075 久々の放課後 2
月曜日、章はこれまでと同じように朝門の前で詩帆が出てくるのを待っていた。するとほぼ時間通りに玄関の扉が開き詩帆が出てきた。詩帆は制服のジャケットを羽織っていた。章は詩帆の、その冬服の制服姿がどこか懐かしく、新鮮に思えた。
「おはよう。」
「おぉ。おはよ。」
「行こッ。」
「うん。」
どこかぎこちないやり取りだったが、章も詩帆も互いに普通を装おうとしているのを感じ取っていた。玄関から美帆が少し心配そうに様子を伺っているのが見えたので、章は軽く頭を下げて挨拶をした。詩帆はそんな章を待ち、章が歩き出すと、その少し後に続いて歩いた。
「それにしても随分短くなったな。」
少し振り向く形で章が言った。
「そーだねぇ。でも、結構気に入ってるッ。」
詩帆は少し照れながら、前に垂れてくる髪を度々耳に掛けたりしていた。バッサリと切り印象が変わったせいか、詩帆はどこか凛として見えた。そして表情から察するには不安そうな様子は全くなく、どちらかというと少しワクワクそわそわしているようだった。
(峠は越えたかもしれないが、いつも通りなはずもない。)
章はしばらくの間詩帆のことを注意深く観察するつもりでいた。すると詩帆は、早速いつもとは違っていた。
「おはよー!」
「…おはよー。」
それは教室に入った瞬間からだった。詩帆は積極的にクラスのみんなに挨拶をしていた。今までは、自分の席に向かう途中にすれ違う子くらいにしかしていなかったのだ。その類の変化は休み時間の時も、お昼休みの時も同じだった。今までは自然と章と過ごしていた時間を、今は意図してクラスの子といるように努めているようだった。
その日昼休みに音楽室に行くことはなかった。そして帰りの掃除の時間も、ゴミ捨てやらを積極的に引き受けたりしていた。どう見ても不自然としか思えなかった。クラスの子たちもそれは皆感じていた。しかし誰も詩帆に意見する者はなく、皆詩帆のやりたいようにやらせた。その対応は、まるで腫れ物に触るかのようだった。
詩帆がゴミ捨てを終え戻ってくる頃には、もう教室には章しか残っていなかった。
「あ、章…。ごめんね待たせちゃって…。」
「いや、大丈夫。」
もしかして自分は避けられているのではないかとも思えていたが、そういうわけではなさそうだった。
「帰りに先生のところにも寄って、遅れちゃった分の課題やら何やらの相談をしてたんだ。んで、これ、章の分。」
「は?」
「一緒にやるんだろ?って。」
「…。」
詩帆は手に持っていた分厚いプリントの束の一つを章に渡した。
「え、教えてくれるんでしょ?」
「いや…、まぁそのつもりだったけど。つーか丸投げ…。」
「うん…、丸投げだね。まぁ私はいつも進路希望調査で音大って書いてるから、先生もあまり力が入んないのかもね。」
「そういうもん??」
「さあ。でも私は章の方が絶対分かりやすいし!なのでよろしくお願いしますッ!!」
「へいへい…。じゃ、とりあえず図書室でも行くか?」
「いや、ここがいい。」
詩帆は即答した。そしてすぐに章の前の席の机を反対向きにして章の机にくっつけると、続け様に鞄から筆箱などを取り出し勉強をする準備を始めた。そんな詩帆に章はまたちょっとした違和感を覚えるも、特に何も触れずにその流れに身を任せた。
その席はちょうど窓際だった。その日も穏やかな1日だったが、少し開けた窓から入る空気は、もうすでに少しひんやりとしていた。
"いつまでも最期に囚われていてはいけない。"
詩帆はそう思っているのだと章は思った。それは確かだ。自分たちは生きているのだから。未来を決める今の自分を、ちゃんと生きなければならない。詩帆からはそんな思いがひしひしと伝わってくるようだった。
プリントを解く詩帆の顔は、不思議なほど穏やかな顔をしていた。そんな詩帆が、目線は問題を解きながら章に尋ねた。
「章は…、もう進路は決まったの?」
これまでのケロッとズバリ確信を突くような物言いの詩帆からはあまり想像ができない、それはゆっくりとした、優しく穏やかな口調だった。章もプリントから目を上げることなく答えた。
「あぁ。」
「あんたまさか、本当に付いてくる気じゃないでしょうねぇ。」
「まさか。」
「ほんと?」
「あぁ。俺は大学には進まない。」
