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1話 フロスビュの馬乗り

ノルディア大陸の高緯度に位置する極北の騎士王国イゼルフロスト──夕暮れ時には空が淡い橙と薄紫に染まる秋の季節となり、冷たい風が高原の草原を撫でていた。

そこは国境にほど近い辺境、高原の村フロスビュの放牧地だった。


灰色の髪をした少年が、馬に跨り羊の群れを追っている。

少年の名はシグルズ。まだ幼いながらも手綱さばきは見事で、馬と一体になるように動き、羊たちを巧みに小屋へと誘導していく。


「シグルズ。羊を集めるのも、ずいぶん上手くなったな」


背後からかけられた声に、少年は振り返った。

そこに立っていたのは、がっしりとした体躯の男──父のラゼルだった。


「さすが、俺の息子だ」

「父さん!」


シグルズは誇らしげに胸を張る。


「そろそろ夕飯の時間?」

「ああ。もう晩飯はできてる。家に戻ろう」


馬を厩舎まで連れていった後、二人は並んで家路についた。



家の中は暖炉の火で暖かく、木の香りが満ちていた。

壁には一振りの直剣が飾られている。その直剣は──かつてこの家にいた母の剣だった。

母はシグルズを産んだのち、治らぬ病に伏し、すでにこの世を去っている。

その存在を偲ばせるのは、今やこの剣だけだった。


食卓には、父が作ったシチューが並んでいる。肉と根菜がたっぷり入った、シグルズの大好物だ。


「……俺の母さんって、どんな人だったの?」


スプーンを動かしながら、ふとシグルズが尋ねる。


「強くて、勇敢で……それから、とても綺麗な人だった」

「どれぐらい強かったの?」

「どれぐらい、か……」


ラゼルはしばらく考え込み、やがて口を開いた。


「剣の腕だけなら、父さんのほうが強かった。たぶんな。けど──心は、父さんの何倍も強い人だったよ」


シグルズは黙って頷いた。


「……そうだ。今日はな、シグルズに渡すものがある」


ラゼルは立ち上がり、小さな革袋からペンダントを取り出した。


「父さんの故郷では、一人前の馬乗りになった者に、こうしてお守りを渡す慣習がある」


それは素朴ながらも丁寧に作られたペンダントだった。


「これさえあれば、決して落馬することはない。……そして、これを身につけていれば、お前はきっと母さんのような女性と巡り会える」


ラゼルは真剣な眼差しで言った。


「肌身離さず持っておくんだぞ」


「……ありがとう。絶対、大事にするよ」


シグルズはペンダントを握りしめた。

──そのときだった。

遠くから、悲鳴のような声が風に乗って届いた。


「……悲鳴? 村の方から……?」


直後、激しいノック音が扉を叩いた。

扉を開けると、そこに立っていたのは村長の妻、アストリだった。彼女の顔色はとても悪く、息も絶え絶えだ。


「ラゼルさん! 助けてくれ!」

「アストリさん、どうしたんだ?」

「でっかい……竜みたいな魔物が現れて、村が襲われてるんだ!近くの騎士団の駐屯地にも伝令は送ったけど……」


フロスビュは国境沿いの辺境の村だ。騎士団が駆けつけるには、どれほど急いでも三時間はかかる。


「退治に向かった衛兵さんが……やられちまった!」


ラゼルはすぐに状況を理解し、静かに頷いた。


「わかった。すぐ向かう」


そして振り返り、シグルズに言う。


「シグルズ。壁に掛かってる、父さんの剣を取ってくれ」


シグルズは言われた通り、母の形見である直剣を鞘ごと差し出した。

シグルズは心配そうに父親を見つめるが、そんな息子の心配を見抜いたように父は口を開いた。


「心配するな。すぐ戻る。父さんは強い」


ラゼルは息子の灰色の髪をくしゃりと撫でると、馬に跨り、集落へと駆けていった。


──だが、この日。

「すぐ戻る」と言った父が、家へ帰ることはなかった。


次の日の朝、再び訪れたアストリから、ラゼルが竜を討ち果たしたこと、しかし戦いの途中で致命傷を負い、戦いの後に息を引き取ったことを、シグルズは知らされた。

毀れた直剣を見せられ、シグルズは呆然としていた。母の形見である直剣は、今や父親の形見にもなってしまった。


アストリは「うちで一緒に暮らそう」と言ってくれたが、シグルズはそれを断った。村も甚大な被害を受け、彼女の家にも他所の子を育てる余裕がないことは、子供ながらに理解していたからだ。


