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第74話 港町店、三十日目の採決

クレセントベイの港町実験店には、潮の匂いが染みついていた。


 壁を拭いても、床を磨いても、朝になると窓枠へ薄い塩が残る。


 30日前、隣のパン屋から借りた空き店舗で始めた試験営業。


 入口には、夜明けの星の看板が掲げられている。


 その星を見た瞬間、胸の奥が熱くなった。


 スノーベル村。リバーサイド村。王都。


 そして、海の町。


「4号店ね」


 誰にも聞こえないほど小さく、私はつぶやいた。


「まだ、採決前でございます」


 隣のアンナには、しっかり聞こえていた。


「分かってるわ」


「お顔が、すでに看板の所有者でございました」


「そんな顔ってある?」


「今のリリアーナ様のお顔です」


「どんな顔よ。記念に描いてもらおうかしら」


「看板を抱えて『ついに海まで制覇したわ!』と叫ぶ寸前のお顔でございます」


「叫ばないわよ!」


 たぶん。


 いや、署名の束を見た瞬間、心の中では叫んだ。


 四号店キターッ!


 追放王女、とうとう海へ進出! 王宮の皆さん見てますかー! 辺境へ放り出した娘、港で海鮮おにぎり売ってますけどー!


 ……くらいは叫んだ。心の中だけなので無罪である。


「口元が、まだ勝利宣言をしております」


「アンナ。人の心を読むの、そろそろ禁止にしない?」


「顔に全文が掲載されておりますので」


 ぐぬぬ。私の顔面、掲示板より情報量が多いらしい。


 継続を求める署名は764人分。


 30日間の利用者数より多いのは、家族や昼間の住民も署名したからだという。


 その数を見れば、答えは決まっているように思える。


 けれど、今日は人気投票ではない。


 店を続けるか。続けるなら、誰が持ち、誰が決め、誰が止められるのか。


 海辺の会議所には、別々の答えを持つ人たちが集まっていた。


◇◇◇


 最初に、30日間の数字を確認した。


「一般会計は1827件。一夜平均60.9件です」


 ゼルドが報告書を読み上げる。


「売上は試験前の予測を18パーセント上回りました。ただし、開店記事と海鮮おにぎりの物珍しさが含まれます」


 海鮮おにぎりは、全食品売上の31パーセント。


 隣のパン屋と共同で作った朝食セットは14パーセント。


 船員向けの温かいスープ、乾いた靴下、包帯、酔い止め用の香草飴もよく出た。


「食品廃棄は?」


「最初の7日は7.4パーセント。仕込み量を潮と入港予定に合わせた後半14日は3.9パーセントです」


「事故と苦情は」


 港町店の夜番代表が、別の紙を開いた。


「重大事故はありません。床の水濡れによる転倒未遂が2件。吸水布と靴底洗い場を増やした後は0件です」


 騒音の申し出は、最初の週に6件。


 配送馬車の車輪音が3件。店先で話す客の声が2件。閉店後の木箱整理が1件。


 配送経路を住宅前から港側へ変え、木箱の下へ麻布を敷き、店先に長居しない案内を出す。後半3週間の申し出は2件だった。


「減りましたが、ゼロではありません」


 夜番代表が言う。


「2件とも同じ家からです。昼に眠る夜明け漁のご家族で、午前3時台の客の声が気になると」


「その家だけが神経質だ、とは書かないで」


「もちろんです。入口係の声量と、椅子の位置を再検討します」


 会議所の後ろで、一人の女性がおずおずと手を上げた。


「その二件、うちです」


 夜明け漁へ出る夫を持つ、仕網職人のレナだった。


「店が嫌いなんじゃありません。包帯も温かいスープも、夜中に買えて助かりました。署名だってしました。でも、夫は午前一時に帰って、三時までしか眠れない日があるんです。店の前で『今日の魚は大漁だ!』って笑う声がすると、赤ん坊も起きて、夫も起きて……私まで『もう店なんてなくなれ!』って枕を噛みたくなる」


 最後は涙声だった。


「便利だと思っているのに、苦情を言ったら恩知らずみたいで。二回目の紙を出す時、手が震えました」


「恩知らずじゃないわ」


 私は報告書から顔を上げた。


「便利だから、眠れなくても我慢してくださいなんて、それこそ店の横暴よ。二本の線を書いてくれてありがとう。ゼロになるまでとは約束できない。でも、言った人が悪者にならない会議にはする」


