4.お母様とお父様
それから一ヶ月が経つ。
懐妊の話から、おそらく四か月ほどになると、
お母様のお腹は、スイカくらいに大きくなった。
会話を聞く限り、あと三十日以内に生まれるらしい。
人間よりずいぶん早い──時間が迫っている。
私もこの一ヶ月、指を咥えてはいたが、待っていたわけではない。
逃げるための一歩として、単語によるコミュニケーションを遂げた。
「マーマ、マンマ」
「あら、さっき食べたばかりじゃなかった?」
「マンマ、マンマ」
「食いしん坊さんね」
もともとお母様は自分のことを『ママだよ』と言っていたので、『ママ』は間違っていない。
『マンマ』は適当だが、ごはんの意味として通じている。
「ナーナ、ンーンー」
「よーしよしよし、ちょっと待ってねー」
『ンーンー』はトイレの合図だ。
毎回、漏らす直前にこれを言うようにしたら、お父様はきちんと理解してくれた。
そう。
私はもう、パンツを汚さない優等生である。
─ええと、そう思っていた時期が私にもありました。
「最近やっとエンニがしゃべりだしたわ。やっぱり四半獣は成長が遅いのよ」
「仕方ないよ。猫族も犬族より少し遅いって聞くし、犬の半獣と比べるのは酷だ」
……。
そういうことですか。
喋るのすら遅いということは、
腰の据わり、ハイハイ、直立、トイレ――
丁寧に成長を演じてきた私の努力は、すべて無意味の烙印が押されたということ。
うぅ……。
これまでの、恥を忍ぶ努力を返してほしい。
……いや。
死なないための用心だったし、ちょっと心地よくもあった。
仕方ないとしよう。
先ほどの会話から察するに、私は「猫族の四半獣」という分類らしい。
確かに耳は猫っぽいし、人間に比べればやや毛深い。
そして、犬顔が過ぎるお父様とお母様が半獣――
つまり獣の割合が多いというのも、納得がいく。
もしかして、あの超能力のような力は、猫族だけの特権なのだろうか。
もう遠慮はしない。成長しよう。脱出しよう。
できれば、あの時見た超能力のような、生きるのに有利な力が欲しい。
その日は、物を浮かせるイメージをしたり、踏ん張ったり、色々試した。
……だが、超能力は出ない。
翌日、お父様とお母様が留守にした隙を見て、さっそく外を偵察する。
やはり、ここは猫だらけの世界だ。
家から百メートルほど歩いてみたが、隣人は見当たらず、やや孤立している印象を受ける。
ただし、僻地というほど集落から離れてはいない。
私は脱走ルートを探した。
集落へ逃げるか。
それとも、別の集落まで行くか。
別の集落へ行く手段として有力なのが、荷馬車だ。
今は動いていないが、集落規模に対して農園が明らかに大きい。
おそらく、食料を他所へ運ぶために使われているのだろう。
その後、居座れる場所の確保も考えておきたい。
まずは社会を知る必要がある。
──二足歩行を会得したエンニは、
親の庇護という名の牢を破り、
少し遅れて「後追い」というものを経験した――。
そう恐怖を言いくるめ、冒険を開始する。
体力的に行けるところ。最も近い家。
その猫族の家の前を、よちよちと歩く。
とにかく見つけてもらわないと。
だが、お父様とお母様は三日に一度ほどしか外出しない。
近隣は閑散としており、
一度目は体力が尽きても誰にも会わなかった。
二度目、収穫なく帰ったところで、額に強い痛みが走る。
そして、痛みは数秒ほどで収まった。
…1つ、確信したことがある。
額が痛む時、異能が働いている。──それは危険が迫った時の"お知らせ"だ。
最初の森、お母様の懐妊、お父様の叱咤、そして今回も。
そして、痛みの後は"うまくいく"という共通点。
危険が勝手に通り過ぎる。まるで私が世界を捻じ曲げているように。
副作用は…今のところわからない。
案の定、三度目の外出で私は発見された。
見つけてくれたのは、猫族の中年男性だった。
遠くから、こちらを見ている。
私はとりあえず、よちよち歩きで逃げる。
男性は驚きつつも、慌てず、ゆっくりと追いかけてきた。
「おーい」
そう呼んでくる男性をうまく誘導し、犬族の家に入るところを見せる。
すると彼は、頭を掻きながら、そのまま帰っていった。
彼の危機感のなさから察する。
犬族が猫族の赤ん坊を育てていることは、きっと異常事態ではないのだ。
これで表向きは波風立たない可能性が立った。
しかし、このまま受け身では間に合わない。
…もはや直接家まで行くしかない。




