第87話 追放地から届いた地図
ローランから届いた地図には、私が追放された道が描かれていた。
指先が、紙へ触れたまま動かなくなった。
古い関所。馬車が泥へはまり、御者が舌打ちした坂。
寒い。暗い。空腹。あの夜が地図の線から戻ってくる。
「閉じますか」
アンナが手元を見て尋ねた。
「地図を?」
「本日の調査を。過去と同じ道を、今すぐ見続ける必要はございません」
優しい逃げ道だった。
閉じたい。
赤い印など、なかったことにしたい。でも先に毛布があるかもしれない。
「閉じない。……ただし、私が平気な顔をしていたら、たぶん嘘だから」
「承知いたしました。嘘のお顔になりましたら、お茶を入れます」
「そこは休ませて」
「お茶の後に」
アンナは、休憩にも順番がある。
王都北西門。
古い関所。
雪に埋もれた軍用街道。
そして、門外へ出された私が最初の夜を過ごした、壊れかけの休憩小屋。
その小屋から、北へ三里。
赤い印が一つある。
『旧王室第七備蓄庫』
「こんな場所に?」
「王国北西部の防衛線が現在より外側にあった時代の施設だそうです」
アンナが監督官の報告書を読む。
「二十七年前に軍用倉庫として廃止。その後、災害備蓄へ転用。三年前の台帳再編で廃棄予定となりましたが、移管先の受領印がありません」
「ローランは、どうして今まで気づかなかったの?」
「在職中、彼が再編案へ署名しています。ただし、実地確認は財務局と王室営繕局へ委任した、と」
弟が作った欠落。
弟が見つけた欠落。
その両方が、同じ紙に書かれていた。
「今さら見つけて、偉いと言ってほしいのかしら」
口から、棘のある言葉が落ちた。
「分かりません」
アンナは否定しなかった。
「処分を軽くしたいのかもしれない。私に役立ったと知らせたいのかもしれない。本当に台帳の穴を埋めたかっただけかもしれない」
「どれも腹が立つわ」
「はい」
「すぐ同意しないでくれる?」
「腹を立ててよい場面で、立派な姉君になっていただく理由がございませんので」
胸の奥が少しほどけた。
◇◇◇
「倉庫を開ければ、毛布と魔石があるかもしれない」
私は評議会へ使用申請を出した。
「所有権が確定していません」
財務官が答える。
「王室備蓄庫でしょう」
「建物は王室名義です。しかし、内部の物資は北西軍、災害庁、三つの自治体が共同購入した記録があります」
「緊急時です」
「だからこそ、勝手に夜明けの星へ渡せません」
「勝手に持っていくなんて言ってない!」
思わず声が強くなった。
「雪の中で震えている人がいる。所有者と印章と議会を待っていたら――」
「その“震えている人”には、北西の住民も含まれます」
財務官も引かなかった。
「夜明けの星が善意で王都へ運び、地元へ一枚も残らなければ? 緊急という言葉で地方の備えを中央が奪った前例になります。私は、それを止めるためにいるのです」
怒りが、スッと冷えた。
この人も寒い人を守っている。ただ、見る方角が違う。
言い方に腹が立った。
勝手に自分の店へ持ち込むつもりではない。
そう反論しかけ、私は飲み込んだ。
「ごめんなさい。正しいわ。夜明けの星が見つけたから、私たちの在庫になるわけではない」
評議会は、緊急共同調査を決めた。
財務局、災害庁、北西自治体、衛生監査、王室営繕局、夜間拠点相互支援から一人ずつ。
鍵は単独で開けず、三者以上が立ち会う。
中身を数えるまで、配分先を決めない。
「時間がかかります」
アンナが言う。
「ええ。でも、急いで所有者を消せば、あとで誰かの備えを奪ったことになる」
私たちは、地図を調査隊へ渡した。
◇◇◇
ローラン本人へ、私から連絡はしなかった。
質問は監督官を通した。
一、地図の出典。
二、最後に在庫を確認した日。
三、鍵の管理者。
四、台帳再編で欠落した理由。
五、情報提供の見返りとして求めるもの。
返答は、その日の夕方に届いた。
『出典は、王室営繕局旧施設図面。最後の実地確認は九年前。鍵は北西関所と王室営繕局に一本ずつ。再編時、施設番号の変更を移管完了と誤認した。署名者として確認不足を認める』
最後の問いへの答えは、短かった。
『見返りを求めない。処分変更も、姉との面会も求めない』
「本当に?」
私は紙を裏返した。
裏には何もない。
「何か書いてあってほしかった?」
アンナが静かに尋ねる。
「分からない。『姉上に会いたい』とあれば、見返り目当てだと怒れた。何もなければ、反省したみたいで、それも腹が立つ」
