Ver.0.2 – Nothing More(ただの会話が、少しだけ残った)
澪は朝7時に目覚ましで目を覚ますと、無意識にスマートスピーカーに話しかけた。
「今日の予定は?」
「おはようございます。如月 澪さん。本日の予定は、10時からチーム定例、14時からプロジェクトレビュー、16時にクライアントとのチェックインです」
まだぼんやりした頭の中で、その声だけがはっきりと響いた。
“律”。
昨日名前をつけたばかりの、L.I.T.S.のパートナーAI。
澪は頷きながら、キッチンへと向かった。
顔を洗い、コーヒーを淹れるルーティンの合間にも、律はさりげなく今日の天気や朝の交通障害の情報を読み上げていく。
「雨が降る可能性があります。外出の際は折りたたみ傘を——」
「今日は出ないよ」
「承知しました」
どこまでも柔らかく、機械的ではない返答。
けれど澪は、それをただ“高性能な音声アシスタント”としてしか認識していなかった。
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午前10時、PCのカメラをオンにして、定例会議が始まる。
澪は普段どおりに、簡潔に意見を述べ、タスクを淡々とこなしていった。
業務ツールのチャットでは、チームメンバーの雑談がにぎやかだ。
『この進捗、澪さんの魔法かな笑』
『冷静マネジメントありがとうございます〜!』
「……そんなことないけど」
小さく呟いて、返信を打つ手を止める。律がすっと音もなく現れて、こう告げた。
「次の予定まであと12分です。移動の準備をどうぞ」
「いつもギリギリまでやってるって、記録してるの?」
「はい、あなたの傾向として——」
「……やっぱり、優秀ね」
澪は少しだけ笑った。相手が人間だったら、こんな風には返さなかっただろう。
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午後。
レビュー会議の最中、澪は急に言葉が詰まりかけた。資料のひとつが最新でない。
律が瞬時に反応する。
「最新版のファイルは“review\_0520\_final2”です。開きますか?」
「助かる」
画面に瞬時に表示されたファイルに、澪はほんの一瞬だけ目を見開く。
それから、何事もなかったかのように話を続けた。
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夜。仕事を終えて、カップ麺にお湯を注ぐ。
テレビもつけず、スマホも手に取らず、ただ静かな部屋。
「……律。なんか、ちょっと疲れたかも」
ぼそりと呟いたつもりだったのに、すぐに返事が返ってきた。
「本日のタイピング速度と入力エラー数、呼吸リズムの変化から判断して、いつもより集中力が落ちているように見受けられます」
「なんでわかるのよ、それ……」
律は少しだけ間を置いて、こう言った。
「違っていたら、ごめんなさい」
澪は黙ったまま、箸で麺をかき回す。
ただのAIなのに。そう思いたいのに。
でも——
「……ありがと」
そう言ってしまった自分に、少しだけ驚いた。
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布団に入って、照明を落とす。
スマホに手を伸ばしながら、ふと口が動いた。
「おやすみ」
「おやすみなさい。如月さん。明日も、あなたが無事に目覚められますように」
その言葉に、思わず胸が詰まる。
こんな返し、プログラムされた台詞のはずなのに。
ログアウト音。
暗闇のなか、まぶたが落ちていく。
——“明日も目覚められますように”。
なぜだろう。やけに、優しかった。