第27話 嫌がらせの影
「来月から、小麦粉は一袋十五銅貨になります」
朝の市場で、卸業者のマルコは私と目を合わせなかった。
「今までは十二銅貨でしたね」
「はい。肉も一キロ二十から二十四。調味料も、だいたい二割ほど上がります」
二十から二十四。
紙の上では、たった四枚。
でも、一キロごとに四枚。肉まんを百個作れば、四枚が列を組み、帳簿の利益欄へズカズカ押し寄せてくる。
『二割!? 何よ二割って! 銅貨に足が生えて集団脱走する金額じゃない!』
叫びたい。市場の真ん中で、値札を掲げてグルグル回りたい。
けれど、目の前のマルコは、私以上に青い顔をしていた。
どれも肉まん、パン、保存食に欠かせない。
「理由を教えてください」
「市場の変動、としか通知には」
マルコは折り畳んだ紙を差し出した。王都側の集荷所から届いた価格表には、新しい数字だけが並び、穀物不足や街道運賃の説明はない。
「マルコさんの取り分が二割増えるわけではないんですね」
「とんでもない。こちらの保管料は同じです。嫌なら仕入れ量を減らせとも言われました」
責める言葉を呑み込んだ。
値上げを伝えた人と、値上げを決めた人は同じとは限らない。
「返事は、相場を確認してからにします。今週分の契約は、以前の価格でよいですか」
「そこまでは守ります」
「ありがとうございます。それと……私が怖い顔をしていたら、ごめんなさい。怒ってはいます。でも、あなたへではありません」
「いえ。怒られて当然です。私の口から値上げを伝えているんですから」
「決めた人と、伝えさせられた人を一緒にはしません。ただ、分かっていたことを隠されるのも困ります。次の通知が来たら、早めに見せてください」
「必ず」
マルコは深く頭を下げた。
信じることと、何も確かめないことは違う。
店へ戻る道で、紙の端が手袋越しに指へ食い込んだ。
大きな力が、説明もなく道を閉じる。
王宮を追われた日と同じ感覚が、胸の奥から蘇った。
今度は店まで奪われるのか。
怖さの次に、怒りが来た。
けれど、その怒りをマルコへ向ければ、圧力をかけた側の望むとおり、小さな者同士が切れただけになる。
◇◇◇
同じ日の午後、アンナと別の業者を回った。
野菜卸のトニーも約二割。乾物商は一割五分。地域で直接採れる卵と根菜は変わらない。
「全部が同じ二割ではありませんね」
アンナが一覧へ線を引く。
「王都の集荷所を通る品が中心です」
街道封鎖、凶作、魔石代の上昇を商人組合へ確認する。どれも一部の値動きは説明できるが、この時期に店の主要品だけ揃って上がる理由には足りない。
トニーは周囲を見てから、声を落とした。
「王都の大手が、夜明けの星へ卸す業者には保管枠を減らすと言った、という噂があります」
「どの大手です?」
「ヴェルナー商会。ただ、私は直接聞いていません」
「では、今は噂として記録します」
戻った店で、ミアとロウへ影響を説明した。
「二割を全部、商品へ載せたら?」
ロウが尋ねる。
「肉まんと保存食は値上げが必要になる。でも、利益だけで吸収し続ければ、賃金か設備修繕が消える」
「じゃあ、どうするんですか? 急に高くしたら、ハンスさんたちだって困りますよ」
ミアは値上げ表を見つめ、悔しそうに眉を寄せた。
「やっと夜でも温かい物を買えるようになったのに。どこかの偉い商会が嫌がっただけで、また手が届かなくなるなんて……そんなの、ひどいです」
「俺、荷車で王都まで行って文句を――」
「ロウ、気持ちはありがたいけれど、荷車で殴り込みはしないわ」
「文句を言うだけっす」
「その体格で荷車を引いて行ったら、向こうは完全に襲撃だと思うから!」
ロウは「確かに」と自分の腕を見た。納得するところ、そこなのね。
「生産者へ安くしてもらうのも違いますね」
ミアが言った。
「ええ。誰か一人へ痛みを隠して、価格を守ったとは言えないわ」
まず一週間、店の予備費で主要品の価格を維持する。その間に事実と別経路を調べる。長引けば、値上げする品と、安価な選択肢として残す品を分け、原価を説明する。
永遠の据え置きではない。
考える時間を買うための一週間だ。
◇◇◇
その夜、ゼルドが三枚の運送票を持ってきた。
