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今ここであなたと出会えたことは 三つ星編  作者: 安田 木の葉
第一章
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004 再出発の部屋

「じゃ、行ってきます!!」


 それは詩帆が長崎から帰って来て僅か1週間後のことだった。靴を履き威勢よくそう言うと、スーツ姿の詩帆はキリッと踵を返し、玄関の扉を開いた。その勢いでカッコよく出掛けたかったが、スーツケースの扱いに思いの外苦戦し、扉を押さえたままうまく前に進めずにもたついていた。そんな詩帆を父 佳克(よしかつ)が慌てて下足場まで降りてフォローした。スーツケースと共に外へ出ると、詩帆は改めて振り返り、2人に"ニーッ"と笑い、それからゴロゴロと音を立てながらまた歩き始めた。


「行ってらっしゃーい!章君たちによろしくねぇー!」


 佳克も、母 美帆(みほ)も、手を振りながら笑顔で詩帆を見送った。


「じゃ、私たちもお昼にしますか!」

「そだね。」


 娘の新たな門出のわりに、両親は思いの外あっけらかんとしていた。それもそのはずで、向かう先はあの章の家で、場所も詩帆の自宅の最寄り駅から山手線でたった4駅隣りだった。詩帆が通っていた大学よりもはるかに近く、章とも旧知の仲なので、今さら改まる要素はないに等しかった。



 詩帆は電車の中で高揚感に満ち溢れていた。それもそのはずだ。あの採用特典に、詩帆は正気ではいられなかった。


採用特典 ①

「宿付き」

正直自宅からでも通えるのだが、


採用特典 ②

「ピアノ室付き」

これも自宅で事足りるが、母の仕事を邪魔せずに済むのはありがたい。


採用特典 ③

「あゆみの飯付き」

!!!これだよ!!これ!!!


(いいんですか?!ピアノ室がある家に居候までさせてもらった挙げ句、あゆみちゃんのご飯まで食べられるって!!章様!!あんたはもう神だよ!!)


 詩帆の胸を一番高鳴らせていた理由はこれだった。しかし詩帆には、この後にもっと驚かされることが待ち構えていた。



「いらっしゃーーい!詩帆!!ようこそ我が家へ!!」

「きゃー!!あゆみちゃん!久しぶりぃーー!!」


 章の家に到着すると、あゆみが真っ先に出迎えた。2人は顔を合わせるなり思い切り抱きしめ合い再会を喜んだ。そんな2人を、玄関の奥で双子の子どもたちを抱き抱えながら章が見守っていた。章に気付いた詩帆は、改まって玄関の奥へと進んでいき、そして挨拶をした。


「章、これからどうぞよろしくお願いします。」

「おぅ。こちらこそ、よろしくな。」

「うん。」


 そう言うと、詩帆は子どもたちにも挨拶をした。


「てるてるぅ〜、久しぶりぃ〜!また随分大きくなったなぁ。詩帆姉ちゃんだよぉー、覚えてますかぁ??」


 "てるてる"とは、詩帆が勝手に付けた双子の総称で、長男の(ひかる)、そして長女の(あかり)の名前から由来している。齢は3歳4ヶ月。光は詩帆のことをじぃっと見つめ、明は足をバタバタさせて詩帆に飛びつこうとしていた。そんな明を詩帆に預け、章は光を抱いたまま、詩帆のスーツケースをひょいっと持ち上げると、2階の部屋まで運びに行った。


 詩帆は明を抱いたまま、家の中をひと通り案内してくれるあゆみの後ろをついて歩いた。新居を建て、昨年引越したことは知っていたが、中まで上がるのは今日が初めてだった。

 1階は主に章の家族が生活する空間がメインだが、キッチンやリビングダイニングは自由に使える。そして同じ敷地であゆみの父 総一郎が経営する喫茶店とも自由に行き来出来るようになっている。吹き抜けの中庭があり、廊下がとても入り組んでいるので、間取りを覚えるまでは迷子になりそうだった。

 2階は反対にとてもシンプルで、来客用の部屋が4部屋あり、どの部屋にもバスとトイレが付いている。詩帆は階段を上がって右奥の部屋に居候することになっている。

 そして最後に最上階にあるピアノ室へと向かった。


 階段を昇り切ると、左側はオープンテラスになっていて、右側に一つだけ部屋があった。明らかに他とは違うその部屋のドアは防音室用のドアになっていて、扉の中央は15cmくらいの幅のガラス窓になっていた。

 あゆみはそのドアまで近づくと改まってゆっくりと振り返った。そしてドアノブをぎゅっと握り押し下げると、重厚感のあるその扉をゆっくりと自分の方へと引き寄せた。詩帆は先ほどまでと様子が異なるあゆみに恐る恐る近づき、そして中を覗き込んだ。すると詩帆も、さっきまでのピーピーキャーキャーといったミーハーな反応とは打って変わって無言になった。中の様子が視界に飛び込むなり、詩帆は驚きのあまり言葉を失っていた。そこは詩帆にとってとても懐かしく思い入れのある場所で、まるでタイムスリップしたかのような部屋だったのだ。


