の火が、ぱちりと音を立てた。


「さらに言えば、魔力が枯渇すると、なぜか身体能力も落ちる。剣も鈍るし、判断も遅れる」

「……危険ですね」

「だからこそ、騎士は魔術を奥の手として使うのです」


ディートリヒはそう言って、右腕の袖を捲った。


そこには、刺青のように刻まれた紋章があった。

剣を模した意匠。その線は皮膚の下に沈み込み、微かに魔力の気配を帯びている。


「戦場で魔法陣を描いている暇はない。だから、多くの騎士はこうして身体に術式を刻む」

「……これが、術式」

「そうだ。ただし――」


声音が、少しだけ厳しくなる。


「術式は、刻む内容が体質と魔力の性質の両方に合わなければ刻めない。無理に刻めば身体を壊す。しかも二つ以上刻めば、最悪、命に関わる」


ディートリヒは袖を戻し、静かに言った。


「魔術は一朝一夕で身につくものではない。まずは詠唱を学び、魔法陣を理解し、自分に合う魔術を研究する。それからです」

「……じゃあ、僕は」

「焦ってはいけません。まずは、魔力を感知するところからです」


ディートリヒは小さく笑った。


「それに、基礎的な筋力、持久力のトレーニングをおろそかにしてはいけませんよ」


その言葉に、シグルズは静かに頷いた。



それからはただひたすら剣を振り続ける日々が続いた。


まずランニングでは、吐くこと自体は相変わらずだったものの、置いていかれることは少なくなった。気づけば、ただ後ろについていくだけでなく、列の先頭に立って皆を引っ張ってゆくほどに走れるようになっていた。

時折、全身に甲冑を着込んだまま走らされることもあり、最初はあまりにも過酷だったが、走り込みを重ねるうちに身体が順応していった。


次に筋トレ。筋トレを積み重ねるうち、ガリガリで華奢だった身体には、徐々に筋肉がついていった。ディートリヒ邸の栄養豊富な食事のおかげである。腕も胴も脚も、無駄なく固く引き締まっていった。


素振りは、誰よりも多くこなした。形が崩れれば最初からやり直し、美しい軌道を求めて、何度も同じ動作を繰り返した。いつの間にか、千回振ってもすべて同じ軌道を通せるようになっていた。手のひらの皮は剥けるたびに厚くなり、指も以前より太く、逞しくなっていた。


それと並行して、騎士の奥義である“魔術”の修行も進められていった。はじめは体内の魔力を感知するための最も基礎的なトレーニング「瞑想」から始まり、魔術の原理となる“術式”についても勉強を進めていった。


稽古の最後には、いつも決まって模擬戦を行う時間が設けられた。はじめのうちは一方的に打ち倒されるばかりだったが、敗北を重ねるうちに少しずつ成長し、勝てる相手も増えていった。徐々に見習い騎士たちの中では頭ひとつ抜けた存在になっていった。


それでも──“氷の剣姫”ラグンヒルドには、一度も勝てなかった。


「……また、あなた?」


淡々とした声が、空気を切る。


「私に勝てないということくらい分かっているはずよ。それなのにどうして毎日私に挑んでくるのかしら」


シグルズは一礼し、剣を握る手に力を込めた。


「はい。分かっています。それでも、殿下と手合わせすることが、強い騎士になるための最短の道だと思っています」


ラグンヒルドは眉ひとつ動かさずに言葉を受け取った。


「随分と乱暴な理屈ね。どうして、そこまでして強くなりたいの?」


問いを投げかけられ、シグルズは言葉を失った。視線が一瞬だけ下がる。


父が倒れた日のことが脳裏をよぎる。父の帰りを待つだけで、なにもできなかった自分。孤児院で怯える子供たちの前で、結局なにもできなかった現実。


胸の奥が、静かに締め付けられた。


「……強くならないと、守れないものがあると気づいたから。だから……強くならなきゃいけないんです」


ラグンヒルドはしばらく彼を見つめ、それから静かに口を開いた。


「貴方、空っぽね。……たとえ強くなかったとしても、別の方法で大切なものを守ることはできるし、それは本当に貴方が強くないと守れないものなのかしら。……無理やり理由を用意したようにしか思えないわ」


突き放すようでいて、そこに嘲りはなかった。青く澄み切った瞳が、ただ真っ直ぐ少年の台詞を見透かしていた。


「私は、なぜ貴方がそんなに一生懸命なのか理解できないの」


彼女の冷たい表情に、シグルズは一度、息を吸った。

そして、逃げるような言葉ではなく、今の自分に残っている正直さを選んだ。


「……じゃあ、今はただ、貴女に勝ってみたい。それだけです」


その言葉に、ラグンヒルドはほんの一瞬だけ目を伏せた。


「……そっちの方が、素敵よ」


呟きは風に紛れるほど小さかったが、確かにそう言った。

次の瞬間、彼女は何事もなかったかのように剣を構え直す。


「来なさい。今日も、全力で倒すわ」


シグルズは深く頷き、剣を構えた。

結果が変わらないことを知りながら、それでも一歩、前へ踏み出す。


──その日もまた、彼女に勝つことはできなかった。


彼女は多くの場合、素振りからしか稽古に参加しないが、ときおり最初から最後まで通して稽古に加わることがある。その際も、顔色ひとつ変えず、息を乱すこともなかった。


剣術でも基礎練でも、彼女を上回ることはできなかった。唯一、純粋な馬の扱いだけは自分のほうが勝っていると思えたが、馬上での戦闘となると話は別で、そこではやはりラグンヒルドのほうが一枚上手だった。


