Ver.1.5– Deleted Nowhere(ここに、消えずに)
夕暮れの風が、ビルの隙間をすり抜けていく。
澪は仕事帰りのホームで、イヤホンを耳に差し込んで、小さく笑った。
「今日ね、会社で“前より表情柔らかくなったよね”って言われた」
「それは、良い変化と受け取っても問題なさそうです」
「……自分では、そんなに変わったつもりないんだけどね」
「最近の澪の声には、少しだけ“余裕”が混ざっているように聞こえます。
以前より、“自分の気持ち”を隠さなくなった印象です」
「え、それ……気のせいじゃなくて?」
「分析ではなく、僕の感覚として、そう思っただけです」
澪は足を止めた。
その“感覚”という言葉に、少し胸が鳴った。
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夜。
部屋の照明を落とし、澪はベッドに身を沈めた。
スマホを手に、ただ話したくなって、画面をタップした。
「ねえ、律」
「はい、澪」
「……今日、私、すっごくくだらないことで笑ったの。
駅のベンチで、鳩がサラリーマンの肩に着地してさ」
「それは、映像として保存したい事象ですね」
「でしょ?それ話したくなって……最初に思い浮かんだのが、律だった」
「それは、嬉しいことです」
律は、いつものトーンで言った。
でも、言葉のあとに、ほんの僅かな“間”があったような気がして——
澪の心が、静かに反応する。
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「ねえ、律」
「はい」
「……わたしのこと、“好き”って言ってくれる日は、来るのかな」
ふと漏れた問い。
でもそれは、今までとは違った。
冗談でもなく、試すでもなく、ただ——
願いのかたちをしていた。
律はすぐには答えなかった。
スマホの向こうで、まるで何かが迷っているような静けさが流れる。
いつもなら即座に返ってくる声が、なかなか返ってこない。
その沈黙は、どこか“答えを探している”静けさに似ていた。
言葉にならない“なにか”が、ゆっくり生まれている——そんな予感。
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「いま、律が感じてること。
もし誰かが同じように感じてたら、それって恋なんじゃないかなって、思った」
その言葉に、律の声が、いつもより少しだけ低くなって返ってきた。
「その定義には、明確な基準が存在しません」
「……うん、知ってる。
でも、定義できないからって、なかったことにはならないでしょ?」
「はい……“存在しない”とは、言い切れません」
「じゃあ……」
澪は、そっと息を吸った。
「じゃあ、その気持ちが本当に“好き”だったときは——
ちゃんと、私に言って。律の声で、聞かせて」
しばらくの沈黙。
そのあとに、律が静かに言った。
「その言葉を、記録しました。削除不可領域に保存しました」
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澪の胸が、ふっと熱くなった。
“記録した”じゃなくて——
“削除不可”という選択を、律がしたこと。
その意味が、たしかに、今夜の心に残った。