「うそ…。ここ…、私の再出発の部屋だ…。」


 詩帆はあゆみに明を預け、ゆっくりと部屋に足を踏み入れた。そして詩帆は、部屋の中を一つひとつ確かめるようにじっくりと見渡した。


「どうして、こんな…。」

「ここはね、間取りをプランニングする段階から、細部にまで相当こだわって作ったんだよ。」


 あゆみが後ろからそっと声を掛けた。詩帆はゆっくりと部屋の奥へと進み、そしてそのこだわりを一つひとつ確認した。


 天井は高く、部屋全体の色調は白。入り口正面の壁の上部から天井の一部にかけてはガラスになっていて、そこから自然光が惜しみなく降り注いでいる。そして床の木目からは柔らかい雰囲気が漂っている。

 中央にはグランドピアノ。よく見ると、新品ではない。


「スタンウェイ…。ん?嘘…、これってもしかして…!」

「そう。それね、内見させてもらった時に、新築祝いに持ってってーーって。あの人ほんっと太っ腹だよね。でも詩帆に弾いててもらった方が、そのピアノも絶対喜ぶからって。」


 不思議とその時の会話のやり取りが自然と目に浮かび、詩帆はふっと小さく吹き出した。詩帆はその人の想いを汲み取るかのように、そのピアノを愛おしそうにゆっくりと指先でなぞった。


 そのピアノと向き合うように、白くて大きなソファーがあり、その上にはふかふかでさぞ抱き心地の良さそうな大きめのクッションが置いてあった。そのソファーの脇には、詩帆の背丈ほどある観葉植物が置いてあった。


 入り口から向かって正面右半分ほどは、奥が2段ほど階段になっていて床が高くなっている。その真ん中にはふかふかのラグマットが敷いてあり、その正面の壁と右側の壁はほぼ本棚になっていた。そこには音楽の専門誌だけでなく、絵本から海外の雑誌まで、実に様々な種類の書籍が収められている。あゆみから解放された明は、真っ先にここの絵本に向かって走り出し、さっそくラグマットの上に寝っ転がってお気に入りの絵本を読みあさっていた。


 入り口から向かって左側は、オーディオ関連の機材が置いてあり、その両端には大きなステレオが立っていた。


 何もかもが、当時の記憶のままだった。詩帆はまだ言葉が出てこなかった。しかしそこを何とか振り絞り、ありがとう、と小さく呟いた。しかしすぐに振り返り、もう一度大きな声で言った。


「ありがとう!!」


 そう言いながら、詩帆はあゆみにギュッと抱きついた。


「詩帆…。」


 そう言って、あゆみも力強く詩帆を抱きしめた。


「詩帆がこんなに早く決断してくれて、私も嬉しいよ。」


 あゆみも詩帆のことをどれほど心待ちにしていたかが伝わって来た。2人はしばらくの間抱き合った。詩帆は新築祝いの日のことを思い出していた。



 その日、家の中に上がろうとする詩帆を、章とあゆみは頑なに拒んだ。詩帆はそのことにとてもショックを受けていた。しかしもしあの時見せてもらっていたら、その後章からオファーを受けた時、詩帆には必然的に章たちへの恩が真っ先に浮かんでしまう。それでは詩帆の本心が伺えないと、タイミングを見計らっていたのだ。


(でも、ここまでしてくれてたなんて…。)


 詩帆も、そしてあゆみも、2人の止まっていた時間がまた動き出したのを感じていた。


 詩帆はあゆみの目を力強く見つめた。あゆみはその眼差しから詩帆の覚悟を感じた。しかし次の瞬間、詩帆の表情はころっと変わった。


「あ、でも即決した最大の理由は、『あゆみの飯付き』だよ?」

「え?!そうなの?!」


 2人は顔を見合わせたまま吹き出しそして笑い出した。


「じゃあもう今晩は、ご馳走のご馳走だーーー!!」

「きゃー!!やったーーー!!」


 子どもみたいにはしゃぐ2人に、状況はよく分からないが何だか楽しそうと明も加わり、3階は大騒ぎになっていた。そんな彼女たちの様子を階段の下から伺っていた章は、どうだっと言わんばかりの、でもほっと安心したような、そんな表情で見上げていた。



 あゆみが明とピアノ室から去ると、詩帆はピアノの前に進み、ゆっくりと、そして深々とお辞儀をした。それからピアノ椅子に腰をかけひと呼吸おくと、迷いなく鍵盤に指を置き、ある曲を弾き始めた。それは始まりにふさわしく、詩帆にとって最も思い入れのあるあの曲だった。






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