 レナは鼻をすすり、強くうなずいた。


「じゃあ私も、ただ『うるさい』じゃなくて、何時の、どの声か書きます。店を潰したいんじゃなくて、寝たいだけだから」


「ええ。ものすごく正当な望みだわ」


 売れた数字の隣に、眠れなかった人の二本の線を置く。


 どちらも、店を続ける判断に必要だった。


◇◇◇


 漁師組合長マルコは、買い取り記録を持ってきた。


「荒天による供給停止は4日。夜明けの星から、出漁を求める連絡は一度もありませんでした」


「漁獲量は増えましたか」


 町の役人が尋ねる。


「店向けの出荷は増えました。だが、全体の漁獲は前年の同時期とほぼ同じです」


 小さい魚、網で傷が付いた魚を、トニーたちが用途別に加工したからだ。


 大きくきれいな魚だけを奪わず、市場で値が付きにくかった魚を正規に買い取る。


「漁師一人あたりの手取りは、参加した17人で平均8パーセント増えています」


 マルコはそこで報告書を閉じた。


「だから、店を続けてほしい。ただし、王都の本部が『来月から毎日倍の量を』と決められる形は困る」


「契約には、荒天、休漁、産卵期を優先すると書いてあります」


「今のあなたは守ってくれる」


 マルコは私を真っ直ぐ見た。


「でも、5年後の本部長も同じとは限らない。契約を変える会議に、港の者を入れてほしいんです」


「私の約束では、信用できませんか」


 口から出た瞬間、しまったと思った。


 子どもみたいな聞き方だ。これでは、信じると言わせているのと同じではないか。


「信用しています」


 マルコは逃げずに答えた。


「だからこそ、あなたが倒れた日にも残る約束にしてほしい。あなた一人が良い人で居続けないと守れない契約なんて、あなたにとっても重すぎるでしょう」


 うっ。


 真正面から言われると、胸に刺さる。


 私は自分を疑われたことが悔しかったのではない。私の善意だけでは足りないと言われたことが、少し寂しかったのだ。


 信頼されていない、と感じた。


 すぐに、違うと気づく。


 マルコは私を疑っているのではない。


 私がいなくても約束が残る形を求めている。


「その通りね」


 私は答えた。


「私を信じて、では足りないわ」


「はい。俺たちは、あなたを信じた上で、紙にも信じさせたいんです」


◇◇◇


 町の商店からは、別の懸念が出た。


「夜明けの星が正式店になれば、日用品まで王都から大量に運ぶのでしょう」


 昼間の雑貨店主が言った。


「うちと同じ品を、物流センターの力で安く売られたら勝てません」


「現状、日用品の64パーセントは港町と周辺から仕入れています」


 アンナが仕入れ表を示す。


「王都便は、特殊な包材、医療連携品、港で作れない魔道具が中心です」


「その割合も、本部が変えられる」


「変える場合の条件を、共同運営契約へ入れましょう」


 地元で同等の品質と供給条件を満たす品がある場合、先に地域調達を検討する。


 ただし、地元というだけで不衛生な品を買う義務にはしない。価格差が大きい場合は、理由を公開して協議する。


「夜明けの星の商品だけを、棚の良い場所へ置きません」


「看板は夜明けの星なのに?」


「看板を貸す代わりに、地域の商品を消す契約にはしないわ」


 隣のパン屋は、30日間で夜間の売上が減るどころか、共同朝食セットの予約が増えたという。


 一方、乾物店では夜の売上が1割落ちた。共同店が同じ干し魚を扱ったからだ。


「干し魚は、乾物店から仕入れられませんか」


 ミアが尋ねる。


「量と保存記録が合えば」


 乾物店主は、すぐには笑わなかった。


「うちの商品を置くなら、夜明けの星の名前に変えないでください」


「三代続いた乾物屋です。親父が焼印を押し、俺が包んだ魚を、急に星印の商品として売られたら……売上が戻っても、店を取られた気がする」


 乾物店主は、悔しそうに奥歯を噛んだ。


「この三十日、夜の客が減るたび、あんたたちの灯りが憎かった。でも、嵐の晩に妻が熱を出した時、薬を置いていたのもその灯りだ。だから余計に、嫌いだとも必要だとも、簡単に言えないんです」


