2.犬と猫
犬男と犬女――いや、お父様とお母様に引き取られて、半年が経った。
意外なことに、私はずっと愛情を受けて育てられている。
一般的な赤ん坊がどう振る舞うのかは知らないが、少なくとも妹のような赤ん坊にはならないよう心がけていた。
それは妹が嫌いだったからではない。生き残る確率を上げるためだ。
妹は、生後一か月の頃など、四六時中泣いていた。
『私に構わなければ死にますよ』とでも言わんばかりの態度で。
命を大切にするまともな人間なら、放っておけないはずの、必死で弱々しい表情、仕草、声。
そこに断末魔のような叫びを織り交ぜ、緩急をつけながら、二十四時間どこでも発狂する。
正直に言えば、私はこの犬顔二人が人間的に行動するからといって、その人間性の高さまで信用していなかった。
だから私は、妹とは真逆の、静かで手のかからない赤ん坊を演じることにした。
乳が欲しいときは、指をしゃぶりながら「あーあー」と前兆だけを見せる。
乳母の乳を飲むときは、空気を飲まないよう慎重に。
有能な乳母がげっぷを出させようとすれば、さっと空気を飲み込み、即座にげっぷをする。
排泄は必ず沐浴前に、しかも小出しにせず、出せるだけ出す。
お父様とお母様が目の前に来たときは、七対三で『屈託のない笑顔』と『変顔』を使い分け、飽きさせない程度に愛嬌を振りまいた。
我ながら、最低限しか手のかからない、完璧な赤ん坊を演じてきたと思う。
……だが、状況は変わった。
「ナーク、できちゃった…。」
昨日のお母様の言葉である。
私がここまで生き延びてきた最大の理由――愛情の独占。
それが、急速に崩れ去る未来が見えた。
決して裕福とは言えない家庭。
実子ではないという立場。
これは、まずい。
ええ。犬男犬女から、お母様お父様と心中呼ぶようになったのは、驕らずに生きるよう自己を律するためなのです。
そして、お母様のできちゃったに対してのお父様の言葉。
「ハイナ、赤ん坊はどうする?まだ半年だし今なら間に合うぞ」
赤ん坊とは、私のことだろう。
何が『今なら間に合うぞ』だ。
……犬。いや、お父様。
あなたの信頼を勝ち取れていないことが、ただただ悔しい。
「…、大丈夫、エンニも私の子だから。」
エンニとは私のことだ。気づいたらそう呼ばれていた。
お母様の大丈夫までの僅かな無言の時間が恐ろしい。私は恐怖を隠し無垢を装った。
なんとかその場はそれで終わった。
それから特段危険な会話を聞くことはなかったが、お母様は時々体調を崩し、不機嫌な日が増えた。
それによって図らずしもお父様が私の面倒を多くみることになった。
「ナー、ナー」
ナーとはお父様のことだ。
お父様が来た際には名前を積極的に呼ぶことにした。これは効果があった。
「エンニ、パンツかえまちゅねー、あらあらいっぱいねー」
正直、キモいと感じることも多い。
だが、面倒を見たいという気持ちは本物だろうから、我慢することにした。
実を言えば、私は身体能力的には赤ん坊ではない。
排泄も、乳を飲むのも、赤ん坊だからそうしているだけだ。
声帯が未熟で拙いものの、喋ろうと思えば喋れる。
最初は、この世界の常識がわからず怖くて、赤ん坊でいることで安心していた。
だが今は、赤子として生きることが、前世とさほど変わらないと気づいてしまった。
その結果、赤ん坊を演じること自体が、ストレスになり始めていた。
それでも、お母様の懐妊がある以上、念のため完全な赤ん坊を装い続けている。
現時点で分かっている前世との違いは二つ。
一つ目。
この二人は、三日に二日ほど家にいる。
つまり、ほとんど働いていないのに生活できている。
ただし、食事や家財を見る限り、裕福ではない。
二つ目。
この世界には、犬のような人型の文明人が溢れている。
しかも、微妙に種類が違う。
私の外見は、お父様お母様とは異なり、窓に映る姿を見ると、猫か狐のような耳をしていた。
お母様は私を『猫』と呼んでいたので、きっと猫なのだろう。
犬顔すぎる二人と比べると、私はずっと人間に近い見た目をしている。
「せめて耳がもっと良かったらなあ。」
お父様は、時々そんなことを言う。
かつて私が、鼻の低い妹に向けて言っていた言葉と同じように。
何にせよ、この村は犬だらけの異世界。
私は、完全にアウェイな猫耳だった。




