087 出張演奏 3
それからその月も終わりに差し掛かった7月下旬。
「じゃ、今日のミーティングはこれで終わりますッ。みんなッ、今日も1日頑張ってこーー!!」
俄然やる気に満ちた詩帆はそう言うとミーティングルームを出ていった。
「なぁんであんないつもテンション上げ上げでいられるの?」(新)
「ほんと、あの家出騒動の頃が懐かしい。」(優)
「何でお前らそんなに残念そうなんだよ。あの人はあぁでなきゃこっちも調子狂うっつーの。」(勇)
「でもさぁー、僕たちついこの間北海道ツアーが終わったばっかだよ?」(新)
「ま、そりゃそうなんだが次の名古屋もすぐだからな。気合い入れてぶっ飛ばしていくぞッ!な!稑ッ。」(勇)
「え?あ、うん。」
「…稑?大丈夫か?」(蓮)
「ん?…うん。」
蓮は心配事を抱えているような稑を気に掛けたが、恐らく蓮も稑と同じことを考えていた。
(全然いつも通りじゃない。詩帆さんは最近、元気がない。)
月初めに引き起こした詩帆の家出騒動はもう遠い過去の出来事と思えるほど、魂狼は日々の活動に精力的に取り組んでいた。もちろんそれは詩帆も同じだった。
「いつからあんな感じなんだ?なんか上っ面っつーか。空元気っていうか。」
「やっぱり蓮も気付いてたの?…うん、今週入ってからかな…。家でもなんかぼぉっとしてるっていうか、心ここに在らずみたいな…。」
「そうか。ま、章さんは何か知ってるだろうから、俺からもそれとなく聞いてみるよ。」
「うん、ありがと、蓮!」
しかし蓮が章から詳細を聞くことはできなかった。
それから8月に入り、名古屋でのドームツアーも無事に終わった。稑にとって名古屋は、幼ながらに律子の事情を感じ取ってからはどこかずっと仮住まいのような場所に思えていたが、清子ママもいて、今の自分の始まりの場所でもある名古屋は、やはり稑にとっては特別な場所だった。そんな思いから稑は達成感に満ち溢れていたが、詩帆の空元気はいよいよ気のせいではなくなっていた。
「あッ…。はぁ…、またやっちった…。」
どうやら詩帆は出張演奏が控えているのか、最近またいつものように同じ曲を何度も練習していた。しかし珍しくミスを連発し、全く集中出来ていない様子だった。
「…大丈夫?緊張してるの?今回の出張演奏は、初めて行くところなの?」
同じピアノ室で過ごしていた稑はそんな詩帆に声を掛けた。
「うん…。」
「詩帆さんでも緊張するんだね。」
稑はソファから立ち上がるとグランドピアノの方までやって来て、閉じられた屋根に肘をつくと詩帆にそう話しかけた。
「うーん。やっぱり…、失敗したくない、ガッカリさせたくないって…、つい思っちゃうのかなぁ…。でもそれは稑も同じじゃない?」
「うん、確かにそうだね。でも僕の場合の緊張は、聞いてくれるファンのみんなにって言うよりは、メンバーに申し訳ないって思っちゃうんだよね。」
「え?そうなの??」
「もちろんファンのみんなには常に最高のパフォーマンスを見せたいと思ってるよ?でもそのためにみんなでこれだけ一緒に練習して来たのに、自分がミスして足引っ張っちゃったら申し訳ないなって…。」
「へー。」
詩帆は稑のベクトルの意外な方向に少し驚いた。
「でも反対にこうとも思うんだ。これだけやったんだから、それでもミスをしたら、それはもう仕方のないことなのかなって。」