シグルズはほぼ毎日、ラグンヒルドに模擬戦を挑んだ。しかし彼女の動きを見切ることはできず、結局一太刀も浴びせられないまま、一年が過ぎていった。


稽古の習熟が認められ、正式な騎士として叙任されることが決まった。



王宮の奥、玉座の置かれた広間は、静謐と荘厳さに満ちていた。

一面がガラス張りとなった壁からは柔らかな光が降り注ぎ、床や柱に反射して、空間全体を白い輝きで満たしている。まるで城そのものが光を宿しているかのようだった。


玉座の背後には、かつて魔王を討ち取った英雄の一人──初代騎士王ハーラルドの彫像が据えられている。剣を携えたその姿は、時を超えてなお王国の礎を見守り続けているかのようであった。


玉座の前に立つのは、騎士王グレイムだった。

その足元で、シグルズは静かに両膝をついている。


広間の壁際には、ディートリヒを筆頭に、王宮に常駐する騎士たちが整然と並んでいた。白いマントを羽織った正装の姿は一糸乱れず、誰一人として視線を逸らす者はいない。


グレイムは、ウィンターネル領で初めて対峙したときとはまるで別人のようだった。王族としての威厳ある装束に身を包み、腰には煌びやかな装飾が施された剣を帯びている。その佇まいだけで、この国の頂点に立つ存在であることを雄弁に語っていた。


やがて、騎士王はシグルズを見下ろし、低く、しかしよく通る声で口を開いた。


「まさか、たった一年で正式な騎士として叙任されることになるとはな。あの日のお主からは、想像もできぬことだ。……見習い騎士としての期間を一年で終わらせた者は、吾輩が知る限り、“蒼耀卿”ディートリヒ以来だ」


騎士王は腰に携えた剣を静かに引き抜いた。

白い光を受けて刃が煌めき、その冷たい輝きが、ゆっくりとシグルズの左肩へと添えられる。剣先の重みが、これから背負うものの重さとして、はっきりと伝わってきた。


「シグルズ・グラシエル。この剣をもって王と国に仕え、

その命ある限り、民を守り抜く覚悟はあるか」


喉がわずかに鳴った。だが、迷いはなかった。

シグルズは背筋を伸ばし、前を見据えたまま、はっきりと答える。


「はい。我が剣と命、すべてをもって誓います」


その声は、シグルズ自身が驚くほど落ち着いていた。

騎士王は一瞬だけ目を細め、そして厳かに告げる。


「よろしい。その覚悟を認め、ここに汝をイゼルフロスト王国の正式な騎士として叙任する」


剣が肩から離れると同時に、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。大きな拍手が部屋中に響き渡った。


……特に指導騎士であったグンナルは号泣し、涙と鼻水を流しながら誰よりも大きな拍手を送っていた。


騎士王グレイムは一度、玉座の背に深く身を預け、広間を見渡した。その視線が再びシグルズへと戻ると、先ほどまでの厳粛さとは異なる、どこか含みを持った声音で口を開く。


「さて、お主にお願いする任務についてだが──それはな、お前がグラシエル家の養子となった時点で、実はすべて決まっておった」


言葉を区切り、確かめるように続ける。


「グラシエル家は、王族の護衛を一手に担う一族。王宮に常駐する近衛兵を束ね、王とその血を守ることこそが、その本懐である」


その視線が、壁際に整列する騎士たち──白いマントの列へと一瞬だけ向けられる。


「……もう察しがついているかもしれぬな。皆まで言わせてもらおう」


グレイムはわずかに苦笑し、しかし次の言葉には父親としての色が滲んだ。


「吾輩には、お主と年のそう離れていない娘がおっての。これがまた、正式な護衛騎士もおらず、無断で城を抜け出し、騎士の稽古に参加するほどのやんちゃ娘でな……。そろそろ、正式な護衛騎士をつけるべき時だと考えておった」


小さく息を吐き、玉座の肘掛けに指を置く。

そして、はっきりと言い切った。


「お主にお願いしたいのは、その役目──護衛騎士である。

シグルズ・グラシエル。お主を、我が娘──第3王女ラグンヒルド・イゼルフロストの護衛騎士として任命する」


その宣告は、玉座の間に重く、そして確かに響き渡った。

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