「作った店の名を残します」


「本当に?」


「『夜明けの星が作りました』なんて横から星印を貼ったら、私が剥がします。あなたが積み上げた三代分まで、うちの開店実績に数えるほど厚かましくないわ」


 ……たぶん厚かましくない。さっきまで四号店の顔はしていたけれど。


 アンナが横で小さく咳をした。今の心の声まで読んだわね、この人。


 共同経営とは、反対した人まで看板の中へ吸い込むことではない。


 違う名前のまま、同じ棚へ置ける余地を作ることだった。


◇◇◇


 夜番スタッフ8人との会議では、賃金より先に勤務表が問題になった。


「王都本部の勤務表は、曜日で交代を決めています」


 夜番代表が言う。


「でも港では、船の入港日がずれると客数もずれます。嵐の翌日に船がまとめて戻れば、平日でも忙しい」


「当日呼び出しを増やすのは駄目よ」


「だから、港の待機日を作りたいんです」


 待機日は通常勤務ではない。自宅で過ごし、呼び出しに応じられる人だけを事前に募る。呼ばれなくても待機手当を払い、呼ばれた場合は夜間賃金へ切り替える。


「全員へ強制しません」


「本部の許可がなくても、港の責任者が発動できるようにしたい?」


「はい。波を見てから王都へ伝令を送り、返事を待っていたら間に合いません」


 私は、すぐにうなずきかけた。


 でも、今ここで私が許可すれば、結局すべては私の許可で始まる。


「発動条件を、皆さんで決めてください」


「私たちが?」


「入港予定が何隻以上、予約が何件以上。何時間前までに連絡するか。連続待機の上限も。案を作り、スタッフの過半数と港の運営責任者が承認する形にしましょう」


 夜番代表は、驚いた顔で隣の仲間を見た。


「本部へ報告はします。でも、毎回の発動許可は求めなくていい」


 波に近い人が決める。


 その代わり、無理をさせない条件と記録を、本部も監査する。


◇◇◇


 昼休み、私は店の裏にある防波堤へ出た。


 海は穏やかで、遠くの船が小さく上下している。


「直営にしたかったですか」


 アンナが隣へ来た。


「したかったわ」


「正直でございますね」


「だって、うまくいったのよ。海鮮おにぎりも売れた。物流も動いた。署名は764人」


「私、褒めてほしかったの。『追放された王女が、たった三十日で港町まで救いました』って、少しくらい得意になりたかった。なのに会議へ来たら、騒音、仕入れ、勤務表、所有権。成功の祝宴かと思ったら、書類が束になって殴りかかってくるんだもの!」