シグルズは両親の形見である一本の毀れた直剣だけを携え、隣村の孤児院へと引き取られることになった。



シグルズがこの孤児院に来てから、気づけば二年という歳月が流れようとしていた。


ここは十歳以下の、親を持たぬ子供たちが肩を寄せ合って暮らす場所だ。石造りの建物は古く、冬になれば隙間風が骨身に染みる。それでも、ここは「帰る場所」がない子供たちにとって、唯一の拠り所だった。


馬を操れるという特技を持っていたシグルズは、孤児院の中でも重宝されていた。村への買い出し、畑仕事、荷運びなど──年長者としての役目は多く、自然と彼は皆の前に立つ存在になっていった。

その日の仕事を終えた夕暮れ時、シグルズは厩舎の中に子供たちを集め、干し草の匂いが残る中で物語を読み聞かせていた。


「──そうして、国へ帰った勇者は姫と結婚し、いつまでも平和に暮らしましたとさ」


物語の締めくくりに、ぱたんと本を閉じる。

子供たちは一斉に目を輝かせ、息を詰めたままシグルズを見上げていた。


この孤児院では、文字の読み書きができる者は多くない。物心つく前に両親を失った子も多く、こうして物語を語ってくれる存在は、彼らにとって世界そのものだった。


「すごい……ほんとに竜っているのかな」

「勇者って、かっこいいな……」


そんな声が漏れる中、シグルズは苦笑して立ち上がる。


「さあ、もう遅い。そろそろ孤児院に戻ろう。院長先生に怒られるぞ」

「やだ! もうひとつ聞きたい!」


声を張り上げたのは、孤児の中でもとびきりやんちゃな少年──オーレだった。


「わがまま言わないの」

「だって……」


オーレは唇を噛みしめ、やがて耐えきれずに叫んだ。


「もうすぐで、シグルズ兄ちゃん、いなくなっちゃうんでしょ?」


空気が、ぴたりと止まった。

十歳を迎えた孤児は、この場所を“卒業”する。斡旋された働き口に就き、独り立ちしなければならない。シグルズも、あと一ヶ月でその時を迎えるはずだった。


いつの間にか、年上の孤児たちは皆ここを去り、今ではシグルズがこの孤児院で一番の年長者になっていた。


「いやだよ……」

「シグルズ兄ちゃんがいなくなるなんて……」


オーレはそう言って、シグルズの腰にしがみつく。

その小さな体の震えが、胸に痛いほど伝わってきた。


「……大丈夫だよ」


そう言いかけた、その瞬間だった。


──ドドドン、ドドド。


遠くから、地響きのような低い音が伝わってくる。

シグルズの耳が、ぴくりと動いた。


「……静かにして」


シグルズは即座に指を唇に当て、子供たちを制する。そして膝をつき、目を閉じて、地面に耳を当てて集中する。


──馬だ。しかも、一頭や二頭じゃない。


大量の馬が、こちらへ向かって駆けてくる。


「みんな、すぐに隠れて!」


厩舎中に響く声で叫ぶと、子供たちは息を殺して藁束や箱の陰へと散っていく。


やがて、孤児院の建物の方から院長先生たちの悲鳴が聞こえてきた。

怒号、物が倒れる音、悲鳴。


──襲撃だ。

シグルズがそう思った矢先、厩舎の扉が、乱暴に開かれる。屈強な男たちが、雪崩れ込むように侵入してきた。ローブに身を包み、顔は影に隠れているが、その体格だけで只者でないと分かる。


「この中にも隠れているかもしれん。隈なく探せ」


男たちの一挙手一投足に応じて鈍い金属の音が鳴り、心臓が跳ね上がる。

シグルズは空箱の中から様子を窺い、泣きそうになっているオーレの口を必死に塞いだ。

──頼む、見つからないでくれ。


だが、無情にも、ひとりの女の子が、恐怖に耐えきれず泣き出してしまった。彼女は7歳の少女ペトラだった。


男がぺとらにむかってあ何かを言ったが、それはもはやシグルズの耳には届かなかった。男がペトラに近づき、低い声で話しかける。そして、ペトラに向かってなにやら手を伸ばしていく。


