085 家出
"おはよう!"
"ねーねーみんな!"
"今日の詩帆さん"
"めちゃくちゃ情緒不安定だからみんな気をつけて!!"
"おぉ稑"
"ちゃんと起きれたか"(勇)
"稑おはよー"
"詩帆さんが情緒不安定?"
"朝は全然普通だったけど"(優)
"だよねー"
"なんだろ"
"とりあえず了解"(新)
稑はSmall Gateに向かう途中でメンバーとのチャットに今朝の詩帆の様子を共有した。あの後支度を済ませすぐに家を出たが、その時にはすでに詩帆の姿はなかった。
13時、予定通りミーティングルームで本日のスケジュール確認が始まった。メンバーたちは稑から流された機密情報に警戒し、その日はやたらと静かなミーティングになった。
「ちょっと…。大人し過ぎて気持ち悪いんだけど。」
「気持ち悪いってナニッ。文字通りオレたちは大人になったってこと。ここ喜ぶトコじゃね?」
勇は至って普通を装っていたが、警戒し過ぎて身振りがどこかぎこちなかったり、まるで大根役者かのようなイントネーションになっているのをメンバーたちは見逃さなかった。しかし優も新も気持ちは勇と同じだったため、もう何も言うことなく勇の発言に黙って小刻みに頷くだけだった。
「そ?ならいいんだけど。じゃ、今日も1日よろしくお願いします。」
そう言うと詩帆はそそくさと退室してしまった。
「っだぁーーー!!なんだあの重苦しい空気はッ!!」(新)
「あれは新種のヒューマノイド詩帆だったね。」(優)
「情緒不安定かは分からなかったけど、でも明らかにいつもの詩帆さんとは違ったな。」(蓮)
「詩帆さん…、僕と一度も目を合わせてくれなかった…。」
稑は少し涙目になってぼそっとそう呟いた。
「なんだよ稑、いったい何があったんだよ。思い当たることでもあるのか?」
蓮は少し煽るように稑に迫った。
「いや、僕にも分からないよ…。でも…、朝目が覚めたら詩帆さんが僕のベッドの上で僕に跨ってて、それはもうものすごい剣幕で、何度も枕を叩きつけてきて…。」
「………ッッッ!!!」
それを聞くとメンバーたちは皆、もうどこからどう突っ込めばいいのか分からず、とりあえず目玉が飛び出そうになっていた。
「り、稑…くん?僕は『冗談』って言ったよね…?」
「いやいやいや、り、稑に限って、そ、それはない…。うん、そ、そんなことは…。」
勇はさらに言語がおかしくなっていた。
「それじゃあ目も合わせられないよねぇ…。」
優は嘆き、蓮は相変わらず何も発することはなかった。
「僕ッ、何をしたのかちゃんと聞いて、謝ってくるよ!!」
「おい!!バカやめとけッ!!」
「うん、そんなことしたらもう大炎上だよ。きっと章さんち出てっちゃうんじゃない…?」
「えぇッ?!」
「そうだよ稑!せっかく詩帆さんはあぁやって大人の対応してくれてるんだから、ここはもう何もなかったことにしておいた方がいいよッ。」
「でも…、このままじゃ…。」
その後も稑は焦るばかりに、自分が何をやらかしたのか思い出すことはできなかった。しかし事態は夕方に一変した。それはあゆみから稑に届いたチャットから始まった。
"稑、ごめん"
"詩帆が家出した"
"ほんとにごめん…"
「…へ?」
「何?どした?」
稑はスマホの画面を見たまま固まっていたので、その時稑のすぐ隣りにいた蓮は、もうそんな稑をスルーして直接スマホの画面を覗き込んだ。
「え…、家出…?詩帆さんが?」
「え!何々?!」
蓮の呟きを聞きつけたメンバーたちは、まるで砂鉄のように一気に稑目掛けて集まった。
「『家出とは : 主に未成年が家族に黙って家を出て行くこと。しかし成人が家を離れる場合にも使われます。』 by AI」
「バカヤロッ!!そんなん俺でもわかるわッ。」
勇はわざとらしく自分に向けて検索した内容を読み上げた優に半分本気のゲンコツをかました。
