008 葛藤
章たちが帰ると、稑は、また何も言えない稑に戻っていた。
稑からは契約に絡む話は切り出せないまま、そして律子もまた、反対する気持ちに変わりはないものの、章にも稑にもそうはっきりと言い切れない、自分でもよく分からない心境のまま、その週末は終わろうとしていた。そして週が明けるとまた慌ただしく奇妙な生活が始まり、その忙しさを言い訳にして、下さなければならない決断はどんどんと先送りにされていった。
律子は、平日はフルタイムで働いている。そして稑は今、学校に通っていない。正確には通えていない。
稑は小学4年生の夏休み頃から、容姿がみるみると大人びていき、5年生になる頃には、もう完全にクラスの中で浮いていた。元々内気で積極的に周りと絡むことがなかったのと、自分でも自身の身体の変化や周りとのギャップに戸惑いを隠せず、孤立していくのは時間の問題だった。
しかし周りはそんな稑を放ってはおかなかった。突然知らない女子から話しかけられたり、帰り道で待ち伏せをされたり、知らないところで写真を撮られ、それが勝手にSNSで拡散されたりしていたのだ。
学校ではそういった問題行動を取り上げ度々注意を促していたが、その行為を行う側の認識はあまりにも浅はかで罪の意識がまるでなく、一向に改善の目処は立たなかった。容姿だけで勝手に作り上げられた"自分の知らない自分"が一人歩きをしているという状況に、稑の精神状態は限界まで達していた。それはもはや近くでスマホのシャッター音が聞こえるだけで言われようのない不安に苛まれるほどで、次第に外へ出ることすら出来なくなった。
学校は家庭の事情も把握していたので、律子がスマホで常に居場所を確認することができる状態であることを条件に、日中自宅で過ごすことを容認した。律子は加害者の心無い行為に憤りを感じながらも、こんなことが完全になくなる日はないと諦めてもいた。しかし稑を無理矢理学校に行かせようという気もなかった。
(ただこのままではまずい。何とかしないと…。)
しかし2人の生活費も稼がなければならない。次第に律子も精神的に追い詰められていった。稑も稑で、そんな母親を傍で見ているのがつらかった。
それから稑は、長い休みに入るとひとりで東京の伯父の家に行き、そこで生活をすることにした。伯父 哲夫は下町で小さな町工場を経営していて、稑と一緒に過ごせることをとても喜んだ。そして休みが明け学校が始まると、今度はまた他に行くところがあった。そこは律子がまだ名古屋に来たばかりの頃、身重な身体で複雑な事情も抱えた律子を、特に深入りすることもなく面倒を見てくれた一軒のスナックだった。そこのママをしている清子は、とうの昔に絶縁してしまった我が子の代わりに、律子を娘のように、そしてやがて生まれた稑を孫のように可愛がってくれた。昼間は2階の自宅で過ごしていて、今でも稑のことは温かく迎え入れてくれるので、律子は稑が自宅でひとりで過ごすよりも返って安心だった。
稑は清子ママの邪魔にはならないように、1階のお店で大半の時間を過ごしていた。そして暇つぶしにそこにあるカラオケで歌を歌い始めたのだが、それが今の稑がここまでに至るすべての始まりだった。夕方になってお店に下りてくる清子ママの前で歌うと、
「稑ちゃん、まぁた歌が上手くなっとる。」
と、清子ママは顔をほころばせて喜んでみせた。稑はそれが何だかとっても嬉しくて、どんどんと歌うことにのめり込んでいった。
「もし稑ちゃんが歌で有名になったら、ママ真っ先にサインもらいに行くで。」
ある時清子ママにそんなことを言われ、稑は自分の中で何か糸がピンと張ったような感覚を味わった。
(僕は歌が好き。だから自分にはいつしか歌で生きる、そんな道があるのかもしれない。だとしたら、もう勝手に知らない自分を一人歩きさせない。)
稑は漠然とそう思うようになっていった。
面談をして、間もなくひと月が経とうとしていた。章はその後も稑とはこまめに連絡を取り合っていた。しかし催促するようなことは決してせず、むしろ焦る稑をなだめた。
一方で律子も、このままではいよいよまずいと感じ始めていた。しかし未だに、今のこの気持ちをどうやって結論まで結び付ければよいのか分からないでいた。各々は葛藤に悩み苦しんでいた。
律子はとりあえず、もう一度あの日のことを振り返ってみることにした。そして詩帆が帰り際に置いていった封筒のことを思い出した。律子は稑の目に触れないようにしまい込んでいたその封筒を見つけ出し、おもむろに中身を取り出してみると、そこにはSmall Gateの概要、グループの今後の活動計画や方針などが書かれた書類などの他に、1枚のDVDが入っているのを見つけた。ケースには、「2020.8.17〜」とだけ小さく書かれていた。律子は見るべきと思いながらもあまり気が進まなかった。しかし意を決してそのDVDを再生してみることにした。