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今ここであなたと出会えたことは 三つ星編  作者: 安田 木の葉
第一章
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007 説得

 それは章と詩帆が稑の家を訪ねる日まで、すでに1週間を切っているある日のことだった。


「お母さん…、お母さんに、どうしても会ってもらいたい人がいるんだけど…。」


 重々しく稑にそう言われ、律子は、これはただ事ではないなと直感した。しかし実のところ、稑に関してはすでにいろいろなことがただ事ではなかった。


 オーディションを受け、最終メンバーに選ばれたことを稑から告げられると、律子は真っ先にその一連の出来事に陰で加担していた兄に電話をした。


「ちょっと兄さん!うちの稑に、何勝手なことしてくれてんの!!」

「おぉ、聞いたか。いやぁ、最後まで通ったんだってなぁ。稑のやつ、すげぇじゃねぇか。」

「何をそんな他人事みたいに!これっていわゆる芸能界でしょ?!なんで稑をそんな世界に」

「俺が勧めたんじゃねぇよ?稑が自分でやりたいって言ったんだ。」

「でも相談された時点で反対するべきでしょ!」

「何でだ。なんで俺にそんなことができるんだ。」

「だって芸能界なんて、プライバシーもへったくりもないじゃない!それも本人だけじゃない、家族にまで及ぶのよ。私が何で名古屋にいるのか分かってるの?!」

「そんなんお前の都合であって稑には関係ぇねぇだろぉがよ。お前の人生に稑を巻き込んでんじゃねぇよ。」


 律子は当然のことを言われ、返す言葉がなかった。


「お前は稑とちゃんと話したのか?俺は最初にこの話を聞かされた時、正直驚いた。あの稑が、自分のことでこんなに主体的に動くなんて。連日の試験?とか言うのに通ってた時の稑なんざ、本っ当に生き生きしてたぞ?」


(そんなん私が知るわけないじゃない!!)


っと半ば八つ当たり気味に言いそうになったが、その原因は自分にあるのだと思うと、それも言葉に詰まって返すことができなかった。


「それにな、稑はその社長さんのこと、お父さんみたいだって言ってやがったんだ、父親がどんなかを知らないあの稑が。稑をここまで突き動かすヤツはいったいどんなヤツだって俺も調べてみたけど…。」

「調べてみたけど何?」

「まぁそれはなんだ、正直よく分かんなかったけどよ、それは今度お前が直接会って、そこで感じたままが答えだと思うぞ。」

「答え?」

「お前が稑に対して出すべき答えだ。」


 出だしはかなりヒートアップしていた律子だったが、兄の言うことはどれも最もで、だいぶ頭の熱は冷めた。そして何とか直接会うまでに至ったのだ。



 時は戻り、あれからどれほどの沈黙が続いたことか、しかし時計を見て確認することは出来ない。すると律子がようやく重い口を開いた。


「この話を聞いてから、あなたのこと、会社のこと、いろいろ調べさせていただきました。25歳で起業されたとか…。想像を遥かに超える若さで大変驚きました。それで、そのぉ…、やっぱり大丈夫なのかなって…。」

「はい。」

「それに、あなた、大富豪のご子息だとか。そりゃお金があれば、やりたいこともある程度はできちゃいますよね。でもお金の切れ目が、縁の切れ目とも言いますし…。」


 初対面で随分失礼なことを言っているという自覚はあるようで、律子の声は次第に細々と消えていった。


「そうですね。私はまだお金が無くなった状態をこれまで経験したことがないので、そこは正直なところ何とも言えないですが。」


(おいッ!!なんか売られた喧嘩を買っちゃってる感じになっちゃってるけど?!確かにそれは事実だが、それを今ここで言ったら話は詰んでしまうのではないか…?!)


 詩帆はもう気が気でなく、膝の上で両手のひらを強く握りしめた。章は続けた。


「富豪の息子といえば、私は中学の卒業祝いに父から1000万円を受け取ったんですよ。ちなみにそれは元服と称して5歳の時から積み立ててたみたいです。父からは、それを使い切った時に何を得たのか聞かせてくれって、それだけ言われて。」


「…、はぁ。」


 律子はとんでもない話が始まったことにどんな顔をして聞けばいいのか、少し困ってしまった。


「私にはその時好きな人がいましてね、ただ4つ年上だったんで当然まともに相手にされてなくて。どんどん先に大人になっていく彼女を見ていて、すごく焦ってたんですよね、このまま何も出来ずに他の人に取られたらどうしようって。だからすぐにその1000万を持って彼女のところに行きました。そしたら、思いっきりメガホンで叩かれました。」


「…メガ、ホン…。」


 章は続けた。


「あぁ、これじゃ駄目なんだって、その後慌てて指輪を買いに行きまして。それでもう一度彼女のところに行ったら、今度はゲンコツでぶっ飛ばされました。『こんなお金でもらったって嬉しくない!』って。」