「痛ッ!でも厳密に言えば、あそこは詩帆さんの家じゃないでしょ…?」
ブレイン優は苦し紛れに言い訳をした。
「そんなんどっちだっていんだよッ。おい稑、おまえってヤツは…、ほんとに何バカなことしでかしてんだよ…。」(勇)
「でも謝ってるのはあゆみさんの方だよ?」(新)
「確かに。」(優)
「…とりあえず、ごめんッ、今日はもう帰るよッ。みんなごめん!」
そう言うと稑は一瞬でその場から姿を消した。
「ことがことだから、俺たちも何かあったらすぐに動けるようにしておこう。」
「おぅ。」
蓮のひと言で、この事態に一気に現実味が増した。
「あゆみさん!あゆみさん!?いる?!」
稑はノンストップで帰宅するとそのままあゆみを捜した。
「…稑。ごめん…、稑…。」
「いやいやこれはあゆみさんが悪いわけじゃなくて…、でも僕本当に何をしたのか覚えてなくて…。」
「…?違うよ稑、悪いのは私だよ。」
「どうした、いったい何があったんだ。」
振り向くと、章も事情を知り急遽仕事を切り上げ駆けつけて来た。それを見てあゆみは、本当に大変なことをしてしまったとその場にへたり込んでしまった。そんな姿を目の当たりにし、どうやらあゆみにも何か事情がありそうだと思った稑は、とりあえずあゆみの話を聞くことにした。
「15時過ぎ…、仕事を終えていつものようにラウンジでひと息ついてたら偶然詩帆を見かけたんだけど、その時の詩帆が珍しく目に見えてイライラしてて…。でもそのイライラが、いつもとはわけが違って、直感で、それは稜太が絡んでるなって思ったの。だから私、もう何も確かめずに、稑が稜太のことを聞いたことを詩帆に話しちゃったんだって早とちりして、勝手にそう決めつけちゃって…、それを謝ったの。そしたら、詩帆はまだそのことを知らなくて…。」
「え…。」
「すごく…、動揺してた。あの顔を見た時、取り返しのつかないことをしてしまったと思ったんだけど、その時は、特に何も言われずにその場で別れたの。でも家に帰って来たら、スーツケースに荷物をまとめた詩帆が降りてきて、『お世話になりました』って…。」
章も稑も、力なくうなだれるあゆみに掛ける言葉が見つからなかった。
「あーもぉいつもそう!」
そう言うとあゆみは両手で顔を覆いながら泣き崩れた。
「詩帆を追い詰めるのはいつもこの私なの!いつもいつも、全部私が原因なの!私さえ詩帆と出会っていなければ…、あの子はあんなに傷付かずに、もっと幸せな、普通の人生を過ごしていたのかもしれない…ッ。」
あゆみは周りが思う以上に、稜太に出会う一番最初のきっかけを与え、詩帆の人生に大きく影響を与えてしまったことに、これだけ時間が経った今でも悔やみ続けていることを稑は思い知った。
「誰のせいでもない。あゆみが詩帆に与えるのはいつもただの選択肢だ。そしてあいつは自分で進む道を決めている、これまでも、これからも…。だからあゆみは何も悪くない。」
「そうですよッ。それにあゆみさんはいつもこれでもかってくらい、まるで本当のお姉さんみたいに詩帆さんのこと支えているのを僕はいつも見てるから、だからそんなふうに思わないでください。」
章もしゃがみ込み、あゆみのそばに優しく寄り添った。いつも気丈に振る舞うあゆみが、章の前では少女のように泣いていた。こうやって2人は支え合っているのだと、稑は夫婦の絆を改めて垣間見た気がした。
(もしあの時…。あとからそんなふうに思うことなんていくらでもある。でももう時間は巻き戻せないんだ、誰にも…。そしてその結果がいかなるものであったとしても、そのすべてを受け止めて、この先一生背負って生きていくんだ。詩帆さんは、今も1人で…。)
そう思うと稑は益々早く見つけ出し、駆け寄り、自分が誰よりも真っ先に詩帆に寄り添いたいと思った。すると稑は、ふと先ほど言っていた優の言葉を思い出した。
"でも厳密に言えば、あそこは詩帆さんの家じゃないでしょ…?"