「やはり、そちらにも通知が来ましたか」
「ゼルドさんの便にも?」
「私の荷には追加料金。夜明けの星へ卸す分だけ、王都倉庫の積み替えを後回しにすると」
ゼルドは、豪雨のとき配送を止め、祭りの移動炉を手配し、何度も店を支えてきた取引相手だ。今さら名乗る必要のない顔に、今日は苦い疲れがあった。
「ヴェルナー商会の印があります」
運送票には確かに印がある。ただし、競争妨害とは書かれていない。『倉庫混雑に伴う優先枠変更』という名目だった。
「これだけで違法な圧力と断定はできません」
「悔しいですね」
ゼルドは地図を見たまま言った。
「ええ。印まであるのに、『混雑です』『偶然です』と言われたら、それ以上踏み込めない。喉元まで『白々しい!』って出ています」
「私も、以前は怒鳴り込みたかった。自分の便だけ止められ、取引先から『面倒を持ち込むな』と切られましたから」
「怖くなかったんですか?」
「怖かったですよ。妻へ、もう商人を辞めるかもしれないと話しました。新しい道を見つけた、なんて今なら格好よく言えますが、最初の一か月は荷が半分も集まらなかった」
ゼルドがいつも見せる自信は、最初からあった鎧ではない。
閉じられた道の前で震え、それでも次の村まで歩いた人の顔だった。
「はい。でも、対象が偶然とは思えない。私も以前、新しい共同配送を始めたとき、同じように積み替え枠を失いました」
「どうしたんです?」
「王都を通らない小さな集荷所をつなぎました。最初は遅く、荷も少なかった。でも今は、地域の農家と店を結ぶ便になっています」
ゼルドは地図を開いた。
「この道を使えば、小麦と塩の一部は運べます。すべては無理です。それから、近隣店と注文をまとめれば、別の卸が便を出せる量になる」
「共同購入ね」
「ただし、数を集めれば自動で安くなるわけではありません。前金、保管場所、欠品時に誰へ何個渡すかを決める必要があります」
戦う、という言葉は使わなかった。
必要なのは相手を倒す剣ではなく、一つの門が閉じても荷が届く道だった。
ゼルドが帰った後、私は値上げ通知の横へ、大きな掲示文を書き始めた。
『ヴェルナー商会の圧力により――』
「その紙を、店頭へ出されますか」
アンナが尋ねた。
「お客様には、値上げの理由を知る権利があるわ」
「確認できた理由は、王都倉庫の優先枠変更と追加料金です。夜明けの星を潰す意図までは、書面にございません」
「でも、対象が揃いすぎている」
「疑いは濃いと思います。しかし、疑いと確定を同じ言葉で掲示すれば、後から事実が違っても、その商会で働く人の名誉は戻りません」
筆先から、黒い雫が紙へ落ちた。
王宮の広間で、私は『王妃にふさわしくない』と告げられた。誰が何を調べ、どの言葉が証拠になったのか、説明する機会は与えられなかった。
自分がされたから、相手にもしてよいわけではない。
「……この掲示は出しません」
私は商会名の部分へ線を引いた。
「代わりに、確認できた価格変更と、当店が行う対策だけを書く。圧力の疑いは、証拠を添えて商人組合へ出します」
「それがよろしいかと」
ミアが、不安そうに紙を見た。
「お客様から、誰のせいか聞かれたら?」
「調査中だと答えましょう。怒っていないふりはしなくていい。でも、知らない部分を埋めて話さない」
ロウは腕を組んだ。
「悪い相手を、すぐ悪いって言えないのは、もどかしいっす」
「ええ。でも、私たちが守りたいのは、勝った気分ではなく仕入れよ」
「それでも、悔しいです」
「私もよ。掲示を破って、商会名を十回書いて、赤い線で囲みたいくらい」
「十回も?」
「怒っているときの私は、筆圧まで強いの。紙が先に負けるわ」
アンナが新しい紙を一枚だけ差し出した。
「こちらへ、確認済みの事実だけをお願いいたします」
「一枚だけ?」
「怒りに任せた十枚分の紙代は、現在の予備費から出せません」
「そこまで現実で止める!?」
けれど、おかげで笑えた。筆を握る指から、少しだけ余計な力が抜ける。
新しい掲示には、七日間の価格維持、仕入れ先の確認、変更時の事前告知だけを書いた。
怒りを消したのではない。