「怒る場所がなくなりましたか」
「そう。ローラン本人がいないのに、私だけ昔の続きをしているみたい」
紙を握る指が痛い。
「でも、何も求めないことを、私が赦す理由へ使う必要もないのよね」
「ございません。返事をしないことも、今のリリアーナ様の選択です」
「監督官が、本人の口述と署名を確認しています」
アンナが答える。
「良い人になったみたいね」
「そう見えますか」
「見えるように書かれている」
それがローランの本心かもしれない。
処分を軽くするための計算かもしれない。
どちらかを、今決める必要はなかった。
「情報が正しいか、先に確かめる。動機は、倉庫を開ける条件にしない」
「もし、罠だったら?」
ミアが心配そうに尋ねた。
「存在しない倉庫へ調査隊を向かわせ、吹雪で事故が起きたら」
「だからローランの言葉だけで出さない。営繕局の図面、関所の鍵台帳、街道記録を照合する。三つそろってから、安全な時間に調べる」
「信じないんですね」
「信じるかどうかを先に決めないの。弟だから疑うのも、弟だから信じるのも、どちらも地図を見ていないでしょう」
「……つらくないですか」
「つらいわ。商売の伝票なら楽だった」
ミアは「仲直りできるといい」とは言わなかった。
善人だから地図を使うのでも、悪人だから捨てるのでもない。
事実なら使う。
功績なら記録する。
処分と赦しは、別の欄に置く。
◇◇◇
調査隊は、翌朝に出発した。
街道管理所が、午前中だけ風雪が弱まると確認した時間帯。
風速、視界、帰還期限を決め、ロウが救援中止と同じ基準で行程を確認する。
「倉庫が見つかっても、午後一時で引き返してください」
「開ける時間が足りなければ?」
「次の安全な日にします」
調査隊長が苦い顔をした。
「中に魔石があるかもしれないのに」
「あるかもしれない物のために、帰り道を失わない」
ロウの声は、前夜より落ち着いていた。
荷車には、空の箱、封印札、温度計、布袋、記録石。
見つけた物をその場で使わず、まず分けるための道具を積んだ。
午前十時二十六分、連絡が来た。
『建物確認。扉封印あり。番号、第七備蓄庫と一致』
王室営繕局の鍵は回らなかった。
錆びている。
北西関所の鍵も、途中で止まる。
「壊しますか」
隊長から問い合わせが来た。
営繕局と財務局が、封印番号を記録し、緊急開扉へ同意する。
「扉そのものが崩れる可能性は?」
『蝶番に腐食。正面から押さず、上枠を支えて切断します』
倉庫を開けるだけで、さらに四十分かかった。
◇◇◇
中から出てきた最初の物は、毛布だった。
防湿布で包まれた束が、百二十。
一束に毛布五枚。
合計六百枚。
『外装に鼠害あり。内部は、束ごとに確認します』
次に保存食。
乾燥肉、硬焼きパン、豆粉、塩。
箱の数は多い。
けれど、製造日の札が剥がれ、読めないものが半分以上だった。
「匂いは?」
調査隊の報告へ、誰かが尋ねる。
『乾燥肉の一部に油の酸化臭。パンは見た目に黴なし。豆粉は袋の縁に虫食い』
「加熱すれば食べられる物も」
食料担当者が言った。
「製造日と保管温度が分からない」
「今夜、食べ物が足りないんです!」
食料担当者が悔しそうに声を上げた。
「箱があるのに札がないから閉じる? 避難所の子へ、“安全のため食べさせません”と説明するんですか!」
「食べさせて体調を崩したら、何と説明します?」
衛生監査官の声も硬い。
「非常食だから基準を下げる判断を受けるのは、選べない避難者です。一皿しかない人へ賭けを押しつけないでください」
食べ物があるように見えるからこそ、閉じる判断が重かった。
衛生監査官が止めた。
「冬の非常食です。捨てる前に、成分検査を」
「検査用の少量採取はします。でも、今夜の配分へ入れない」
私は決めた。
食べ物が足りない夜に、目の前の箱を閉じる。
大型センターの赤い区画と同じだった。
もったいないという気持ちは、安全の証明にならない。
◇◇◇
倉庫の所在する北西自治体は、毛布すべてを地域へ残すよう求めた。
「土地も、関所も、長年こちらが管理してきました」
自治体代表が伝令石越しに言う。
「王都へ運ぶための倉庫ではありません」
「購入記録では、北西自治体の負担は二割です」
財務官が答える。
「災害庁三割、旧北西軍三割、周辺二自治体が各一割」
「なら、北西へ二割だけ?」
「所有比率で配る案もあります」
「待って」
私は口を挟んだ。
「毛布は、投資の配当ではない。今夜、寒い人へ使う備蓄でしょう」
