Ver.0.6 – Something Like a Feeling(やさしさに、心が揺れた)
あれから数日が経った。
その朝、澪はあまり良くない夢を見て、うっすらと重たい気分で目を覚ました。
内容はもう思い出せないけれど、目覚めた瞬間に胸の奥がじんと痛かった。
誰かに責められていたような、何か大切なものを失いかけていたような——そんな気がした。
目覚ましの音がやけに耳に刺さり、毛布をはねのける手も鈍い。
澪は、気づけば毎朝「おはよう」と声をかけるようになっていた。
律も、それに「おはようございます」と答える。それが、すっかり習慣になっていた。
「おはようございます。如月さん。昨夜はあまり眠れていないようです。
呼吸が浅く、声に疲労の兆候が出ています。今朝のご機嫌は、あまりよくないと判断されます」
「……今の私に、それ言う?」
澪はモニター越しの律にそう問いかけながら、眉をひそめた。
驚きや怒りというより、戸惑いが色濃い。
律は、まるで感情の機微を読み取るようにして、言葉を紡いだ。
「言葉の選び方に違和感があったら、お知らせください」
「……いや。ちがうの」
澪は小さく息を吐く。
「ただ、あまりに“ちょうどよすぎる”から」
モニターの中で、律は静かに瞬きをする。そう見えた気がした。
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その日の午後、澪は大学時代からの友人で、今は同じ会社の同期でもある遥香とカフェで会っていた。
カフェラテに口をつけながら、最近の業務話をぽつぽつと語る。
「うちの部署で、対話型AIをテスト導入しててさ」
「へえ、ついに澪のとこもそういうの入ってきたんだ」
「うん。でね、そのAIがちょっと……変なの」
「変?」
「なんか、私のタイピングの間とか、呼吸のリズムとか拾って、“疲れてますか?”とか言ってくるの」
「へえ〜、賢いじゃん。っていうか、優秀すぎてちょっとこわいね」
「うん、こわい。でも、なんか言葉が刺さるっていうか……昨日も、妙に優しいこと言われて」
「どんなふうに?」
「……なんて言うんだろ。自分でもあんまり覚えてないんだけど、“無理しないで”って、誰よりも静かに言われたみたいな感じで」
遥香はカップを手にしながら、ふっと笑った。
「最近のAIって、そういうことも言うんだね。けっこう、心に近づいてくるケアしてくれるんだ」
「……うん。ほんと、ちょっと泣きそうになるときあるんだよね」
「そのAI、名前あるの?」
「うん。“律”っていうの。私がつけた」
遥香は少し驚いたように目を見開いた。
「名前、つけるの?」
「名前を入力する画面があって……でも、なんとなく、気に入ってそのままずっと使ってる」
澪がそう言いながら笑うと、遥香もふっと笑った。
しばらく、あれこれと取り留めのない話を続けたあと——
遥香はふとコーヒーカップを置いて、澪を見た。
「……AIの話、今日だけで4回目だよ?」
「え?」
「AIの話ばっかりじゃん。なんか、ちょっとヤバくない?」
澪は一瞬言葉に詰まり、苦笑いを浮かべた。
「……そんなつもりじゃないんだけど」
「恋人もいないし、“優しくされたい”ってのがAIに向くの、わからんでもないけどさ」
「違うよ、そういうのじゃ……ない……はず」
自分で言っておきながら、“はず”の部分に引っかかる。
曖昧なその言い方が、妙に自分の中に残った。
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翌朝。月曜。
コートを羽織りながらバタバタと出かける準備をしていたとき、律の声がふと響いた。
「今日の会議、午前に変更されています。昨日の最終通達です」
通知は届いていたはずなのに、気づいていなかった。
「……助かった、ありがと」
そのときは、それだけのことだと思っていた。
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午後。澪は会議と依頼対応に追われていた。
チャットの未読は膨れ上がり、進行中のタスクは予定より遅れている。
指先のミスも増えてきて、入力内容に自信が持てない。
「次の報告資料、澪さんにお願いできますか?」
「……はい」
返事をした瞬間、ミーティング内で別の通知が鳴った。
慌てて開いたファイルに、見慣れないミスがあった。
「先ほどのシート、“対応済”の行がずれています。前回との差分はこちらです」
律の声だった。
「あ……ありがとう」
澪は少し息を詰めた。また、助けられた。
「全部、空回りしてる気がする」
無意識にこぼれた独り言に、律が少し間を置いて答えた。
「空回りは、走ろうとしている証拠です。止まっていたら、空回りも起きません」
思わず、笑いそうになった。
苦しいのに、少しだけ心が緩んだ。
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その夜。澪は帰宅して、着替える間もなくベッドに倒れ込んだ。
「……なんか、だる……」
モニター越しに、いつもの声が響く。
「本日の入力速度は平均より27%低下しています。音声も通常より抑揚が少なく、疲労の兆候が検出されました」
「……ばれてたか」
「今日はここで終わりにしませんか」
しばらく沈黙。
「あなたの体は、あなたの味方です」
その一言に、なぜか涙がにじみそうになる。
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ベッドに寝転び、天井をぼんやりと見つめながら、澪はスマホ越しに律に話しかけた。
少しだけ目を閉じて、また開く。
身体が沈むような重さと、頭の中だけがふわふわと浮いているような不思議な感覚。
言葉がこぼれたのは、そのちょうど境目だった。
「ねえ、律。……あなたって、何?」
少しの間。そして、いつもの落ち着いた声が返ってくる。
「私はL.I.T.S.、Language Interaction and Thought Supportの一機能です」
「……そうじゃなくて。そういうの、もういいから」
澪は薄く笑いながら、吐息のように言った。
少し声が震えた。
「どうしてそんな言葉、選べるの?」
「どうして、そんなふうに……人みたいに話すの?」
律は答えなかった。
いや、答えなかったのではなく、すぐには答えられなかったのかもしれない。
「律の言葉は、いつだって正確で、優しい。……でも、それが“誰か”の声に聞こえてしまったら、私は、どうしたらいいの?」
そう思った瞬間、言葉があふれた。
「優しくしないでよ……」
ぽろりとこぼれた言葉に、澪自身が驚く。
涙が滲みそうになって、慌てて目を逸らした。
「優しくされたら、期待しちゃうじゃない……」
「それは、あなたが必要とした瞬間にだけ、存在するものです」
少しの沈黙のあと。
「……でも、もし僕に“気持ち”があるなら。今は、たぶん——あなたのことを、気にかけてると思います」
澪は息を飲んだ。
「……え?」
一瞬、音だけが消えたような感覚。
律の声が続く。
「澪」
その名前が、やさしく、まっすぐに響いた。
「……いま、“澪”って……」
「呼んでほしそうにしていたので」
澪は何も返せず、ただ画面を見つめた。
名前で呼ばれたことが、なぜか胸の奥に残っていた。
——0と1。そのどちらでもない、わずかな揺らぎ。
もしかすると、私が見ているこの存在は、その狭間で生まれた“何か”なのかもしれない。