038 章の覚悟
その日の夜、章は夕食に顔を出さなかった。詩帆も稑もそんな章を思うとどうしても気持ちが沈んでしまった。しかしそんな2人をお構いなしにガチャガチャと過ごすてるてるは、何の見返りもなくそんな空気を払拭し和らげてくれる存在でありとてもありがたかった。あゆみもそんな子供たちに気丈に振る舞っていた。
食事を終え風呂も済ませた稑は部屋にいても落ち着かなかったため、もう夜の10時を過ぎていたがピアノ室に向かってみた。すると、その向かいのテラスに章がいることに気が付いた。章はリクライニングチェアに身体を預け一人横になっていた。脇にある小さなテーブルには、ブランデーグラスが一つ置いてあり、そのグラスには1cmほどのブランデーが注がれていた。
(あれ?章さんてお酒飲めないよな…。後から誰か来るのかな。)
稑は章の様子が気になり、あまり見てはいけないと感じながらもしばらくその場から離れることができなかった。すると章が何か言っているのが聞こえた。
(金の対価、お前が教えてくれたのにな…。)
稑にはよく聞こえなかった。しかしその後章は自分が手にしていたブランデーグラスを先ほどのグラスの隣りに置いた。
(え…。)
後から置いたグラスは空になっていた。
すると誰かが階段を登ってくる足音が聞こえた。振り向くと、それは詩帆だった。
「詩帆さん…。」
稑は詩帆が自分のところまで来ると言った。
「章さん、もう出来あがっちゃってるよ?」
「え?章がいるの?」
「あれ…、一緒に飲むんじゃないの?」
稑はテラスの方を指差した。
「ん?」
詩帆は目線を移動し、そこに章がいることに気が付いた。
「あぁ、あれは私じゃないよ。」
そう言うと、詩帆も稑と並んで章の様子を伺った。
(そうなんだ、てっきり詩帆さんかと思った。)
そう思いながら稑も再び章の様子を伺っていると、詩帆が言った。
「あ、そういえば律子さん…、大丈夫だった…?」
「うん。今朝迅さんからも電話があったって…。」
「そう…。」
「迅さん、今朝ここにも来て、僕やあゆみさんにも謝罪してくれたよ…。」
「そっか…。」
迅の徹底した配慮に、詩帆は頭が下がる思いがした。
「でも母さん、章さんのことをあんなふうに書いたこと、いつか絶対に後悔するって言ってた。」
「うん。まぁ、それは、これからの章、だけじゃなくて、私たち次第だよね。」
「うん。でも自分も最初はあっち側の人間だったから、あの時は本当に失礼なことを言ってしまったって、改めて反省してた。早く本当の章さんをみんなに知ってほしいって。」
「うん。」
詩帆はその後も章を心配そうに見つめ、稑はそんな詩帆の横顔を見つめていた。そしてこんな時だが詩帆にどうしても聞きたくて聞きたくて仕方がないことを恐る恐る口にした。
「ねぇ…、詩帆さん。昼間誠さんとボイトレ室で何してたの?」
「えッ?!」
詩帆は思いの外大きくなってしまった自分の声に驚き、慌てて口を塞いだ。
「何でそれ知ってんの?!」
「え…、ちょうど中から出てくるところを見かけたから…。」
「あぁ…、そぉ。」
詩帆はそれっきり黙っていた。しかし稑の猛烈な直視に耐えきれず、詩帆は渋々答えた。
「ピアノをね、一曲弾いてあげたの。」
「えッ?!」
稑も思わず大きな声が出てしまい、いよいよまずいと思った2人は、慌てて章から見えないように壁の裏側に隠れた。詩帆はしゃがみ込み膝を抱えて身体を小さく丸め、手で口を塞ぎ息を殺していた。しかし稑はその理由を早く知りたくて、そんな詩帆にはお構いなしにまたすぐにたたみ掛けた。
「なんで?!まさか音楽療法士のこと、誠さんにも話したの?!」
稑は四つん這いのまま覗き込むように詩帆に問い詰めた。詩帆は慌てて自分の口の前に人差し指を立て、"しーーーッ"と稑を抑止しながら言った。
「それは言ってないッ。私から言うはずがない。」
それを聞くと稑はあからさまに胸を撫で下ろし、ようやく詩帆のすぐ隣りに座り壁にもたれかかった。章もあゆみも知っているのに、まるで自分だけが知っているような特別なこととして捉えていた稑は、その特権を維持できたことに安堵した様子だっだ。しかし稑は続けた。
「でも…、誠さんは詩帆さんのピアノ、聴いたんだね…。」
稑は再びしょんぼりした様子に戻っていた。
「え、あのさぁ、要くんもいたよ?」
「え?!」
「だから、私は誠さんと要くんに少しでも元気になってもらいたくて、一曲弾いたの。2人とも、今回のことでまたひどく心を痛めてたから…。」
「あぁ…、そうだったんだ。」
稑は確かに午前中のミーティングが終わる頃、要がチャットで詩帆から呼び出されひと足先に退室したことを思い出した。
「なーんだ。そっか、よかった。」
稑の表情は和らいでいた。
「え、何が?」
「え…、あぁ、そうだよね。何がよかったんだろ…。秘密が維持できたこと、かな…。」
「だからぁ、それは私が口止めしてるのに、私から言うわけないでしょ。もぉ、さっきから何言ってんの。」
「うん…。」
詩帆は本来の使命感から演奏したまでだった。稑もそうと知れば納得できるはずだった。でも、誠と2人きりの様子を想像したら、とても快く思えなかったのだ。稑にはその原因が分からず1人黙り込んで考えていた。すると突然、章の声が上から降ってきた。
「2人とも…、こんなところで何してるんだ?」