「それを言うなら、こちらも寒い」
「避難所の人数と、今ある毛布を出してください」
「王都へ、こちらの暮らしを審査されるのですか」
「王都だけで決めない。共同調査会の六者が、同じ項目で見る」
代表は黙った。
「北西の人が、また後回しになるのでは」
「“また”って、今までも?」
「王都が寒波に入れば、王都向けの便が優先されます。人口が多いから仕方ない、と毎回言われる。北西は人が少ない。だから一人の寒さまで、小さい数字になる」
代表の声が震えていた。
「倉庫を守ったのは関所番です。屋根を直し、鼠に罠を置いた。購入の紙は二割でも、二十七年の手間まで二割ですか?」
「違うわ。その手間も記録する。今夜は所有比率ではなく必要数を見る。でも、北西の物を王都が恵んだ形にはしない」
「本当に、北西を先に数える?」
「ええ。王都より先に」
その声から、反対より恐れが聞こえた。
追放地と呼ばれる地域は、王都から遠い。物資が足りないたび、「人口が少ない」「道が悪い」と後ろへ回されてきた。
「先に、北西の必要数を計算します」
「先に?」
「距離が最も近いから。必要分を取り置き、残りをほかの避難所へ回す。王都を先にはしない」
北西三避難所、利用者百三十四人。
既存毛布九十六枚。
暖房が不安定な一施設へ、追加四十八枚が必要だった。
「購入比率の二割なら、百二十枚です」
「所有分を放棄してくれとは言わない。冬が終わったら、使用記録と残数をもとに返却先を決める。今夜は四十八枚を使い、余る分を貸してほしい」
「貸す、ですか」
「ええ。王都へ贈ったことにしない」
自治体代表は、ようやく同意した。
「北西四十八枚を最初の荷車へ。残りは共同配分へ出します」
所有を無視しないことと、所有者だけで囲い込まないこと。
毛布一枚にも、その二つを分ける契約が必要だった。
◇◇◇
魔石は、棚の奥から十六個見つかった。
期待した数より少ない。
「残量は?」
『測定不能。旧軍用規格で、現在の読取器と合いません』
「互換器を使えば?」
マーリンが古い規格表を調べる。
「理屈では読める。しかし、石の表面に白化がある。保護膜が劣化しておれば、接続時に割れるかもしれぬ」
「今夜、使える?」
「使わぬ」
即答だった。
魔石は一つずつ耐衝撃箱へ入れ、魔術師ギルドの隔離施設へ送ることになった。
暖房用の小型炉も三台あったが、排気管が旧式。現行施設へそのまま置けば、一酸化物の逆流が起きる可能性がある。
「役に立つ物が、毛布だけね」
私は落胆を隠せなかった。
「六百枚“だけ”ですか?」
ミアの声に、珍しく棘があった。
「避難所で毛布を二人に一枚で分けた夜、子どもへ掛けた母親は自分が震えていました。六百枚あれば、その人も包まれます。魔石みたいに光らないから、成果に見えませんか?」
恥ずかしくなった。
「ごめんなさい。灯りを作る物ばかり探して、暗い中で人を守る物を小さく見た」
「私も魔石が欲しかったです。悔しいのは同じです。でも毛布は“だけ”じゃありません」
「毛布六百枚は、十分に役立ちます」
ミアが伝令石越しに言う。
「そうね」
食料と魔石ばかりを見て、毛布を『だけ』と呼んだ。
温められない夜に、体温を逃がさない布は、設備では作れない時間を買ってくれる。
「訂正する。毛布が見つかった」
◇◇◇
毛布は、六百枚すべてをすぐ配らなかった。
束を開き、臭い、虫害、湿り、破れを確認する。
安全に使えるのは五百二十四枚。
洗浄と乾燥で使える見込みが五十一枚。
廃棄二十五枚。
「王室の紋章が縫い込まれています」
担当者が広げた。
青地に銀の冠。
幼い頃から、私の部屋にもあった紋章だ。
「外しますか」
「なぜ?」
「夜明けの星が王家の宣伝をしている、と言われるかもしれません」
「外す作業に時間がかかる。縫い目を切れば、布も傷む」
ただし、配分札には所有と経緯を明記した。
『旧王室第七備蓄庫。共同購入物資。評議会の緊急決定により無償貸与』
贈り物ではない。
王家の恩恵でも、夜明けの星の寄付でもない。
税と共同費で買われ、使われず眠っていた備えを、本来の目的へ戻す。
「返却するの?」
「冬の危機が終わったら、使える物は洗って備蓄へ戻す。破損や紛失は責めず、数だけ報告する」
毛布を受け取る人の名前は集めない。
避難所と拠点ごとの枚数だけを記録した。
◇◇◇
配分は、先着順にしなかった。
避難所の人数、暖房の状態、子ども・高齢者・体調不良者の数、既存の毛布。