 律子はもう固まったままだった。


「こんなお金って…、私は彼女の言っていることがさっぱり分かりませんでした。でもあるヤツが、対価の意味を教えてくれた。それから私は高校生で出来るバイトを探して、彼女の二十歳の誕生日に間に合うようにがむしゃらに働きました。あんだけ働いてこれっぽっちかよって、初任給を手にした時のあの衝撃は忘れられないですね。お金を稼ぐことがどれほど大変なことかをあの時身をもって学びました。本当はもっといい指輪を買ってあげたかった。益々自分の幼さを突きつけられた気がして悔しかったし、こんなんじゃ自分は認めてもらえないんじゃないかって不安しかなかったですけど、ちゃんと受け取ってもらえました。まぁ、今の奥さんなんですけど。」


 章がそこまで話すと、律子の表情は少し変わったような気がした。そして先ほどよりも、まっすぐに章のことを見ていた。


「その1000万円はまだ使い切ってないので、父には未だに報告はできてないんですけど、そのお金で彼女に最初に買ってあげた指輪の値段は、あの時どうやって決めたのか、周りで大切な人が困っている時、もしこのお金が無かったら自分は何をしただろう、とか、あると見えなくなるもの、幸いにも、そんな大切なことを教えてくれる人たちに私は恵まれていました。」


 それまで穏やかに話していた章だったが、そこから急に声のトーンを少し下げ、核心に触れるかのように言った。


「ただやはり、使い道がありそこに元手があるならば、私はそれを利用します。それが私がここに生まれた使命だと思っています。」


「…そうなんですね。」


 律子はそう話す章の目をまっすぐに見つめて言った。律子は章のことをただのボンボンと思うのは失礼な気がし始めていた。しかし少し距離が縮まったかのように思えたが、律子からの容赦ない質問は続いた。


「章さんは最終学歴が専門学校のご卒業で、ただ高校は名門の進学校のようですが、大学には進まれなかったんですか?」

「えぇ。もちろん大学に対して否定的なわけではありません。そこで得られるものを得てその後の人生に活かしたいともし子どもたちが言えば、私も親として当然背中を押してあげるつもりです。私の場合、その先の人生に得たいものがそこにはなかった、それだけのことです。」


(すでに子供もいるのか。)


 律子は思った。


「それはつまり、その時にはもうこの起業のビジョンが明確にあったということですか?」


「はい。」


(稑を突き動かした彼をまた突き動かすものはいったい何なのか。そこにはきっと計り知れない何かがあるのでは…。)


 章のあまりにもブレない言葉と眼差しに、律子はなぜかそう感じずにはいられなかった。しかし身内を庇うが故の疑心や敵意は、なかなか消えることはなかった。


「なんだかお話を聞いていると、もう怖いものなしの、ちょっと人間離れしたような印象しかないんですけど…。そんな方が、果たしてこんな庶民なんかに寄り添えるんでしょうか?稑が世間離れした人間になっては困るんです。章さんには何か、苦手なものとか不得意なことってあるんですか。」


「ありますッ。」


 そこは詩帆が力強く答えた。


(やっと…、やっと自分が話しても良いだろうと思える瞬間が来た!!)


 詩帆はまるで潜ってから約1時間半後にようやく息継ぎをしに海面まで戻ってきたクジラが盛大に潮を吹くかのように、前のめりになって言った。


「この人、め ちゃ く ちゃ 方向音痴なんです。外出時、この人には常に誰かしら同伴してるんですけど、それってボンボンが故のボディーガードとかそんなカッコいいもんじゃなくて、実は一人じゃ目的地に辿り着けないし、辿り着けてもそこから家に帰って来られないからなんです。」


「……、はぁ。」


 詩帆からの斜め上の返答に、律子はまたまた反応に困ってしまった。


「あと相当下戸なんで、お酒が全く飲めなくて…。こういう立場でこの業界を酒なしでやってけるって、ある意味すごいことだと思います。」

「お前は酒豪だよな。」

「そうですね、そのおかげで誰かさんがだいぶ助かっていると思います。」


 詩帆は章をやや見下すかのように見ながら嫌味っぽく言った。


「あのぉ…、お2人って、そのぉ、あまり上司と部下って感じがしませんけど…。」

「あぁ、私たち、幼馴染なんです。」


 詩帆はあっけらかんと言った。


「私たち、生まれた時から高校卒業するまでずっと一緒だったんで、章は言わば弟みたいなもんです。」


(おと、弟…?!)


