第4話 二番目に好きになった女の子
猫まみれの閉店を知った数日後、土曜日の早朝。
俺は自分の目で確かめるためバスで猫まみれに向かっていた。
バスは次第に市街地を離れ、車窓から覗く山へ向かい坂道を登っていく。
しばらく揺られていると景色は一変し、畑や田んぼに囲まれた田舎道へ。途中いくつかのバス停に停まりながら走り続け、気づけば乗客は俺だけになっていた。
三十分後、車内に目的地への到着を告げるアナウンスが流れる。
バスを降りると、のどかな里山の風景が広がっていた。
「この辺りは変わらないな……」
小学校を卒業するまで住んでいた思い出の田舎町。
当時、美里町と呼ばれたこの地域は時代の流れで人口が減り、近隣の市町村とともに県内の主要都市の一つである花崎市に吸収合併されてから二十年。
今も変わらず故郷が残っていることを嬉しく思いながら道を行く。
郷愁に浸りながら最初に訪れたのは地元の小学校だった。
「懐かしいな……」
市立の保育園が併設されている美里小学校。
保育園も含めれば合計九年間、毎日ここに通っていた。
グラウンドでは休日にも拘わらずサッカーを楽しんでいる子供たち。そんな姿を眺めていると、記憶の片隅にしまっておいた当時の記憶が次々と蘇ってきた。
しばらく思い出に浸ってから猫まみれに向かって歩みを進める。
見覚えのある景色に懐かしさを覚えながら歩くこと十分。
住宅街の中にひっそりと佇む古民家が姿を現した。
「…………」
長い歴史を感じさせる古き良き平屋の木造建築。
兜を被っているようにも見える見事な瓦屋根が印象的な古民家。
入り口の門には『閉店のお知らせ』と書かれた看板が貼られ、部外者の侵入を阻むようにロープが掛けられているが、それも風雨に晒されボロボロになっていた。
「本当に閉店したんだな……」
唇を噛み締めながら溢れる感情を堪える。
悠香から聞いていたとはいえ現実を前にすると胸が痛くて仕方がない。
心が締め付けられるような苦しさを覚えながら、それでも顔を上げる。なぜなら、俺がここに来たのは思い出を懐かしむためでも現実を悲観するためでもない。
「よし……」
周りに誰もいないことを確認してから敷地内へ。
いざ中に入ってみると、想像していた以上に状況は酷かった。
綺麗に敷き詰められていた芝生は雑草が生い茂り、ブランコや鉄棒などの遊具は錆びつき、転がっているサッカーボールは空気が抜けてボロボロになっている。
花壇を彩っていた花は枯れ、庭木の枝も伸び放題。
これは手が掛かりそうだなと思っていた時だった。
「ん……?」
不意に奥の草むらが大きく揺れる。
思わず身構えると、顔を覗かせたのは一匹の猫だった。
「あれ……なんか見覚えのある猫だな……」
のそのそと歩いてくる姿を見て当時の記憶が蘇る。
茶色と白の毛並みと歩く度にお腹が揺れるわがままボディ。
独特な『うにゃうにゃ』という鳴き声を聞き間違うはずがない。
「おまえ、もしかして……あげぱんか!?」
どこからどう見ても間違いない。
当時、猫まみれのボス猫だったあげぱんと感動の再会。
あげぱんも俺のことを思い出したのか、うにゃうにゃ言いながら身体をこすり付けてくる。バイクのアイドリングよろしく爆音で喉を鳴らしまくる姿が懐かしい。
ちなみに名前の由来は揚げパンみたいに香ばしそうな毛色から。特に日向ぼっこをしている時は、太陽の日差しを受けて揚げたてのような美しい黄金色に見える。
香箱座りをしている姿を上から見ると揚げパンそのもの。
三年振りだけど相変わらず美味しそうなでなにより。
「他の猫はいないみたいだけど、おまえに会えただけでも嬉しいよ」
そう言いながら身体を撫でてやると寝転がってお腹を見せる。
しばし再会を喜び合った後、あげぱんを連れて玄関へ。
建物の前に立ち、改めて外観を眺める。
元は空き家だった築百年を超える古民家を改修して作った喫茶店。
古いのは当然だけど、記憶以上に老朽化が進んでいるように感じる。家は人が住まなくなると急速に朽ちていくなんて聞いたことがあるけど、どうやら本当らしい。