「へぇ…。」
「詩帆さんも、いつもここでこれでもかってくらい練習してるの、僕はずっと見てきたよ?何年も一緒にいれば、あぁまたこの曲やるんだぁって曲もあって、でも詩帆さんはそれを毎回初見のように慎重にきっちり調整して、毎回真摯に向き合ってた。だからね、それでもし失敗しちゃっても、それはもう仕方ないよ。」
稑は曇った詩帆の顔を晴らすためにさらりと言ってのけた。
「そっか…。」
詩帆は少しぽかんとしていた。
「ちなみに僕は、やっぱりちょいちょいミスしてる…。」
「え?そうなの?!全然気付かなかった!」
「そ?へへ。でもメンバーはやっぱり分かるよね。だけどね、その後一瞬目が合った時に、みんな"ドンマイッ"って言ってくれてるのが分かる。表面上は表情とか何一つ変わらないんだけど、その目がそう言ってくれてるのがわかるんだ。」
「へぇ…。」
「だからそれを受け取ると、僕はすぐに気持ちを切り替えられる。」
「そうなんだ…。」
それを聞き終わる頃には、詩帆はすっかり稑の話に聞き入っていた。詩帆はメンバー同士が長い年月を掛けて築き上げてきた絆を改めて感じた。
「だからさ、もし詩帆さんが演奏で失敗しちゃったとしても、僕が"ドンマイッ!"って言うよ。実際には目を合わすことなんて無理だけど、でも、心でそう叫ぶ。」
「ふふふ、うん。ありがとッ、稑。」
詩帆は稑の自分を勇気付けようとする健気な姿にこころが温かくなるのを感じた。しかしくすぐったくも感じ、つい笑ってしまった。詩帆はこれまでピアノを弾くことに対して孤独を感じたことはなかったが、やはり個人技ではあるためすべてを自分の中で解決してきた。まして音楽療法士という活動はほとんどの人に打ち明けることはなく、今までずっと1人で戦ってきた。でも今日初めて、詩帆もチームのようなものを感じた気がした。そして詩帆は、この緊張する根本的な原因を稑に話したいと思った。
(自分から誰かに不安や悩みを打ち明けるなんてことは、いったいいつぶりだろう…。)
しかし稑には聞いてもらいたいと思った。
「稑…、実はね…。私今度…、」
8月最後の日曜日、出張演奏当日の朝、詩帆はいつものスーツ姿でいよいよ出発しようとしていた。その日の見送りはあゆみだけでなく、章も居合わせていた。
「じゃ、行ってきます。」
「…うん、いってらっしゃい。」
「何かあれば、すぐに連絡してくれ。」
「うん。ありがと。じゃッ。」
すると後ろからものすごい勢いで階段を降りてくる足音が聞こえた。
「待って!!僕も一緒に行くッ。」
「へ?稑?!」
詩帆は目を丸くして驚いた。そのまま止まらずに靴を履こうとした稑だったが、そんな稑にあゆみが言った。
「稑ッッ。」
その声はピリッとした鋭い声で、リビングの奥の方まで響く声だった。それからあゆみは声のトーンを少し下げ、諭すように言った。
「今日はだめ。」
そのひと言は、まるですべての行動を制止するかのような、そんな声だった。
「…どうして。」
「稑、大丈夫。私は大丈夫だから。じゃ、行ってきます。」
しかし詩帆もまた、これまでのふさぎ込んでいた日々が嘘のようなスッキリとした表情で稑にそう声を掛けると、くるっと踵を返しその勢いのまま玄関を出て行った。
(どうして?もう絶対に1人にしないって決めたのに…!!)
