048 喫茶「la jet」
その店は小ぢんまりとした建物で随分と年季がはいっていた。入り口は開き戸になっていて、その扉にはどこか温もりが感じられた。中に入ると店内はやや薄暗くて、カウンター席の他に15〜16席ほどのテーブル席があり、先に入った詩帆と章はすでにカウンターの方に座っていた。
「いらっしゃい。」
カウンターの中にいる1人の男性が稜太に声を掛けた。稜太は先ほどと打って変わってまたもじもじとしていた。
「さ、よかったら君もこっちにおいで。」
男性に促され、稜太は章と詩帆の間の空いている席に座った。
「同じ中学の友だちなんだってね。遥々遠いところまでようこそ。"la jet"店主の総一郎です。」
とっても気さくな印象の総一郎はこれまた心地のよい声で自己紹介をした。
「初めまして…、杉本稜太です…。」
「おまえってころころキャラ変わるよな。」
「え…。」
相変わらずもじもじしている稜太に違和感がありまくりの章は思わず突っ込んだ。
「まぁまぁ初めて来た場所なんだし。ね、気楽に過ごしてよ。」
「はい…。」
気楽にと言われても、喫茶店に入ること自体がこれまた初めての経験で、そもそも子どもだけで来ていい場所なのか、稜太はまだそわそわしていた。すると一際明るい声が突然耳に飛び込んできた。
「あらー!あなたたちが友だち連れて来るなんてね〜!今日は雹でも降るんじゃないの?!」
その声の主は詩帆たちよりは明らかに年上だが、大人とも言い難いくらいの女の人だった。その人はカウンターの奥からずんずんとこちらに向かって歩いて来て、いよいよ稜太の目の前に立ち止まると何か話しかけようとしたが、その2人の間に章が突然バンッと紙袋を置いてそれを遮った。
「母さんから預かって来たよ。この前はありがとう。正代さんもすごく喜んでたよ。」
「あぁ、はいはい。そんなに急いでないのにぃ。ありがとね。正代さんはもう元気になった?」
「うん。もういつも通りバリバリ動き回ってるよ。」
「そ、よかった!」
そう言って紙袋を抱えると、そのままやや身を乗り出してやっとこさ稜太に話しかけた。
「初めまして、私はあゆみ。ここのマスターの一人娘です。章と詩帆は、もうここ10年来の常連さんなの。あなたもこれから末長く、通ってくれたら嬉しいなッ。」
(じゅ、10年?!こいつらいくつん時から通ってんだよッ!?随分ませてんなッ。)
稜太はやっと分かりかけた2人の生態がまた少し分からなくなった。
「あ、そろそろ17時になるよ。」
時計を見るとあゆみが言った。
「ほんとだ。じゃ、そろそろ行こっか。」
「おぉ。じゃあマスター、ごちそうさまでした。」
「うん、行ってらっしゃい。」
(え、もう行くの…?え…、あんだけ走ったのに??たったジュース一杯飲んで?そんで終わり…?)
稜太は一気に身体が鉛のように重くなった気がした。
「何やってるの?稜太。早く行くよ?」
(…、はいはい。今行きますよ…。)
稜太はとぼとぼと重い足取りで再び入り口まで歩き出した。
「お邪魔しました…。」
「うん、行ってらっしゃい。」
(行ってらっしゃい…?)
稜太はその言葉に違和感を覚えたが、もう今更どうでもよかった。外に出ると2人は退屈そうに稜太を待っていた。外はもうすっかり暗くなっていた。
「こっちだよ。」
そう言うと詩帆は歩き出した。それは自転車置き場とは反対方向だった。
(え…?)
