068 約束
章と詩帆は、まだ稜太と連絡が取れないでいた。こうなると、稜太との再会はもう本人が学校に登校してくるのを待つ他なかった。しかし一向に稜太が学校に来ることはなかった。あれからひと月が経とうとしていた。
そんな矢先、9月最後の日の夜、詩帆のスマホに稜太からメールが届いた。
「今から、少し会える?」
「もちろん!」
詩帆はスマホの画面を一瞬疑ったが思わず飛び上がりすぐに返信した。するとまたすぐにメールが届いた。
「今から会うことは、他の誰にも言わないで。」
少し不信に思った詩帆だったが言われた通りそれを守るため、美帆には"章に会ってくる"と嘘をついて家を飛び出した。すると稜太はすでに家の前で待っていた。
「稜太…。」
稜太はその日もパーカー姿で、少し申し訳なさそうな様子で立っていた。詩帆が門の外まで出ると、2人はしばらく黙ったまま互いを見つめた。詩帆は何から話せばいいのか分からなかった。すると稜太が先に口を開いた。
「詩帆ッ。」
稜太はひと言そう言うと、そのまま詩帆に歩み寄り思い切り強く抱きしめた。
「ちょちょちょ!親とか見てるかもしれないし!章んちもすぐ隣りだし…!」
しかし稜太の腕の力は緩むことはなかった。詩帆の背中と頭の後ろにそれぞれの手がぴたりと這い、一寸の隙間もなく2人は密着していた。それはまるで異国に囚われて以来半年ぶりに再会を果たした家族のようだった。詩帆は稜太と付き合うことになってからも、未だ手すら繋いだことがなかった。スキンシップと言えることは、強いて言えばいつも詩帆が稜太の腕に抱きつくくらいだった。そのため詩帆はその熱烈な抱擁に、ただただ戸惑っていた。しかしその後稜太の口からかすれるように出てきた言葉に思わず胸が熱くなり、その羞恥心は一瞬で消え去った。
「痛かったよな…。怖かったよな…。ごめんな…。」
そのひと言で、詩帆の脳裏にあの日の光景が一気にフラッシュバックした。2人の時間はあれから止まったままだということを、詩帆は改めて思い知らされた。それからようやく稜太の抱擁が解かれると、詩帆はそのまま稜太の顔を見つめ、口元に優しく手を添えた。
「傷、もう治ったんだね…。」
「あぁ。」
稜太はその詩帆の手をそっと握った。
「行くか。」
「うん。」
2人は歩き出そうとしたが、稜太は一旦足を止め、詩帆の家の方に向き直すとそのまま深く頭を下げた。かなりじっくりと時間を掛けたお辞儀だった。詩帆はそれを不思議そうに見ていた。
2人が向かった先は、いつもの公園だった。時間は夜の9時を過ぎた頃だった。
「うわぁ、また少し伸びてるね!」
詩帆は柵から少し身を乗り出し、右手奥の方に赤く点滅を繰り返すライトを目印に指を差しながら言った。
「あぁ。」
稜太も同じ方を見つめながら言った。すると稜太はすぐ後ろにあるベンチに腰掛けた。
「詩帆も座るか?」
「うん。」
そう答え詩帆もそっちに向かうと、稜太は両手を目いっぱい広げて詩帆を迎え入れようとした。
「え…?」
「ここここ。」
戸惑う詩帆に、稜太は自分が深く座り前にできたスペースを両手で指差しながら、詩帆の座る場所を分かりやすくアピールした。詩帆はやはり戸惑うも、それを恥ずかしそうに受け入れ、恐る恐るその場に歩み寄り、くるっと180度向きを変えるとちょこんとそこに座った。すると間髪入れずに稜太はまた後ろから詩帆を抱きしめた。
(今日の稜太は、何だかめちゃくちゃ距離が近いな…。)
こんなふうに接する稜太は今の今まで一度もなかったので、詩帆は再び頭が混乱していた。しかし稜太はそんな詩帆にお構いなしに話を始めた。
「さっきの詩帆、めちゃくちゃウケた。」
「さっきのって?」
「『あなたは本当に杉本稜太ですか?』って…。」
そう言うと稜太は思い出したかのようにクスクスッと笑い出した。
「だって!今まで全っ然連絡取れなくて、送ったメールも全部無視されて、もうスマホはお父さんに没収されちゃったのかなって思ってたんだよ!それで突然あんなメール来て…。」
「うん、ごめん…。でもよくあんな質問瞬時に思いついたな。」
「あぁ、あれ?私も我ながらうまいこと思いついたなと思った。」
"じゃああの公園から見えるものはなんですか?"
