69.打開
メイラ先生の家で見た、あのファンタジー書を思い出す。
──この世は十三次元から多数の原理が紡ぎ取られた姿の一つであり、
原理を理解すれば、それは魔法のように振る舞う。
私は、書物に描かれていた「波の原理」と「重力の原理」を組み合わせ、
破壊的な現象が生じる情景を思い浮かべた。
身体の奥底、異次元のような場所から、
ゆっくりと何かを汲み上げ、右手へ流し込む。
右手の先で、原理を一つひとつ正確に綴り、
変換式を描き、狙った現象へと編み上げていく。
右手から、空間を飲み込むような領域が、静かに広がった。
怪異は、すでに目と鼻の先。
広がった領域が、怪異の身体と重なる。
私は硬い空気を握り潰すように、
右手を、焦らず、しかし全力で、少しずつ収めていった。
怪異の動きが鈍る。
──効いている。
私は正面から怪異を見据えたまま、
確実に、丁寧に、右手を握り潰す。
指同士が触れ合った瞬間、
怪異は体液を噴き出し、立てなくなった。
それでもなお、にじり寄ろうとする怪異を、
私は最後まで、容赦なく圧縮し続けた。
怪異は、聞いたことのない音を立てながら、
潰れ、崩れ、凝縮されていく。
右手を閉じたまま、私は前を見続けた。
怪異が完全に消える、その瞬間まで。
やがて怪異は、顔と胴体の境界すら失い、
小さな玉となって、消滅した。
──
再び荒野。
地平線まで、何もない。
ただ、空だけが変わっていた。
雲一つない、深い青。
その青空を見上げていると、
遠方から、何かが近づいてくる。
巨大な羽。
六枚……いや、奥には二十枚以上。
ムカデのような胴体に、無数の羽。
下方向には鬚のような突起、
上部には背びれのようなアーチ構造。
近づくにつれ、それが先ほどの怪異とは比べ物にならないほど巨大で、
そして速いことが分かる。
長い羽虫のように見えたそれの最前部には、
ゴリラのような顔が、三百六十度、幾重にも連なっていた。
──頭部なのだろう。
明らかに、やばい。
今回は速すぎる。
能力を発動する前に、やられるかもしれない。
私は右手だけでなく、左手にも、
異次元から何かを引きずり出す。
熱運動。
光子。
破壊的な原理を、自身に刻み込み、
手のひらの少し先に、加速度的に凝集させる。
塵の眩い集合体が生まれる。
空を泳ぐような粒子が倍々に増え、
液体となり、空間の歪みへと変わる。
ゴリラ顔の怪異は、
高層ビルを超える体躯をくねらせ、
視界を覆うほど迫っていた。
私は、その歪みの集積を前方へ弾き飛ばす。
次の瞬間、
目を焼くほどの光と、世界を覆う爆炎。
──まずい。
そう思った時には、
私は爆炎に吹き飛ばされ、
途方もない距離を、低空飛行していた。
怪異は断末魔を上げ、焼失したらしい。
地面に叩きつけられ、何度も宙返る。
視界の半分は、宇宙のような空。
そして、また遠方に怪異。
──理解した。
ここは、
何もない世界に、
次々と怪異が現れる場所。
私は両手を広げ、
底知れぬ腹底から、
無数の「筆」を突っ込むように原理を引き出し、
好きな色に浸し、
キャンバスにぶちまける。
圧縮。
微塵切り。
花火。
ブラックホール。
渦。
光線。
溶融。
思いつく限りの殲滅を、
イメージのままになぞっていく。
……めちゃくちゃだ。
でも──
楽しい。
気づけば、何百体倒したかも分からない。
不安も、空腹も、疲労も、痛みも、
いつの間にか消えていた。
自分が無敵だと感じた、その瞬間、
世界は勝手に「最強の敵」を創造した。
それは、書物に描かれていたラスボス。
怪異ではない。
正真正銘の、人。
翠玉色の長髪。
毛先は虹色。
魔法学園の制服。
右手には、クリスタルの長剣。
背には、透明な非対称の後光構造。
重厚で、プリズムのように輝く。
左手で、空間を捻じ曲げ、円筒状の魔法を形成する。
──魔法だ。
私は巨大な六角柱を生成し、投げつける。
相手は円筒魔法を射出し、正面衝突。
爆発。
だが止まらない。
砂粒の嵐。
光球。
虹の鱗。
重力歪曲。
攻防は加速し、
やがて、空間そのものが鈍重になった。
私の創造は、封じられる。
翠玉色の子の魔法は、
私の破壊的想像を、
一本一本、ほどくように無効化した。
時間が、遅い。
剣が振り上げられる。
私は小さなナイフで抵抗するが、
それすら破壊され、
剣が振り下ろされる。
──負ける。
首が、落ちた。
世界が回転し、
翠玉色の子が私の顔を掴む。
紫色の光。
顔が崩れていく。
やられる前に──喰らう。
口が異形へと変わり、
相手の腕を取り込む。
破壊も、斬撃も、魔法も、
すべて喰らう。
右脚、右手。
瞬時に失われる。
それでも相手は、自身の身体すら触媒に魔法を発動する。
だが、異形はそれすら貪った。
俯瞰する視界。
──それは、私のはずだった。
翠玉色の子が完全に喰われた瞬間、
世界は虚無へと変わる。
懐かしく、
そして、絶望的な虚無。
そう感じた次の瞬間、
虚無は、唐突に終わった。