 言いながら、防波堤へ両腕を投げ出す。


「せめて書類なら紙吹雪みたいに舞ってくれないかしら。現実の書類、重い! 数字も責任も全部入ってる!」


「海へ投げますと条例違反でございます」


「投げないわよ! 比喩よ、比喩!」


 アンナは、ほんの少し笑った。


 胸の中にあった言葉を、波へ向けて吐き出す。


「夜明けの星の4号店。そう呼ばれたら、きっと嬉しい」


「では、なぜ迷われるのです」


「店を持つことと、店に必要とされることを、同じにしたくないから」


 追放された時、私は王宮から所有物のように動かされた。


 辺境へ送る。戻さない。何をするかは他人が決める。


 今度は自分が、大きな看板を理由に港の店を動かす側になれる。


「怖いのね。成功すると、私が決める方が早いもの」


「早いことが、悪いわけではございません」


「ええ。でも、私が間違えた時に、港から止められない形は悪いわ」


 アンナは海を見たまま、静かにうなずいた。


「では、止められる所有にいたしましょう」


◇◇◇


 午後の会議で、三つの案を出した。


 一つ。夜明けの星の完全直営店。


 二つ。地元事業者が全額を持ち、夜明けの星の名と運営手順だけを借りるライセンス店。


 三つ。港町側と夜明けの星が、共同で会社を作る。


「おすすめは?」


 町長が尋ねる。


「共同会社です」


 私は、出資案を開いた。


 漁師組合、加工組合、地元商店、スタッフ持分基金を合わせた港町側が51パーセント。


 夜明けの星が49パーセント。


「夜明けの星が少数ですか」


「店を閉める、漁獲契約を大きく変える、地元調達原則を外す。そうした決定を、本部だけではできない形にします」


「51パーセントなら、港側が何でも決められる?」


「安全基準や賃金を下げてよいわけではありません」


 取締役に相当する運営席は5つ。


 漁業・加工から1。地元商店と住民から1。従業員から1。夜明けの星から1。食品安全と労務を監督する独立席が1。


 通常の商品や催しは過半数で決める。


 安全基準、賃金下限、深夜勤務上限、営業停止、看板使用の変更は4票必要。事故時は、各責任者が単独で一時停止できる。


「51対49なのに、議決席は一対一ではないのですね」


「お金を多く出した人だけで、安全や働き方を決めないためです」


 利益は出資比率を基本に配分する。ただし、スタッフ持分基金の配当は従業員の研修、休憩室、緊急休業補償へ先に使う。


 夜明けの星は、商標、研修資料、物流網、冷蔵技術を提供し、適正な使用料を受け取る。


「49パーセントでも、十分もうかるじゃないですか」


 マルコが笑った。


「商売ですから」


 私も笑った。


 支配しないことと、利益を諦めることは違う。


◇◇◇


 採決は、全住民の多数決にはしなかった。


 店を使わない人、出資しない人、契約責任を負わない人まで、一票で経営を決めるのは違う。


 まず、試験店スタッフ8人が無記名で投票した。


 共同会社に賛成7。ライセンス店に賛成1。完全直営は0。


 次に、漁師・加工組合、地元商店会、町の許可担当が、それぞれの正式会議で参加を決めた。


 漁師・加工組合は賛成。


 商店会は、地元調達と競合品表示の条件を付けて賛成。


 町の許可担当は、騒音改善の3か月再審査を条件に営業許可の継続を認めた。


「では、共同会社案を採択します」


 町長が木槌を鳴らした。


 拍手が起きる。


 私はその音を聞きながら、少しだけ寂しかった。


 4号店ではない。


 私の店が増えた、とは言えない。


 その代わり、私がいない会議でも、港町店は自分の営業を決められる。


「おめでとうございます、リリアーナ様」


 ミアが言った。


「私の店ではないのよ」


「でも、仲間の店ですよね」


 その言葉で、寂しさの形が少し変わった。


「そうね。仲間の店が増えたのね」


◇◇◇


 新しい会社の設立には、一か月の準備期間を置いた。


 それまでは試験契約を延長し、出資金の確認、雇用契約の移行、許可の名義変更、仕入れ先への説明を行う。


 従業員は、自動的に移籍させない。


 夜明けの星との雇用を終えて共同会社へ移るか、別店舗への配置を希望するか、契約書を読んで一人ずつ選ぶ。


「全員、残ると思っていました」


 夜番代表が言った。


「思っていても、選べる形にしましょう」


 8人のうち7人は共同会社への移籍を希望した。


 一人は、家族の都合で昼勤務へ変わりたく、隣のパン屋との共同仕込み担当を選んだ。雇用主はパン屋になるが、研修費の一部を移行契約から出す。


 看板は、片側に『夜明けの星』、その下へ少し小さく『クレセントベイ共同店』と入れる。


 港の人たちが、夜明けの星の名前を消さなかった。


 私たちも、港の名前を小さな裏書きにはしなかった。


◇◇◇


 最終夜、店の前で小さな継続式を開いた。


 一般営業は午前0時から。式はその前に終え、店員を長時間立たせない。


 トニーが、新しい海鮮おにぎりを持ってきた。


「今度は、シルバーフィンの皮を細かく焼いて混ぜました。身だけ使うより、廃棄が減ります」


「調理時間は?」


「増えました」


「正直ね」


「攪拌だけでも自動にできれば、仕込み担当の手が空くんですが」


 その言葉に、アンナが封書を一つ差し出した。


「ちょうど魔術師ギルドから、調理自動化魔法の試験提案が届いております」


 温度維持。一定間隔の攪拌。加熱終了の警報。


 第64話で提案段階だった仕組みを、実際の厨房で試したいという。


「人の代わりに料理を完成させる装置、ですか?」


 トニーが警戒した顔になる。


「まだ、何を任せられるかも分からないわ」


 私は、皮入りのおにぎりを割った。


 香ばしい湯気の向こうに、港の30日間がある。


 魚の状態を見たトニーの手。漁へ出ない日を守った契約。潮に合わせた勤務表。


 それを一つの魔道具へ置き換えられるとは思わない。


「だから、料理人と一緒に試しましょう」


 午前0時。


 『クレセントベイ共同店』の名を加えた看板の下で、港の店員が自分たちの鍵を回した。


 カチリ。


 開いた扉の前で、私は反射的に胸を張った。


「これで『夜明けの星・四号――』」


「共同店です」


 アンナと港の店員、ついでにトニーまで、三人ぴったり同時に訂正してきた。


 ぐぬぬ。開店初日に店名を間違える創業者。看板に謝れ、私。


「……クレセントベイ共同店、本日より正式営業です!」


 今度は誰も訂正しなかった。


 潮鐘がカァン、と夜の港へ鳴り渡る。店員が自分の手で扉を押し広げ、最初の漁師を迎え入れた。


 ここはもう、私が増やした店ではない。


 この町の人たちが、三十日かけて自分たちのものにした店だった。

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