その光景に、シグルズの指が震えた。両親の形見である直剣の柄に、勇気を振り絞りながらそっと手をかける。その刃は二年前に毀れてしまっている。

──ペトラを助けなきゃ

自らの危険を顧みずペトラを助ける覚悟を決めて、柄を震える手で握りしめた。

その瞬間、隠れていた箱が、乱暴にどけられた。


「ふむ。殺気がすると思ったら、やはりここか」


そこに立っていたのは、他の男たちとは明らかに違う存在だった。

獣のような青白い眼光。圧倒的な体躯。毛むくじゃらの髭。纏う覇気。

立ちすくんでいれば殺されることを、シグルズは直感的に理解した。


「うわああっ!」


思わず叫びながら、シグルズが毀れた直剣を一気に引き抜こうとした次の瞬間、鈍い衝撃が頭を打ち抜いた。

拳骨一発で、世界が暗転する。シグルズの意識は糸が切れたように途切れた。



荷車の軋む音が、夢の底から現実へと引き戻した。

がたん、と大きく揺れた拍子に、シグルズははっと目を開く。


夕暮れの冷たい風が、頬をなぞった。鼻先に干し草と獣の汗の匂いが混じる。視界が揺れ、焦点が合うまでに数秒を要した。

──馬車だ。しかも、手足の自由が利かないほどの窮屈さ。隣には、怯えたように身を寄せ合う孤児院の子どもたちがいた。


「……みんな……」


声は喉の奥で掠れた。子どもたちの顔には涙と土埃がこびりつき、誰一人として泣き声を上げる者はいない。ただ、怯えきった瞳だけが、必死に助けを探して彷徨っている。


ふと、後方から怒鳴り声と金属音が聞こえた。シグルズは身を捩って振り返る。

もう一台、同じような荷車。その上には、縄で縛られ口を塞がれた大人たち――孤児院の院長と、数人の職員が押し込まれていた。

その瞬間、シグルズの中で点と点が線になった。


──盗賊だ

孤児院を襲い、子どもを攫い、売り飛ばす。噂で聞いたことがあった。


周囲をさりげなく見渡すと、馬に跨る男たちが列を囲むように進んでいる。数は──ざっと二十。鎧を着ていて、剣や斧、弓を携えた、歴戦の気配を纏う者もいた。

そして先頭。

ひときわ大きな背を持つ男が、悠然と馬を進めていた。あの男だ。自分を背後から殴り倒した、頭領。


真正面からやって勝ち目はないだろう。しかし、頭領を人質にとれればあるいは──いや、それしかない。


心臓が早鐘を打つ。足が震え、胃の奥がひっくり返りそうになる。だが、背後から聞こえる小さな嗚咽が、シグルズの迷いを断ち切った。


機会は一瞬だった。

馬車の揺れが強まった瞬間、御者の男が体勢を崩す。シグルズは身を低くして跳んだ。


直後、御者の男の声にならない声が響いた。


蹴りが鳩尾に吸い込まれ、男が呻き声とともに転げ落ちる。驚きと怒号が上がる前に、シグルズは落ちた剣を掴み、刃で馬車と馬を繋ぐ縄を断ち切った。


馬が嘶く。

その背に飛び乗り、必死に手綱を引く。風が頬を切り、夕焼けが視界を染める。加速する馬の鼓動が、シグルズ自身の心拍と重なる。


先頭の男へ、素早く背後から駆け寄る。

剣を抜き、全身の力を込めて振り上げた、その瞬間。


「うぐっ──」


その声を上げたのはシグルズだった。


シグルズの脇腹に鋭い衝撃が走り、突然死角から不意を突かれ、シグルズは体勢を崩して一気に落馬してしまった。一体、何が起こったのか全く分からなかった。


少年の身体が地面を転がる。息が詰まり、空気が肺から逃げるのを感じた。馬の蹄音が遠ざかり、周囲が静まり返った。


「小僧」


低く、よく通る声。大男は馬を降り、ゆっくりと歩み寄ってくる。


「先ほど殺気を放っていた童か。その年で馬にも乗れるとはなかなかやる。名を名乗れ」


その圧は、暴力的であった。ただ、そこに立っているだけで、空気が重くなる。獣のような威圧と、鍛え抜かれた剣士の静謐さが同居している。

その覇気に凄まれ、喉が勝手に動く。


「……シ、シグルズ、です」


男は一瞬だけ目を細め、満足そうに頷いた。


「そうか。我輩はイゼルフロスト王国国王──騎士王グレイム・イゼルフロストである」


ローブが風を孕んで翻る。

その下から現れたのは、銀色に輝く甲冑だった。夕陽を受け、細やかな彫金が炎のように揺らめく。胸元には、冠を象った紋章──騎士王国イゼルフロストの象徴だった。

逆光の中、雄々しく立つその姿は、物語の中でしか見たことのない存在そのものだった。


シグルズの頭は追いつかない。

盗賊だと思っていた男が、この国の国王だって?

言葉の意味を噛み砕くことすらできず、シグルズは地面に座り込んだまま、呆然と男を見上げる。


「国……王……?」


震える声が、夕焼けの空に溶けていった。

3話までヒロインが登場しません。

そこまで我慢してお付き合いください。

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