すると少しの間を置いて詩帆は答えた。
「そう。」
それは章のその答えにとりわけ驚く様子もなく、先ほどと同じ口調で優しく穏やかに、そうひと言だけ答えた。それから少し笑ってこう続けた。
「てっきり、また付いてくるのかと思った。」
いつもならそこから先のこともいろいろとズケズケ聞いてくるのに、その日の詩帆はたったそれだけで、終始穏やかに会話は続いた。
「迷子が心配だねぇ。」
「別に迷子になったって死ぬわけじゃないし、大丈夫だよ。」
章は口にしてから言葉のチョイスを間違えたと思った。しかし詩帆は何も変わることなく続けた。
「そう。」
詩帆は尚も表情を変えずに穏やかに、そうひと言だけ呟いた。
「そういう詩帆は?お前ほんとに音大行くのか?」
「もちろん。私はそのつもりだよ?」
「…そうか。」
しかしあれから詩帆は、一度もピアノを弾いていない。
次の日も、その次の日も、詩帆は同じように毎日を過ごした。音楽室には行こうとせず、放課後は教室で居残りをし、章に勉強を見てもらった。日中は、課題のノートを回収したり、黒板を消したり、本来誰かやる人がすでに決まっていることも、率先して何かしら自分の役割を見つけ、がむしゃらに頑張っていた。そんな状況が続く中、詩帆は全くピアノを弾かなかった。それは忙しくて引けないというよりは、わざと忙しくしてあえて遠ざけているように章は思えた。それから2週間も経たないうちに、またある出来事が起こった。詩帆が教室で、突然意識を失った。
放課後、章は保健室に詩帆を迎えに行った。倒れた時に保健室に連れて行ったのも章だった。詩帆は保健室に着く頃には意識を取り戻していたが、顔面は蒼白で、額には脂汗をかいていた。章が再び保健室に訪れた時、詩帆は寝ていた。顔色はだいぶ良くなっていた。
「あら、滝本君。お迎えありがとう。もうすぐお母様もお見えになるから、よかったら滝本君も一緒に付き添ってあげて。家、近いんだよね?」
「はい…。」
章は心配そうに詩帆を見つめていた。
「心労…かな…。」
「先生は、どこまで知ってるんですか?」
「うん…、まぁ…。」
章は言えない事情を悟った。
「こういうのって、続くんですか…?」
「うーん、ケースバイケースだから、何とも言えないかな…。」
その保健医は寝ている詩帆を見つめながら言った。章も心配そうに再び詩帆に目を移した。すると、詩帆がうっすらと目を開け、眠りから覚めた。
「詩帆…?大丈夫か?」
「うん…。」
詩帆はまだぽわんとしていて、力なくそう返事をした。しかしその直後、詩帆はスクッと上半身を起こし、そのままベッドから出ようとした。
「橋本さん?今お母さんが来るから、それまでもう少しここで休んでましょう?」
「んんん。教室に、戻らないと。」
「大丈夫よ、今日の授業はもう終わってるわ。」
「え…。じゃあ、また遅れた分、取り戻さないと。章、行こ。」
「いや、今日はもういい。今は休め。」
「だめ。」
詩帆のやや強めの口調が保健室に響いた。少し睨むような目つきでそう言うと詩帆は上履きを履こうと足を下ろし、ベッドから立ち上がろうとした。しかし身体は思うように動かず、詩帆はバランスを崩した。
「詩帆!大丈夫か?!」
章は詩帆を支えようととっさに手を差し伸べたが、その身体は一切の遠慮もなく落ちてきたためその手をするりと抜け落ちてしまい、詩帆はそのままうつ伏せの状態で床に倒れ込んでしまった。詩帆はどこか一点を見つめ、しばらく動かなかった。しかしその僅か後から、詩帆の様子は急変した。うつ伏せになったまま、みるみると呼吸がおかしくなっていった。
「過呼吸ね、滝本君、下がって。」
保健医がすぐに詩帆に駆け寄った。
「橋本さーん、大丈夫よぉ。大丈夫だからねぇ。先生の目を見て、ゆぅっくり、呼吸しようか。一緒に数えるねぇ。橋本さーん、このリズムだよー。」
詩帆を抱き抱え、肩をゆっくりと優しく叩き数を数えながら、保健医は冷静に呼吸を先導した。その保健医とは対照的に、章は動揺していた。章はあの日の記憶が蘇っていた。詩帆もそうなのだと確信していた。章はそんな姿の詩帆を前にどうすることもできず、ただその場に立ち尽くしていた。
その後詩帆は「パニック障害」と診断され、再び学校に行けなくなった。