 どう見ても詩帆が妹なはずなのに、口調も態度もまるで姉御であるかのような詩帆に、律子は頭が混乱しかけていた。


「なのでさっき言った付き人みたいなやつは、高校生までは私がほっとんどやってました!」


(なんの自慢だ。)


 詩帆は自分で言ったその発言に心の中で突っ込んだ。一方章は、そんな詩帆を横目で見ながら、少し場を和ませてくれたことに感謝をしつつ、その話の流れに乗っかるように少し茶化して言った。


「そうですね、そういう意味では、庶民とも上手くやれてると思います。」


 お後がよろしいようだが、なんだか素直に聞き入れられないその言い方に、詩帆はちょっと複雑な顔をして章を睨んだ。しかしふっと吹き出すと、そこから詩帆は肩の力を抜いて続けた。


「なのであゆみちゃん、て彼の奥さんなんですけど、そういやそんなすったもんだもあったなぁとか、今隣りで話を聞いてて、すごく懐かしかったです。あ、対価の意味を教えてくれたのは、また別の人なんですけど…。」


 最後にそう付け足した詩帆の声は、心なしか沈んだような気がした。


 稑の今後の活動の契約に関する話をしに来たのに、話はだいぶ逸れてしまっていた。しかし律子の表情は、明らかに最初の時より和らいでいた。


「なんだか章さんをはじめお2人の人間味が垣間見れた気がして、初対面の印象とはだいぶ変わりました。でも…。」


 そう言った律子の顔は途端に曇った。


「でもやっぱり、芸能界という、そんな不確かな世界に息子の人生を預けることは出来ません。」


「お母様の心情は、当然のことだとお察しします。」


(いよいよ本題に入った。)


 詩帆も、ガラス戸の向こうにいる稑もそれを感じ取っていた。


「人より一歩抜きん出た才能があること、己が自らその才能に気付いていること、その才能をすでに己の力で向上させていること、この3つは今回のオーディションの選考基準として個人に課する最低条件でした。これに関して、採用メンバーの中にはスクールに通うなどして指導者に教えを仰いでいた者もいれば、稑さんのように独学で自身の感性ととことん向き合い、貪欲に個性を磨き上げてきた者もいる。ただ13歳で、またこの限られた環境でここまでに至った稑さんに、私は大変衝撃を受けました。」


 章は続けた。


「ただそれだけのことが出来ているのに、彼は自己肯定感があまりにも低い。それは恐らくこの日本の教育環境の中で、徹底的に人と比べられて育ってきたからでしょう。彼は見た目が周りの同学年から明らかにかけ離れている。それは嫌でも常に比べられ、度々それに関する言葉も浴びせられてきたことでしょう。それが例え肯定的であっても、自分が望んで、あるいは努力をしてそうなったわけではないことに、違和感を感じずにはいられなかった。その後彼は意識的か無意識的かは分かりませんが、己の努力で周りに認めてもらえる唯一無二のものを自分の中に見つけ、そして徹底的に向き合った。それは彼が、自分が自分でいられる居場所を作ろうとしていたんじゃないかと思います。

 正直、芸能の世界はご想像の通り、いや、想像以上に厳しい世界です。だからこそ、そこで生きていくために先ほど申し上げた3つの条件は絶対に欠かせなかった。もちろん合格の理由には、周りのメンバーとの相性など複合的なことも絡んでいますが、私が見つけた5人は、これからは私の新たな家族として、共にこの世界で生きていく所存です。」


 間を開けずに詩帆が続けた。


「『ー 才能を死なせない ー』これが私たちの行動の原点です。それはもはやビジネスでなく、私たちの生きる原動力なんです。彼がこの道を望むならば、私たちは全力でサポートしたい。どうか、彼の未来を、私たちに託してはいただけないでしょうか。」


 それからまた長い沈黙が続いた。


 すると、律子の目からは大粒の涙がポロポロと溢れ出てきた。それは怒るわけでもなく、責めるわけでもなく、ただ哀しげに、息を殺して、堪えきれない涙を流していた。何かが刺さったようだった。それから律子は、震える声で言った。


「少し、時間をくたさい。今この気持ちを言葉に表すことは出来ません。今日のところは、どうかお引き取りください。」


 章と詩帆は、もう何も言わなかった。


 詩帆は居間を退室する時に、そっと机の上に封筒を置いていった。そして母親がいる手前、章も詩帆も稑には何も話しかけずに軽く会釈だけをし、そのまま稑の家を後にした。






閑話

 長崎での墓参りのあと駅で詩帆と別れた章は、この日も盛大に迷子になっていた。

 2時間経ってもその駅から位置情報が変化しないことに気付いた家族が、遠隔操作で章を空港まで誘導した。


「だって前回来たの一年前だし…。」

「だってじゃないッ(怒)!!!」

「いつもは詩帆が一緒だから…。」

「人を当てにしないッ(怒)!!!!」



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