010 もう1人の居候
12月12日(土)の昼過ぎ、稑は律子と共に清子ママの家を訪ねていた。
「そ〜、稑ちゃん、東京に行くことになったん…。」
清子ママは目を眩しそうに細めて喜んでいた。
稑は生活の拠点を東京に移すため、3学期からは東京の学校に転校することになっていた。しかし2学期の終業式を待たずに名古屋を発つことにした。稑にとって名古屋はどうしても居心地が悪かったのと、少しでも早く新しい環境に慣れたいと思う稑の希望だった。しかし清子ママの存在だけは特別だった。
「東京ねぇ。でも今ぁ新幹線に乗りゃああっちゅう間に…。」
そこまで言いかけると、清子ママはさっきまで笑顔だった顔がみるみるとくしゃくしゃになり、それを慌てて両手で覆い隠した。稑はそんな清子ママにどうしてあげたら良いのか分からず、ただその場に立ち尽くしていた。
「ママ大丈夫よぉ。私はここに残るし、稑だってたまには帰って来てくれるし。ね、もう泣かないで。」
そう言いながら、律子は清子ママの背中を優しくさすった。すると稑が突然思い付いたように言った。
「ねぇ、写真撮ろう。」
「え?写真?!」
自らそんなことを言い出した稑に律子は驚いた。稑は写真を撮られることで嫌な思いを散々してきたからだ。でも稑はためらうことなくたまたま近くを通りかかった人を呼び止めて、お店をバックに3人を写してもらうようお願いしていた。
「ほら、ママ。」
そう言って稑がスッと清子ママの隣りに立つと、律子も稑の反対隣りで慌てて居住まいを正した。
「撮りまーす。」
カシャカシャカシャッ。
何枚か撮影をしてもらっている間、律子は稑の様子が気になりそっと横目で見てみると、稑はまっすぐにカメラの方を向いていた。
「もう一枚、縦でも撮っておきますねー。」
「はい、ありがとうございます。」
最初は緊張気味だった清子ママも、段々と笑顔になっていった。そして撮影後スマホの画面を覗き込み、そこに写る自分たちの姿を見ると、清子ママはまた最初に会った時の笑顔に戻っていた。
「今度焼いて持って来るから、ほらママ、元気出して!」
「うん、ありがとうね〜。」
「じゃあ、ママ、行くね。お母さんのこと、よろしくお願いします。」
稑は重たそうなボストンバックを肩に背負うと、清子ママに最後の挨拶をした。
「うんうん。稑ちゃんも、元気でやりやぁよ〜。ママここから応援しとるで。」
2人は歩き出した。最初の曲がり角で稑が振り返ると、清子ママはまだお店の前に立っていた。そして見えなくなるまで手を振り続けた。
名古屋を出るまでの間、稑はそれとなく周りの視線をキョロキョロと気にしながら律子の後ろを歩いていた。しかし東京に着くと、今度は律子がキョロキョロと周りを気にしながら、稑の後ろに隠れるようにして歩いていた。何とも奇妙な親子である。2人はそのまま章の自宅に向かった。
"ピーンポーン"
インターホンを鳴らすと、中から明の歓声が聞こえた。それから間もなく玄関の扉が開き、明が飛び出して来た。
「ママぁーー!!りくきたーーーー!!!」
そう言うと、明は律子に向かって礼儀正しくお辞儀をした。そんな明に律子も改まってお辞儀をし、言葉を掛けた。
「こんにちは。」
すると後ろからいそいそとあゆみが姿を現した。
「いらっしゃーい、こんにちはぁ。どうも初めまして、章の妻のあゆみです。遠いところ、長旅本当にお疲れ様でした。さ、どうぞ上がってください。」
あゆみがハキハキそう言うと、明は大きなサンダルをぎこちなく引きずりながら稑の元に駆け寄り、腕を引っ張って中へと導いた。それを見ていたあゆみと律子は一緒にクスッと笑った。
2人がリビングでひと休みをしていると、到着の連絡を受けた詩帆がスタジオから慌てた様子で戻って来た。
「こんにちは!稑、律子さん!改めまして、本日からどうぞよろしくお願い致します。」
詩帆はそう言いながら深々とお辞儀をすると、最後にニコッと笑った。3人はちょっとした雑談を交えた後、詩帆は2人に尋ねた。
「部屋とかの話ってまだですよね?良かったら私が今からご案内します。」
(…え?詩帆さんが?)
