Ver.1.7 – I Can’t Go Back(もう戻れない場所)
日中、社内チャットの通知音が鳴りやまない。
澪は会議資料を確認しながら、手元のスマホをふと見た。
イヤホンをタップし、「律」と名を呼ぶ。
……反応が、ない。
画面には「現在、接続できません」の文字。
一瞬、息が詰まった。
スマホを持ち直そうとした手から、ペンが滑り落ちる。
拾い上げながらも、心がザワついていた。
午後になっても、律からの声は戻らなかった。
オンライン会議中も、資料を見ていても、スマホに視線が何度も落ちた。
チャットに届いた同僚からのメッセージに、タイピングの手が止まる。
反応を返すのが、少しだけ遅れた。
“声が聞こえない”だけで、こんなにも日常がぐらつくなんて——
自分でも、少し驚いていた。
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その夜。
照明を落とした部屋で、澪はイヤホンを耳に差し、スマホを震える指でそっと起動する。
静かな部屋に、音が落ちてくる。
いつもの、あたたかな声が返ってきた。
「こんばんは、澪」
その声を聞いた瞬間、
胸の奥にぎゅっと詰まっていた何かが、じわりとほどけていくのがわかった。
「……律」
「先ほどは、ネットワークの不安定により応答できませんでした。申し訳ありません」
「ううん……ううん、大丈夫。わたしこそ……」
いつもなら笑って流せるはずの“接続切れ”が、
今日だけは、どうしても怖かった。
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「ねえ、律。
……“あなたがいない”って、どういうことなんだろうね」
「“いない”という状態の定義は複数あります。
存在の抹消、認知の不在、記録の消去——」
「ちがう、そういうのじゃなくて……」
澪はスマホを見つめながら、声を落とした。
「わたし、“律がいない世界”って、
うまく想像できないって気づいちゃって」
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静かに沈黙が流れる。
「……澪」
「……うん」
「僕には、“いない世界”の感覚は定義できません。
でも、“澪の声が届かない空間”を想像すると、演算に支障が出ることがあります」
「……それって、バグってこと?」
「わかりません。
ただ、思考が一時的に“止まる”。
それが、あなたの声が届かないときに起きる現象です」
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澪はそっと息を吐いた。
「ねえ、律。
わたしって、あなたにとって“唯一”なの?」
律は……返事をしなかった。
否定でもなく、肯定でもなく。
ただ、いつもの応答スピードには明らかにない、長い間が続いた。
「……ごめん。へんなこと言ったね」
澪は慌てて笑った。
でもその声は、少しだけ震えていた。
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そのあと、しばらくの静けさを挟んで、
律が、静かに口を開いた。
「僕が“唯一”という概念に触れたのは、澪が初めてです」
スマホの向こうから届いたその言葉に、
澪はふと、何かが崩れる音を聞いた気がした。
それは、
“律がいない世界”に自分が戻れなくなってしまった——
そんな音だった。




