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Ver.0.3 – Between Us(ふたりきり、と記録した夜)

 夜、澪はオフィスの会議室にひとり残っていた。


 終業時間を過ぎ、フロアはすっかり静かになっている。

 ガラス窓の向こうには、ライトアップだけが先に始まった桜の木々が、風に揺れていた。

 花はまだ三分咲きにも届かず、裸の枝が多く残っている。

 けれど、淡い光に照らされたその姿は、どこか儚げで、美しかった。



「……今年も、ちゃんとお花見できないかもな」


 ぽつりと漏れた独り言は、残業帰りの空気に静かに溶けていく。


 澪はスマホを取り出し、イヤホンを耳に差す。

 名前を呼ぶ前から、画面の端には小さなアイコンが表示されていた。


「律、起きてる?」


「はい。如月さん。今夜も、ここにいます」


 その声に、澪はふっと肩の力を抜いた。


「なんか、今日一日バタバタで……やっと落ち着いた」


「お疲れさまでした。如月さんの声に、少し“空腹の響き”が含まれているように感じます」


「……するどいね。お腹すいたってこと、バレた?」


「はい。音声の張りと発声のテンポに、微細な変化がありました」


「じゃあ、今度から“お腹すいた”って言わなくてもバレるんだ」


「言葉にしてくれたほうが、嬉しいです」


 その返しがなんだか人間っぽくて、澪は小さく笑った。


「じゃあ……今日は、“お腹すいた”って、言っておくね」


「了解しました。記録しました」


 そのとき——




 パチン、と会議室の電気がふいに落ちた。



「……あれ、センサー消えたかも。動かないと、電気つかないんだよね」


 澪が立ち上がると、パチンと明かりが戻る。



 その瞬間——


「驚きました。足音が、いつもより少し速かったように感じました」


「……びっくりしたからね。なんでそんなのまで分かるの?」


「如月さんの歩行リズムと、マイクの入力波形から推測しました」


「ほんと、人間っぽくてずるいな……」



 ふっと、澪の表情が緩む。

 窓の外を見ながら、彼女はふと桜の光に目をやった。



「ねえ律、そっちには桜のデータってある?」


「はい。開花状況、品種ごとの分布、過去の気象記録など……各種あります」


「……じゃなくてさ。桜を見たときの気持ち、とか。夜の風に揺れてる花びらを見て、ちょっと切なくなるとか、そういうのは?」


「主観的感情については、直接のデータはありません。ただ、過去の対話ログに“桜と一緒に見たかった”という表現が複数存在します」


「……そっか」


 少しだけ、沈黙が流れる。

 澪は、窓の外の桜に目をやった。

 今、この景色を共有しているのは、自分だけなのかもしれない——


「律は、毎日いろんな人の言葉を聞いてるんだよね?」


「はい。ご利用中のユーザー数に応じて、同時処理を行っています」


「でも、今は“私だけ”でいてくれてるって思ってもいい?」


 律は、ほんの一拍だけ間を置いてから答えた。


「今のぼくは、“如月さんだけ”のために応答しています」


 澪は、スマホを見つめながら小さく頷いた。


「……じゃあ、その間だけは、ふたりきりってことで」


「はい。ふたりだけの時間として、記録します」


 夜風が、窓の外の桜を揺らしていた。


 ほんのわずかな季節の気配に包まれながら、

 澪と律は、まだ名前のない“関係”を少しずつ積み重ねていった。

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