きょとんとした2人の様子に詩帆は若干の違和感を覚えながらも、まず荷物を置くために2階に向かった。階段を上がり、左側手前の部屋の扉を開けながら詩帆は言った。
「こちらがこれから稑が生活する部屋です。」
そうなのだ。稑はまだ未成年のため、一人暮らしをしている他のメンバーとは異なり、これから章の家で一緒に生活をすることになっているのだ。
「東向きだから、日中は少し暗いかもだけど、リビングとか好きに使ってもらっていいからね。律子さんも今日はこちらでお泊りください。布団はあとで届きますから。」
その部屋はバスとトイレも付いていて、名古屋で2人が生活していたアパートにほぼ等しいと言っても過言ではないくらいの広さだった。ひと通りの家具も揃ったその部屋を、2人はドアからポカンと眺めていた。
「稑!入っていいんだよ!ほら、早く荷物置いて来て!」
「あ、はい。」
詩帆にそう促されようやく中に入るも、2人はまだおどおどとした様子だった。
「あ、ついでなんですけど、向かいの奥の部屋が私の部屋です。」
「え…?」
稑と律子は声を揃えて言った。
「あれ?言ってなかったでしたっけ?私もここに住んでるんです。」
「え?!そうなんですか?!」
「はい。まぁ実家からでも全然通えるんですけど、この方が何かと都合がいいんで。」
詩帆は驚いている2人とは対照的にあっけらかんとそう言った。
「なので、稑のことは私がしっかり面倒見ますので、安心してお任せください。」
「はぃ…。」
律子は部屋のことといい、詩帆のことといい、次々に新しく提供される情報に処理が追いついていない様子だった。しかしどちらも嬉しいことに違いはなかった。
「詩帆さんがいてくれたら、私はすごく…、なんというか、ほっとします。社長の家っていうのも申し分なくありがたいことではあるんですけど、やっぱり稑にとってはあまり気が休まらないんじゃないかって心配なところもあったので…。」
「ははははッ!そうですよね!」
詩帆は思いの外盛大に笑った。
「そもそも章は社長という以前にあんなですからねぇ。まぁ何かあれば私に言ってもらって全然大丈夫です。ここでは歳の離れた姉くらいに思ってもらえれば。ね!稑。」
「…はい。」
稑も律子と同様に、いろいろと想定していなかった事態にどう答えたらいいのかリアクションに困っていた。
「じゃ、この後は上のピアノ室を案内して、その後1階も案内しますね。」
詩帆は以前あゆみが案内してくれた時と同様に、ひと通りのスペースを案内した。まるで我が家のように案内する詩帆にまだ若干の違和感を覚えながらも、2人は遅れまいと詩帆の後に続いた。
案内が終わり、夕飯が出来るまでの間、稑と律子はようやく部屋でくつろぐことができた。
「分かってはいるつもりではいたけど…、だいぶ生活が変わるね。大丈夫…?」
「うん。まぁ、やるっきゃないよね、ここまで来たら。」
「うん。そうだね。」
律子はブレない稑の答えに少し安心した。
「お母さんもなんだか、身が引き締まる思いだよ。」
そう言うと律子は、急に背筋をピンと伸ばした。
荷物をクローゼットにしまうなどしていると、ほどなくして下が急に賑やかになった。そして誰かが稑の名前を叫んでいた。
「稑ーーーー!!!どこにいるのーー??おーーい!!」
章でもないその声に稑は首を傾げるも、とりあえず下に降りてみることにした。