稜太は不審に思いながらも着いていくと店のすぐ脇に地下へと続く階段があり、詩帆たちはそこを躊躇なくそのまま降りていった。それは細くてとても急な階段だった。
「え、どこに行くの??本当にそっち行っちゃって大丈夫なの?!」
「いいから来てッ!!」
もうだいぶ下の方から詩帆の声がした。本当に、本当に行っても大丈夫なのか、稜太はまだ不安だった。しかしこのまま帰るよりはいい、そう思った稜太は一抹の不安を抱えながらも意を決してその階段を降りていった。
一番下まで降り立つともう2人はいなかった。そこには先ほどとは異なる人工的で重量感のあるガラス戸があった。稜太は力を込めてその扉を手前に引き恐る恐る中を覗いてみた。するとそこには想像以上に広い空間が広がっていた。そしてよく見ると、譜面台や椅子、ドラムやアンプなどちょっとした音楽機材も置いてあった。
「なんっじゃこりゃッ?!」
「ようこそ!la jetミニスタジオへ!!」
そこは人伝てにしか知られていない総一郎が別に管理しているスタジオだった。普段は有料でレンタルしているが、章と詩帆は特別に顔パスで使わせてもらっているのだった。そんな施設紹介をしている詩帆の脇で、章は黙々と機材のセッティングをしていた。そして藪から棒に稜太にマイクを渡した。
「はい。」
「はい、ってなんだよこれ?!突然過ぎるだろッ!」
「これでいつもの歌ってみてよ。すぐに曲流すから。」
「は?!いつもの??」
そんなやり取りをしている2人を、詩帆は壁際の椅子に座りニコニコしながら眺めていた。稜太は全く理解が追いついていなかった。すると突然部屋に設置されているスピーカーから曲が流れ始めた。それはいつも音楽室で詩帆が弾いているピアノと同じ曲だった。しかしそれはピアノではなく、よくテレビやラジオで耳にするいわゆるポップス調で、まるでCDを流しているようだった。
「え、えぇ?!どうなってんの?!この曲!?」
「これは章が自分で作ってるんだよ。なんかパソコン相手に何回も何回も同じことをひたすら繰り返して。私には到底理解出来ないんだけど、最終的にこんな感じに仕上がるの。もうオタクでしょ?」
詩帆は若干けなしているがあまりにも専門的過ぎて、あの楽譜といいこれはもはや秀才の域だと稜太は思った。
「おまえ…、すごいやつなんだな。」
稜太はもうそんな言葉しか思い浮かばなかった。章はまるで聞こえていないかのように無反応だった。しかし音量など一通りの調整が終わると、章は稜太を見て言った。
「俺もおまえをすごいやつだと思ってるよ。」
「へ…?」
稜太は突然そんなことを言った章がよく分からなかった。
「さ!時間勿体無いから歌おッ!!」
詩帆が仕切り直した。稜太はとりあえず受け取ったマイクに自分の声を当ててみた。
『あー、あー。』
すると自分の声もスピーカーから聞こえ、いつも耳にする自分の声とは少し違って聞こえた。稜太はまだカラオケにも行ったことがなかったので、この経験もこれまた初めてのことだった。
「ここは防音室になってるから、思いっきし歌って大丈夫だよ!」
詩帆が嬉しそうに言った。すると稜太の中で何かが吹っ切れた。聞き慣れたイントロに合わせて恐る恐るマイクを通して歌ってみる。するとその声は音楽室でのそれとは全く別物だった。いつもよりも数倍自分の声がクリアに聞こえた。声色を変えると、それも忠実に反映された。それに何よりもまるで歌手にでもなったかのような、そんなワクワク感がたまらなかった。稜太は自分のありのままの声をその曲に乗せ歌った。
いったいどれほど夢中になって歌い続けたことか、時間はあっという間に19時を過ぎようとしていた。スタジオの中を元通りにし、3人はまたお店に戻った。店の窓にはブラインドが下げられ、外から見る限りはすでに閉店しているようだった。しかし中には入れるようになっていて、そこにはあゆみが用意してくれたご飯が並んでいた。
「稜太くんも一緒に食べて行くでしょ?」
「…はい!」