もう姿のない玄関に未だ佇む稑に章は話し掛けた。
「稑は、今日詩帆がどこに行くのか知ってるのか?」
すると稑は章たちの方に向き直ると、まっすぐに2人を見つめて言った。
「はい、知ってます。詩帆さんから聞きました。」
2人はそれを聞くと思わず目を見開いて驚いた。2人が驚く理由も、稑は理解していた。稑は続けた。
「だからこそ、僕も行きたいんです。」
章はその時、初めて稑の瞳の奥に光を見た気がした。章は言った。
「稑、詩帆は稑が知っていてくれるだけで、それだけで充分だ。詩帆は大丈夫だ。」
その時の章の顔が、嬉しさ、安堵、でもその中に隠しきれない切なさも含んだような、何とも言えない、そして少し感極まった表情をしていたので、稑はもうそれ以上食い下がることはできなかった。
一方堂々と家を飛び出したはずの詩帆は、タクシーの中でうなだれていた。
(だいじょーぶじゃないよーわたしはぜんぜんだいじょうぶじゃない…。)
「お姉さん、具合でも悪いの?大丈夫??」
「はぃ…、大丈夫でーす…。」
しかし目的地が近付くにつれ、詩帆の顔はみるみると青ざめていった。
タクシーの降車スペースに到着すると、ドアが自動で開いた。支払いを終え降り立つと、そこから見る景色は15年前とほぼ何も変わっていなかった。エントランスに車寄せのロータリーやタクシー乗り場まである大きな病院…。
(まさか…、音楽療法士として私が再びここへ訪れる日が来るなんて…。)
しかしいかなる理由であっても、詩帆はそのオファーを断る理由にはならなかった。詩帆は胸に手を当て服の上からネックレスを握ると大きくひと呼吸つき、降り立った停車スペースからまっすぐにその病院の受付へと歩き出した。
詩帆は前回来た時と同じ動線を辿り建物に入った。すると直後に目に飛び込んできたものに詩帆は思わず驚いた。そこはエントランスであり少し開けた空間だった。外のロータリーと接する面は、床から天井までガラス張りになっていた。それは以前と変わり無いはずだった。しかしその手前に床が一段高くなりステージのようなスペースがあり、そのステージに向かってたくさんの椅子が並べられていた。そしてそのステージには一台のグランドピアノが鎮座していた。
(これはなかった…。こんなのはなかった、絶対に…。)
詩帆は驚きを隠せないまま、恐る恐る受付のスタッフに声を掛けた。
「あのぉ…、本日演奏会でお世話になります橋本です…。」
「あぁ、橋本さんですね!お待ちしておりましたぁ。すぐに係の者をお呼び致しますので、こちらで少々お待ちくださいね。」
蚊の鳴くような詩帆の声とは対照的に、そのスタッフは明るくにこやかに対応してくれた。するとすぐに担当らしき女性の看護師が現れた。
「ようこそお越しくださいましたぁ。本日はどうぞよろしくお願い致します。」
「…よろしくお願いします。」
詩帆はそれまですべてメールでのやり取りだったためその看護師と会うのもその時が初めてだったが、その人もやはり最初から好意的に接してくれた。
それからしばらくやり取りをする中で、受付の人も担当者も、自分とこの病院との過去の繋がりは何も知らないことを悟った。するとさっきまでずっとキリキリしていた胃の痛みが幾分和らぎ、ずっと微妙に前屈みで肩をすぼめていた姿勢も、段々と楽にすることができた。しかし詩帆の不安はすべて払拭されたわけではなかった。
「あのぉ、今日私が実際に弾くピアノって、まさかあれじゃないですよね…?」
詩帆は事前の打ち合わせでは場所は多目的室で使用するピアノもアップライトと聞いていたからだ。
「あぁ、あれです!間に合って良かったです!」
「間に合う…?」
「はい、あれは今回の演奏会のために手配したものなので!」
(手配ッ?!え、わざわざ?!)
「わぁーそうなんですねー。へー。」
本来は喜ぶべきところなのだろう。しかし詩帆は全く喜べず、声も思わず棒読みになってしまった。
(手配って、それにはさすがにあの人も絡んでるよね?!え、あの人がそんなことを許すの?それに今日ここに来る演奏者が私だっていうのは知っているのか…?けど当時は私の名前とか分かるはずもないしそれはないか…。てかリハーサルもなしでここでいきなり、グ、グランドピアノ…、え〜〜〜…。)
詩帆は治っていた胃痛がまた再発した。しかし詩帆は混乱し掛けた頭を何とか冷静に保ち、すぐに今すべきことの優先順位を考えた。
「えっと、曲順て変えても問題ないですか?!」
「え?あ、はい、問題ございません。今回は司会進行も含めてすべて橋本さんにお任せしているので!」
「承知しました。ありがとうございます。」
(ここはきっとものすごく響く。一曲目にあれじゃ高齢者の中にはビックリしてひっくり返っちゃう人もいるかもしれない。)
詩帆はシチュエーションやその場に居合わせる人、その人たちの年代や状況、そしてリクエストなどを総合的に考えて演目を決めるが、今一番の問題は音の反響だった。ここのエントランスは2階まで吹き抜けになっているため、今日は休みで診察はないにしても、病室まできっと届く。
(とにかく業務の妨げにならないように、曲も、弾き方もしっかり考慮しないと…。)
詩帆は珍しく萎縮していた。