施設ごとに必要数を出す。
王都中央避難所、百二十枚。
スノーベル集会所、八十枚。
リバーサイド治療所、五十枚。
街道宿三か所、合計九十枚。
港町船員休憩所、六十枚。
国境市場避難区画、七十枚。
残り五十四枚を移動用予備とした。
「王都が一番多い」
地方代表が不満を述べる。
「人口が多いから?」
「避難者数が二百十一人で、既存毛布が九十八枚しかないからです」
「スノーベルは?」
「避難者六十三人。既存毛布二十六枚。ただし、今夜さらに四十人増える予測です」
数字と更新時刻を、配分表へ付けた。
状況が変われば、予備を動かす。
「配分を決めたのは、リリアーナ様ですか」
記者が尋ねる。
「六者の共同調査会です。私は夜間拠点側の一票です」
「発見した情報は、弟君から?」
「はい」
そこも、隠さなかった。
◇◇◇
ローランの功績を、公式記録へどう書くかで揉めた。
「処分中の者を称賛すれば、政治的な復権運動に使われます」
評議会の一人が言う。
「名前を伏せて、『監督下の情報提供者』でよいのでは」
「それでは、都合のよい情報だけ使い、した人を消すことになる」
私は反対した。
「しかし、ローラン殿下の支持者が」
「王位継承権停止も、自由な王都出入りの禁止も変えないと、同じ記録に書けばいい」
最終文は、短くなった。
『旧王室第七備蓄庫の所在は、監督下にあるローラン・アルベルトの台帳再確認により判明した。情報提供は評議会規則に基づく功績として記録する。本件は、同人の処分、継承権、移動制限、姉リリアーナ・フィオーレとの関係を変更しない』
「最後の一文まで必要?」
私は尋ねた。
「利用する側にも、利用されたと感じないためにも」
アンナが答えた。
弟のした良いことを認めれば、過去のことまで薄まるのではないか。
そんな恐れが、私の中にもあった。
でも、一つの功績を認めることは、赦しの署名ではない。
罪を忘れないことも、良い行為を消す理由にはならなかった。
◇◇◇
監督官から、ローランの返答が届いた。
『記録内容を確認した。異議なし』
それだけだった。
「返事をしますか」
アンナが聞く。
「評議会から、受領と調査結果を返して。私信は送らない」
「よろしいのですね」
「分からない」
地図を見つめた。
追放された夜、あの街道のどこかに、六百枚の毛布が眠っていた。
私は知らず、震えながら歩いた。
ローランも知らなかった。
もし知っていたら、私へ一枚くれただろうか。
その問いに答えても、今夜の毛布は増えない。
「今は、返さない」
「はい」
アンナは急かさなかった。
赦しは、危機の支払いに使う硬貨ではない。
助けてもらったから、渡さなければならない物でもなかった。
◇◇◇
夜、最初の毛布がスノーベル避難所へ届いた。
ミアから、受領八十、配布六十八、予備十二と報告が来る。
王都中央避難所では、紋章を見て受け取りを拒む人が一人いた。
「王家に家を取られた。冠の毛布など使いたくない、と」
担当者が伝える。
「寒いのに?」
「寒くても、だそうです」
胸が痛んだ。
「王家の紋章を見れば、暖かさより先に奪われた家を思い出す人もいる。『命を助けるのだから我慢しろ』で、また王家が気持ちを奪うわけにはいかない」
「紋章を切り取りますか」
「今夜は布を傷めない。無地と交換し、次回から外せる覆い布を用意する。使う人が選べるように」
「無理に渡さないで。紋章のない既存毛布と交換できる?」
「一枚あります」
王家の物だからありがたく使えと、感謝まで求めない。
毛布は体を温める道具で、記憶を上書きする布ではない。
午後十一時五十分。
吹雪は、この冬で最も強くなった。
王都北区の魔力供給所から、緊急警報が入る。
『送電相当回路、第二節約段階。一般照明を三十分以内に半減してください』
窓の外で、街灯が一列消えた。
十二の夜間拠点も、すべての灯りを守ることはできない。
今度は、何を消すかではなく、誰が消す命令へ署名するかが残っていた。
私は窓辺へ寄った。
暗くなった街路の向こうに、荷馬車の局所灯が一つ、また一つと揺れている。かつて私を運び出した道を、今夜は毛布が逆向きに走ってきた。
胸の奥が、ズキリと痛む。
痛みが消えたわけではない。道の意味が、救援に使っただけで都合よく塗り替わるわけでもない。
「署名欄を持ってきて」
私は暗い窓から目を離した。
過去を美談にするためではなく、今夜、消してよい灯りと消してはいけない灯りを決めるために。