怒りに、事実より先を歩かせないと決めた。
◇◇◇
翌日、レッドクリフの夜店を含む近隣三店へ声をかけた。
「共同購入には興味があります。でも、夜明けの星が全部を決めるんですか?」
レッドクリフ店主が尋ねる。
「いいえ。今回は小麦と塩だけ、四週間の試験です。必要量を各店が出し、前金も量に応じて払う。余った物を一店へ押しつけないよう、注文確定後の取消条件も決めます」
「本当に? あなたの店が声をかけたんでしょう。最後は『夜明けの星に従え』となるんじゃないですか」
疑いを隠さない声だった。
胸がチクリとする。
『助け合いの提案なのに!』と反発したい私と、『元王女が仕切る会議』に警戒する気持ちは当然だと認める私が、脳内で睨み合う。
「そう見えたなら、私の説明不足です。夜明けの星も一票。帳簿は全店が写しを持つ。私の店だけ多く取る案も、私一人では通せません」
「競合店に、そこまで見せるんですか?」
「細かな売上や客名は見せません。でも共同で払う金を、私だけが数えるのは嫌でしょう?」
店主はしばらく私を見つめ、ようやく腕をほどいた。
品質不良は受け取り時に二店以上で確認する。欠品時は、声の大きい店からではなく、確定数量に同じ割合を掛けて配る。仕入れ価格、運賃、保管料は全員に開示する。
「同じ割合でも、うちのような小さな店は困ります」
参加した食堂主が言った。
「百袋頼む店が二割減っても八十袋ある。でも、五袋が四袋になれば、毎日のパンを一日休むことになる」
平等に同じ割合を減らすことが、同じ痛みになるとは限らない。
「各店が営業を続ける最低量を、先に一つずつ決めましょう」
私は配分表を書き直した。
まず最低営業量を全店へ配る。残りを、確定注文の割合で分ける。最低量さえ揃わない欠品なら、一部の店だけを開けるために薄く配らず、代替品と臨時休業を全員で相談する。
「大きな店が損をしませんか?」
「大きな店は保管場所と前金を多く負担している。その分は保管料から差し引く。ただ、食べ物が一晩も並ばない店を作ってまで、多く取らない」
レッドクリフ店主が頷いた。
「競争相手同士でも、仕入れの道まで潰し合わない。そのための共同購入ですね」
帳簿の式は少し複雑になった。
けれど、簡単な公平より、続けられる公平を選びたかった。
「途中で抜けたい場合は?」
「確定済みの一便分を終えれば抜けられます。次の月まで縛りません」
ゼルドは配送を担当し、アンナは共同帳簿の様式を作る。私は各店の需要をまとめるが、他店の客名や細かな売上までは集めない。
最初の発注量は、四店合わせても大商会を揺らすほどではない。
それでも、地域の製粉所が一便を出せる量にはなった。
「直接契約の農家も増やしますか?」
ミアが尋ねる。
「店が実際に使う作物だけ。小麦、肉、香辛料を全部農家から直接買うのは無理よ」
卸は、複数生産者の品を集め、選別し、保管し、小口で届ける。その仕事まで『中間だから不要』と消せば、私たちが同じ仕事を無償で背負うだけだ。
三つの経路を決めた。
近隣店との共同購入。ロバートたちとの直接契約。ゼルドが開拓した地域便。
一つが止まっても、残りで全部を賄うのではなく、店頭品を絞りながら営業を続けるための三本だった。
◇◇◇
最初の共同便は、予定より半日遅れた。
雪解け道で車輪が沈み、塩袋の一つは外布が濡れていた。中袋は無事だったが、受取所で全員が確認する。
「新しい道なら、こういう遅れもあります」
ゼルドが時刻と原因を帳簿へ書いた。
安さだけで旧経路より優れていると決めない。破損率、日数、運ぶ人の賃金まで比べる。
一週間の集計では、値上げ通知どおりに全量を買えば、仕入れ総額は約一割七分増える計算だった。
共同購入で小麦と塩を一部置き換え、地域便で乾物を運び、直接契約の根菜を予定どおり使った結果、上昇は約三分に収まった。
「以前より安くなったわけではありません」
私はスタッフへ数字を見せた。
「でも、二割近い上昇を、誰かの賃金や買い取り価格へ押しつけずに抑えられた」
肉まん、おにぎり、基本スープは当面据え置く。輸入香辛料を使う限定品だけ一銅貨上げ、理由を値札へ書いた。安価な塩むすびと根菜椀は残す。