そこで稜太は、詩帆、章、あゆみ、総一郎の4人と一緒に晩ご飯を食べた。そしてたくさんの話をした。章の父親と総一郎が幼馴染であること。そのため親子で長い付き合いであること。あゆみの部活がない木曜日に2人は大抵ここへ訪れていること。あゆみが料理に興味があり、その日はいつもご飯を作ってくれること。そしてみんなで一緒に食べていること。下のミニスタジオはレンタル制になっていて、普段からいろいろな人が利用していること、あゆみの母親や神戸のことなど、稜太の思い当たる疑問はほぼほぼ解消していった。稜太はこんなにたくさんの人たちと一緒にわいわい楽しく食事をしたのはいつぶりかもう思い出せないくらい昔のことで、お腹だけでなく胸もいっぱいになっていた。そして終始居心地がよかった。それはあゆみや章たちの話はたくさんしたが、稜太のことを深く掘り下げるようなことが一切なかったからだ。稜太はそのことに帰り際になって気付いた。
「じゃ、おやすみなさい。気を付けて帰ってね。家着いたら連絡ちょうだいね。」
「うん。じゃあ、ごちそうさまでした。おやすみなさい。」
「あゆみちゃん!マスター!おやすみなさい!」
「ごちそうさまでしたッ!!」
自転車を漕ぎ始めた3人を、2人は店の前で見えなくなるまで見送っていた。
頬を刺す空気がひんやり冷たい。でもそれが何だか気持ちよかった。しかし稜太が夢心地に浸っていられるのもそう長く続かなかった。
「げ…、ここ、上るんだ。今から。」
「そうだよ、行きは下ったんだから、帰りは上らないと。先行って。」
章にそう言われ、稜太は致し方なく漕ぎ出した。
「ギアの変速操作分かるよね?じゃ、お先ーー!!」
もたもたしている稜太を詩帆はすいすいと抜かして行った。
「あ、ちょ、待てッ!!」
稜太は最初重めに設定し一漕ぎで距離を稼ごうとしたが、傾斜がキツ過ぎて思うように進まない。稜太は戦法を変えとことんギアを軽くした。すると今度はえげつないほどの回転数を漕がなければならなくなった。労力の割に報われない、しかし漕がないことには進まない。稜太はもうムキになって漕ぎまくった。すると、その脇をまたまた涼しい顔をした章が追い越していった。
「やっぱ先行くわ。」
「は…?こら待て!!くっそぉーーーー!!!」
(アシスト強しッ!確かにここに通うならあれは必須だ…!!)
稜太は2人の生態をまた一つ理解した。
想像以上に体力を消耗し、上り切った頃には稜太の額にはまたうっすらと汗が滲んでいた。2人はそんな稜太を一切お構いなしにすでにだいぶ先を走っていた。稜太は随分と蔑ろにされているようで、しかし自分に対しその遠慮のない態度がまた嬉しくも思えた。
(無駄にクタクタなのに、なんだろうこの高揚感…。)
言葉にならないこのワクワクした気持ちを抱きながら、稜太は先に行ってしまった2人を追いかけた。
自転車を詩帆の自宅に返すと、詩帆と章は稜太を最寄り駅まで送った。別れ際、詩帆は言った。
「塾には、ちゃんと行きなよ。」
「え…。」
それは全く想定外の言葉で、稜太は一気に現実に引き戻された。今日のこの一日は、これまでの無色の日々を覆すに軽く匹敵していた。しかしそんな日々が、そうそう続くわけがない。稜太はその一言に意外にも驚くほど素直に納得していて、思いの外ショックを受けなかった。
「うん。」
(やっぱり…、これが俺の現実だ。)
しかし詩帆は表情を変えずに続けた。
「歌は昼休みに練習しよ。そんでもし木曜日にla jetに行けそうだったら、その時は一緒に行こ!」
「え…。」
「やることは、ちゃんとやろう。後ろ指刺されながら活動するのは嫌だから。」
そしてさらに詩帆は言った。
「今ならまだ、間に合うでしょ…?」
(そうだった。詩帆はそういう人間だった。そして確かにそうだ。隠れてこそこそやることじゃない。やることやって、堂々としてたらいいんだ。どっちも俺の現実にすればいいんだッ。)
先ほど女子生徒に言われた全く同じ言葉が、今は素直に聞き入れられた。詩帆が言うとそれはまるで違った。やはり詩帆は曇りかけた心に光を差してくれる。稜太はその光を絶対に失いたくないと思った。
「うん。分かった。じゃあ、また明日なッ。」
稜太は2人に手を振り、自然と駆け足で地下鉄の階段を降りていった。
稜太を見送った詩帆はぼそっと言った。
「よかったのかな…、これで。」
すると章は迷わず言った。
「最初に声を掛けたのは俺だ。」
その言葉を聞いた詩帆は、自分以外の人間にこれほど執着した章を初めて見た気がした。