それは先ほど稜太から久々に届いたメールの後のやり取りのことだった。そしてその質問の答えは、いつも見るたびにじわじわと伸び続けるスカイツリーのことだった。
「完成したら真っ先に行こうね!」
「うん。約束だ。」
そんな話をしている頃には、詩帆の緊張はもうすっかりとほぐれ、詩帆は完全に自身の身体を稜太に預けていた。
「スカイツリーに登ったら、やっぱり今より星は近くに見えるのかな…。」
「どうかな。行ってみないとわかんない。」
「だな。」
稜太はそのまんまの詩帆の答えにまたクスッと笑った。
「この星の数だけ、地球には人がいるのだろうか。」
ナレーターを真似たような口調で稜太が言った。そしてこう続けた。
「人は星と違って、動けるし、話せるし、触れられるのに、どうしてこう上手くいかないのかねぇ…。」
それを聞き、詩帆はそれが稜太と父親とのことだと悟った。
「お父さんとは、ちゃんと話できた…?ご飯はちゃんと食べれてる…?」
「あぁ。」
「学校には…、まだもう少し時間掛かりそう…?」
「いや、そんなこともない。あと少し、もうあと少ししたら、また会えるようになるよ。」
「ほんと?」
「あぁ。そしたらもういつでも会えるから。だから、あともう少しだけ待ってて。」
「うん!わかった。」
そう言うと、稜太は詩帆をまた少し強めにギュッと抱きしめた。詩帆はその稜太の腕に自分の手を重ね、稜太はこの朗報を伝えに来てくれたのだと喜びで胸がいっぱいになった。
親御さんが心配するからと、それからしばらくして2人は帰ることにした。稜太は詩帆をまた家まで送ってくれた。その途中のT字路でのことだった。詩帆の家の方角としてはそのまままっすぐ進むのだが、稜太はそこでふと足を止め、もう一方の右に進む道の先をじっと見つめていた。その道はいつもla jetに向かう道だった。
「稜太…?」
「あぁ、悪い。行こう。」
「うん…。」
恐らくla jetのことを思っているのだと詩帆は思い稜太に尋ねた。
「今日会ったことは、章にも、あゆみちゃんたちにも言っちゃダメなの?」
「あぁ。今はまだ、そうしてくれ。悪いな…。」
「ううん、わかった。」
(今日の稜太はいろいろ変だな…。)
しかしそもそも今が普通じゃないのだと、詩帆はそれほど深く気には止めなかった。
「じゃあな。」
「うん。また学校で。」
「おぅ。」
稜太は詩帆と別れると、いつものようにふわっとフードを被り歩き出した。詩帆は稜太が見えなくなるまで見送った。稜太は遠くに行くにつれその輪郭は暗闇にぼやけ、やがて見えなくなった。
(あと少し…。あともう少しだけの辛抱…。)
詩帆は稜太が去った方をその後もしばらく見つめていた。
その頃章は2人が会っていることなど露知らず、自室でくつろいでいた。すると突然スマホの着信を知らせるバイブが鳴った。すでに23時を過ぎていたので不信に思いながら画面を見ると、それは稜太からの着信だった。章は慌てて通話ボタンを押した。
「もしもし、稜太?」
章がそう問いかけるも、スマホからは何も返事はなく、しばらく沈黙が続いた。しかし次第に僅かに聞こえてくる息遣いから、恐らく泣いているのを必死に堪えている様子が伝わってきた。
「稜太、あれからずっと家にいるのか?何度も連絡したのに何も返事がないから、ずっと心配してたんだぞ?」
稜太はずっと黙ったままだった。
「お父さんとは、あれからどうなんだ?つらい思いはしてないか…?…ごめん、俺ばっかり畳み掛けて…。ご飯、ちゃんと食べてるか…?」