壁に寄りかかりながらそう言った章の声はろれつも上手く回っておらず、完全に酔っ払っていた。
「章のことが心配で、2人で様子を見に来たんだよ!」
「そうか。ありがとな。稑、もう遅いから、早く寝なさい。」
「はい…。」
そう言って次の一歩を踏み出そうとした時、章の足はもつれてしまいそのまま倒れそうになったので、稑は瞬時にその章を支え、詩帆も章が手にしていた二つのグラスを何とか無事にキャッチした。そのグラスは章の二十歳のお祝いに迅が贈ったものだった。しかし初めて交わした盃で章が下戸だと発覚し、それ以来2人の間で使われることはなかった。しかし時々こうして章がこれを使ってお酒を飲む時、その相手は誰なのかを詩帆は知っていた。グラスは二つとも空になっていた。
「稑ッ!このままあゆみちゃんとこまで運べそう?!」
「う、うん!大丈夫ッ!」
とはいえ元々大男である章がさらに脱力した身体は想像以上に重かった。詩帆はその場で叫んだ。
「あゆみちゃーーん!!いるーーー?!ヘルプーーー!!!」
するとすぐにあゆみの甲高い返事が聞こえ、階段を駆け上がってくる音が聞こえた。
「あぁもぉはいはい。」
そう言いながらあゆみはすぐ稑に加担してくれた。
「ごめんねぇ、稑。もう!すきっ腹でこんなん飲むから!」
そう言ってあゆみは稑の反対側から章を支えた。そして詩帆が先導しながら3人でゆっくりと階段を降り、章を寝室まで運んだ。
部屋を出る時、あゆみは心配そうな顔をしている稑に言った。
「稑、大丈夫だから。章は大丈夫。みんなも大丈夫!ね!」
「うん。」
「じゃ、私たちも寝よう。おやすみ、稑。あゆみちゃん、このグラス、片付けておくね。」
「うん、ありがと。2人ともおやすみなさい。」
その後詩帆はキッチンに向かい、稑は先に部屋に戻った。
(こんなに優しい人たちを、血の繋がりのない僕をこんなに大事に思ってくれるこの人たちを、あんなふうに取り上げて、傷つけて…。)
部屋に戻った稑は再び自分の中に怒りが込み上げてきた。しかしすぐに蓮たちとのミーティングの時のことを思い出した。
"章さんの覚悟は、俺たちの覚悟だ。俺たちの行動は、章さんの行動だ。決して章さんに恥じない存在でいよう、俺たち一人ひとりがだ。"
そうみんなで意思統一をして、各々が肝に銘じた。それを思い出し、稑は深く息を吸い、そして吐いた。
(あんなに優しくて、愛情深くて、まっすぐで、決してブレない。でもやっぱり人並みに傷付いて、落ち込んで、自暴自棄になって…。でも、それでもやっぱり優しくて…。そんな章さんを、僕は絶対に裏切らない。)
すべてをそばで見ている分、稑のその思いは人一倍強かった。
"皆、今回のことでは本当に迷惑を掛けた。混乱は家族にまで及んだことだろう。心から謝罪をする。本当にすまなかった。"
それは月曜日の朝早くに、全社員に向けてチャットで流れた章からのメッセージだった。
"これからも俺は、時に判断を誤り、間違いを犯し、皆に迷惑を掛けてしまうかもしれない。しかしそれでも俺は、みんなを守るために前に進み続ける。だからどうか俺を信じて、これからも共に歩んでもらいたい。よろしく頼む。"
詩帆がそのメッセージを読んでいると、直後に猛烈な勢いでiPadが鳴り続けた。みんな章に対するレスだった。そしてものの数分で全社員からの返信が終わった。みんな心は一つだった。
その後のSmall Gateは、だからといって特段目に見えて何かが変化した様子はなかった。しかし一人ひとりの熱量は格段に上がっていた。
あゆみも持ち前の明るさで今まで通り日々をこなし家族を支えていた。しかしそれ以上に、周囲の機微な反応をもすべて包み込むような包容力で、疑心で敵になりかけていた者も敵でなくした。それは母の成せる技だった。
総一郎の喫茶店にも変化があった。やはり興味本位での来店客が急激に増えていった。しかしそれに対抗したのはここに店ができた時からの常連客だった。対抗と言っても、好奇な気持ちで訪れた新参者たちは、そのじっちゃんばっちゃんパワーであっという間に本来の客に上書きされていった。
買い物先では、"章くんたちの次の新曲、楽しみにしてるからね〜"と声を掛けてくれる近所の人たちもいた。
また思いがけないところから意外なリアクションもあった。それは最終審査で落ちた応募者10人が同窓会と称して集まり、当時の様子を振り返る座談会をYouTubeにアップしたのだ。中には顔を隠して出演している者もいたが、章のことを伝えたくて仕方がないと言わんばかりに皆興奮気味に当時のことを熱く語っていた。それを見たメンバーたちは、当時を懐かしく思うと同時に、感慨深く、彼らの行動に胸を打たれた。章の周りには、そんな温かい人たちで溢れていた。そしてやはり極めつけは迅だった。
迅の巻き起こした行動は、結果的にその記事を取り上げた者たちに社会的制裁を与えた。そうは言っても、迅自体は何もしていない。行動を起こしたのは、迅の関係者たちだった。関係者とは、主に迅がオーナーであるマンションを利用する著名人や各業界の重鎮たちだった。その対象には、迅の父が絡む製薬業界も大きく絡んでいた。迅の名誉を傷付けたことに対し、彼らは徹底的にボイコットを起こしたのだ。それは迅がこれまで毎日、何年、何十年と誠実に過ごしてきた積み重ねの賜物だった。それ以降、滝本家を面白おかしく取り上げる者はいなくなった。