「そうだッ、詩帆さんはきっと、自分の家に帰ったんじゃないですか?!」
「いや…、それはそうなんだが…、あいつの家には今…、」
「あなたの寝泊まりできる部屋は無いわよ?」
「…は?ちょ、何言ってるの?私はこの家の実の娘なんですけど。」
玄関先で詩帆は美帆から聞き捨てならないことを言われ、途端にブチ切れた。しかし美帆は怯まなかった。
「あぁやっぱり。私はちゃんとあなたにメールしました。2回もしましたからね?でも相っ変わらず返事が無いので念のため章君にも連絡しておきました。聞いてなかったの?」
詩帆は自分のズボラな性格は認識しているため途端に何も言い返せなくなった。
「とにかく、今の留学生はあと2ヶ月は滞在するから大人しくお戻りください。」
美帆はまだ靴を履いたままの詩帆を上から見下ろしながら腕を組み仁王立ちで言ってのけた。
(あなたは本当に私の親ですか?)
「ん?何?」
「いや…、何でもない…。」
そのウィーンからの留学生の引受先を斡旋したのが岡崎先生とあらば、詩帆には逆らうことなどできるわけがなかった。
「だいたい安月給で仕送りもなければ我が家としてもこうでもするでしょ?」
「や、安月給ってッ!!章んちは宿代飯代ガス光熱費も全部もってもらって洗濯も掃除もハウスキーパーさんがみんなやってくれるし挙げ句ピアノも弾き放題で私にとってはもう天国みたいなめちゃくちゃ居心地のいいところなんだから給料が安い?だなんてそんな文句何一つ言えるわけがないじゃん!!」
「だったら今すぐそこにお戻りくださいマジでそんな生活ありがた過ぎるわッ(怒)。」
美帆は若干食い気味にそう言い返した。やはりあの詩帆を黙らせる母は最強だった。
(く、くぅ〜ッ!帰れるなら帰ってるっつーの!!)
仕方なくぷいッと出て行った詩帆を、美帆は半分呆れ顔で見送った。
(ったく、帰れる場所があるからって、まだまだお子ちゃまなんだから…。)
「え…、じゃあ…、詩帆さんは、今どこに…。」
「そうだな…。あいつがおずおずとここに帰ってくるはずもないしな。」
「誰か、親しい友人とか、」
「…いないな。」
「え…、じゃ漫喫とかッ!近所のひと通り、捜しましょッ。」
「いや、あいつは寝泊まりする一つ屋根の下に、ピアノがないと駄目なんだ…。禁断症状が出てしまって、一泊保つかどうか…。」
「えぇ…。でも、ここにいたって仕方がないでしょ、とにかく僕、手当たり次第に捜してきますッ。」
「稑ッ。」
章は少し強めに稑を制止した。
「申し訳ないが、おまえは家にいてくれ。」
「なんでですか?無理です。ここでじっとなんかしてられません。」
「でもな、稑。おまえが捜し回ったところで見つけられたとしても、そこで何か引き起こしてしまった代償はどう背負うつもりだ。それを詩帆はどう思う。」
章は核心を突いた。稑は何も言い返すことが出来なかった。
(なんで…。自分が望んで選んだ道が故に、大切な人を捜しに行くこともできないなんて…ッ。)
稑はその場に立ち尽くし、やり場のない悔しさに黙ったまま拳を握り、その拳を力の限り自分の腿に打ち付けた。
あまり大事にはできないため、捜索はあゆみの他に総一郎、そして誠と要に頼る他なかった。章は自身が動き回ると周りに余計な迷惑を掛けるだけなので、大人しく稑と家で連絡を待ち続けた。章は今回のことで、詩帆を思う稑の思いの強さを改めて目の当たりにしたような気がした。こんな大変な時であるにも関わらず、詩帆の周りは確実に変化していることをしみじみと噛み締めているようだった。
それから夜の9時を過ぎても、状況は何も変わらなかった。章は自分の腕時計を見た。すると、何かを思い出したかのように突然言った。
「もしかしたら、あそこにいるかもしれない…。」
「あそこって、どこですか?!」
そう聞き返した時には、章はあゆみに電話を掛けていた。
「あゆみ、悪いが、今から車を出してほしい。」
"分かった。"
「稑も行くぞ。」
「…はいッ。」
稑はすぐに章の後に続いた。