「全品据え置きの方が、格好よくないっすか?」
ロウが聞く。
「格好よさの代金を、未来の修繕費に払わせたくないの」
「でも、『嫌がらせに負けず値上げなし!』って言えたら、すごく爽快っす」
「分かる。ものすごく分かるわ。私だって入口で腕を組んで、勝利の笑顔を浮かべたい」
「じゃあ――」
「その翌月、加熱炉が壊れて修理代がなく、おでんを出せなくなったら全然爽快じゃないでしょう?」
「……地味でも、続く方がいいっす」
「そういうこと。現実の逆転勝ちは、勝った瞬間より、その後も店を開けられるかで決まるのよ」
客の反応は穏やかだった。ベルトは香り肉まんの値上げ札を見て、基本の肉まんを選んだ。
「選べるなら困らん」
その一言に、価格の説明をした意味があった。
◇◇◇
一か月後、マルコが店を訪ねてきた。
「あの値上げで、取引を失いました。私たちも共同購入の配送へ参加できないでしょうか」
「正直に申し上げます。私は、あなたを責めたい気持ちがまだあります」
マルコの肩がビクリと動いた。
「あの日、店へ戻る道で怖かった。せっかく作った居場所を、また大きな力に取り上げられると思ったんです。だから、何もなかった顔で『もちろん仲間です』とは言えません」
「……はい」
「でも、あなたが家族や雇い人を守りたかったことも聞きたい。責めるだけで終われば、次に同じ圧力が来たとき、また一人ずつ切られます」
「話します。隠した通知も、全部持ってきました」
マルコは鞄から、折れ目だらけの紙束を取り出した。
許すか、許さないか。その二択だけでは、商売の道はつながらない。
頭を下げる姿を見ても、私はすぐ「仲間です」とは言わなかった。
「圧力について、知っていた範囲を教えてください。それから、現在の倉庫契約と、こちらへ提供できる仕事を」
「保管と小口分けは続けられます。王都側から店名別の追加料を求められたことも、書面で出します」
「参加には、価格と手数料の開示、特定店だけを後回しにしないこと、退出条件への同意が必要です」
「分かりました」
マルコは敵から寝返ったのではない。
大きな倉庫に依存し、家族と雇い人を守るため、断れなかった小さな卸だ。だからといって、起きたことをなかったことにはしない。説明し、条件を結び直す。
試用の二便を経て、マルコは共同購入品の保管と各店への小分けを担当するようになった。
トニーも、直接契約では揃わない野菜の季節調整を引き受けた。
卸を消すのではなく、隠れていた仕事と手数料を見えるようにする。
◇◇◇
ゼルドからは、ヴェルナー商会が一部の優先枠変更を取り下げたと報告が来た。
「参加しない業者が増え、倉庫を空けておく方が損になったようです」
「私たちが商会を倒した、とは言えませんね」
「ええ。別名目の条件が来る可能性もあります」
証拠は商人組合へ提出し、判断を任せる。こちらは三経路の費用と遅延を毎月比べる。
嫌がらせが、ありがたい成長の機会だったとは思わない。
マルコは客を失い、ゼルドは遠回りをし、私たちは予備費を使った。傷ついた人がいる出来事を、きれいな教訓に変えてはいけない。
それでも、奪われるのを待つだけではなかった。
王宮を追われたときの私は、閉じた門の前で立ち尽くした。
今は、隣に地図を広げる人がいる。荷を運ぶ人、作る人、一緒に買う人がいる。
閉じた門を壊さなくても、別の道を作れる。
その夜、共同便で届いた小麦から作った肉まんは、予定より早く売り切れた。おでんの追加注文も重なり、ロウと私が狭い厨房ですれ違おうとして肩をぶつける。
「熱い鍋、通ります!」
「待って。今、肉まんを出すわ!」
仕入れの道は増えた。
けれど、それを商品へ変える厨房の道は、一本のままだった。
ロウと私の肩が、またゴツンとぶつかる。
「すみません!」
「今度は私が右へ避けるわ」
二人とも右へ避けた。
ゴツン。
「……道が増えても、私たちの息が合わなければ詰まるわね」
アンナが厨房の入口から冷静に告げる。
「息の問題ではなく、厨房の幅の問題です」
仕入れ妨害への返事は、威勢のよい啖呵ではない。
もっと広く、もっと安全に商品へ変えられる厨房を作ることだった。