すると僅かにクスッと笑う声が聞こえた。詩帆と同じことを聞くので、つい笑ってしまったのだ。
「稜太?」
章はようやく稜太と繋がることができたこの電話が予期せぬうちに途切れてしまうことがないように、何とか話を繋ごうと必死に頭を振り絞って質問を考え続けた。するとようやく稜太の声が聞こえた。
"章…、おまえは母ちゃんかよ…。"
「え?」
やっと稜太の声が聞こえた。たったそのひと言だけだったが、いつも章に突っ込むあの稜太が少し垣間見れた気がして、章の緊張は少し和らいだ。
「お前の父さん、すごい剣幕だったな。」
"あぁ…。すげぇ怖かった。"
「うん…。前からあんな感じなのか?」
"…。"
稜太はまた黙ってしまった。
「いいよ、答えたくないことは無理して答えなくて…。でも…、しばらく活動は難しそうだな…。」
自分ばかりが喋ってしまい、逆に稜太の口を塞いでしまっている気がしてきた章は、とうとう自分も黙ってしまった。すると、稜太の口が開いた。
"俺さ…、転校することになった。"
「え?」
"だからしばらくは…、もう会うのが難しくなる。"
「それって…、まさか寮に入るとか、そういうことか…?」
"…あぁ。"
「そんな…、それはいくらなんでもやり過ぎだろ…。」
あの父親が考えそうなことだと章は思った。するとまた沈黙になってしまった。稜太の姿は見えないが、悔しそうに泣いている様子が空気を伝って分かった。
「もしかして…、もう会えないのか?」
"あぁ。あとはもう、明日俺の身体が行くだけだ。"
会ったところで未来は変えられない、そう思いこんな間際の知らせを選んだのだと章は思った。
「泣くなよ…。稜太は医者にならなくていい。稜太は稜太でいいんだ。」
章は思いつくだけひたすら喋った。
「いいか?今度は俺が、必ずおまえの役に立つから。約束する。俺も頑張るから、だからおまえも、あともう少し…、もう少しだけ頑張れ。」
ー 頑張れ ー
稜太はもう十分に頑張っていた。その言葉を口にしてからそれを思い出した章は、そう発したことを後悔した。すると稜太が声を詰まらせながら話し始めた。
"俺…、章たちと出会えてよかった。全身全霊で歌と向き合えてよかった。俺はあの時勇気を振り絞って一歩踏み出した自分を何度だって褒める。"
「あぁ。そうだ。これはおまえ自身で切り開いた道だ。」
"うん。でも…、やっぱり親は選べないからさ…。だからしばらくお預けだ。"
「…。あぁ…。」
章は何も言い返すことができなかった。
「今が無理でも、いつかまた出来るよ。」
"うん、そうだな。"
章は自分の言う言葉の薄っぺらさに嫌気が刺した。自身の無力さを、まだまだ子どもである幼さを恨んだ。
"章…。"
「ん?」
"おまえはどうしようもなく方向音痴だけどさ…、生き方で迷子になることは、絶対にないから。それは俺が保証するから。だから章は安心して、おまえがこうだと思う道を進め。このままブレずに、突き進んでくれ…。章ならできる。楽しみにしてるから…。"
その言葉の不確かさは先ほどとさほど変わらないのに、なぜかそれは自然と章の胸にすんなり納まった。稜太が言うと、まるで本当に実現できそうな気がしてならなかった。
「うん、約束する。それで俺が必ず、おまえを迎えに行く。」
するとまた小さくクスッと笑う声が聞こえた。
"おぅ。首長くして待ってるわ。…、章。"
「ん?なんだ?」
"約束…、守れなくてごめんな…。"
「え…、何の約束だ?」
"いや、何でもない。じゃあな。"
「おい…!稜太!」
するとその後すぐに通話は切れた。