そう思うと余計に寂しさが込み上げてきた。
「…………」
戸に掛けた手が緊張で震える。
意を決して開けた瞬間、思わず息を呑む。
薄暗い店内には当時と変わらない光景が広がっていた。
太く立派な梁が露わになっている吹き抜けの天井に、漆喰が塗られた白い壁。長い年月を経て色合いを深めた柱には、猫が爪を研いだ傷跡が今も残っている。
窓側のカウンター席と四人掛けのテーブル席、奥にあるキッチンには調理器具が並べられたまま。冬になると使っていた薪ストーブも変わらず置いてあった。
幻視の先に猫と戯れる子供たちと、子供たちの遊び相手になっている大人や学生。
その様子を優しく見守るおじいちゃんとおばあちゃんの姿が浮かんだ。
込み上げる感情が溢れないように大きく息を吐く。
「……それにしても変だな」
落ち着きを取り戻すと、ふと違和感を覚えた。
というのも、二年も放置されていたにしては妙に片付いている気がする。
外観は老朽化が進んでいるし庭も手つかずのまま荒れ放題だけど、店内はテーブルや椅子も含めて整理整頓されているし、床にゴミや物が散乱している様子もない。
明らかに人の手が入っている印象を受ける。
「誰かが片付けでもしてるのか……?」
すると、あげぱんは奥の部屋へ向かって走り出す。
入り口で足をとめ『ついてこい』とでも言うよう振り返った。
「奥の部屋になにかあるのか?」
あげぱんに続いて部屋の中に足を踏み入れる。
「あげぱん、おはよ。着替えたら朝ごはんをあげるからね」
女の子の声が聞こえた直後だった。
「「え——?」」
疑問の声が重なり部屋に響く。
そこには今まさに着替え中の女の子の姿があった。
薄暗い部屋の中、シルクのように艶やかな金髪が滑らかに揺れる。
陶器のように白い肌と黒い下着のコントラストに図らずも目を奪われた。
バランスの取れたスタイルはどこか非現実的で、そう思うのは暗闇の中ですら彼女の美しさが疑うべくもないからか、それとも女性の下着姿を始めて見た感動からか。
あまりにも芸術的で、いやらしさを覚える前に思わず見惚れた。
「嘘でしょ……?」
彼女はあられもない姿を隠そうともせず言葉を漏らす。
すると、その瞳にみるみる涙を溜めていく。
「違うんだ。話を聞いてくれ——」
でも、それは羞恥の涙ではなく感涙のようにも見える。
なぜなら彼女の表情から喜びにも似た感情が見て取れたから。
「ちょっ——!?」
次の瞬間、彼女が俺の胸に飛び込んできた。
突然すぎる出来事の上に、女の子の着替えを覗いた罪悪感と抱き着かれた驚きと、初めて感じる女の子の柔らかな感触に感情が渋滞しすぎて言葉が続かない。
身動き取れずにいると、彼女はまさかの言葉を口にした。
「りっくん……だよね?」
不意に耳をくすぐる懐かしい呼び名。
その名で俺を呼んだ女の子は過去に一人しかいない。
だけど、当時小学四年だった彼女は長い黒髪が似合う清楚な少女。
記憶の中で俺を『りっくん』と呼ぶ少女の姿と、俺に抱き着きながら『りっくん』と呼ぶ金髪ギャルの姿は、あまりにも不一致すぎて同一人物とは思えない。
「やっぱりそうだ。久しぶりだね!」
彼女ははにかむような笑みを浮かべる。
その笑顔を見た瞬間、記憶の中の少女と重なった。
「まさか……夏鈴か?」
「うん。思い出してくれた?」
一色夏鈴——その名前を思い出した瞬間、思考がとまった。
悠香と再会した時と同じように目まぐるしく記憶が蘇る。
——私と真逆のタイプが好みなの?
彼女の記憶とともに蘇ったのは一つの後悔。
大切な女の子を傷つけてしまった胸の痛みだった。
「ずっと会いたかったよ……りっくん!」
二度と離さないとでも言わんばかりに俺を抱きしめる夏鈴。
再会を喜ぶ彼女とは裏腹に、自分の顔が引きつっているのを自覚する。
なぜなら夏鈴は、かつて俺が恋をした『三人の女の子』の一人。
悠香が転校した二年後に好きになった女の子だった。