Luna invisibile. 見えていない月 I
チェーヴァ家屋敷の執務室。
資料棚のまえに現れたベルガモットに気づくと、アルフレードは羽根ペンの動きを止めた。
「執務中なんだが」
すぐに書類のサインを再開し、淡々と告げる。
「かまわん。すぐにすむ」
ベルガモットは答えた。
「かまうのはこちらなんだが」
そうアルフレードが返したが、気にとめる気はない。主人はこちらなのだ。
執務机の横の大きな窓からは、オレンジ色の街並みが見える。
街の中央に建つ大聖堂の巨大なクーポラが、夕方近くの淡くなった太陽光を受けていた。
窓を開ければ、そろそろ冷えた風の入る時間帯だ。
ベルガモットはつかつかと執務机に近づき、両手をついた。
「よいか」
言い聞かせるように声を張る。
「わたしは、おまえの当主としての重圧を分かってやれるぞ」
「そうか」
アルフレードは顔も上げない。サインを終えた書類を確認するようにながめると、横に置く。
「なんなら、おまえの弱音を聞いてやってもよい」
「またこんど」
アルフレードが、ギッと音を立てて背もたれに背をあずける。こちらはいっさい見ずに、手にした書類に目を落とす。
「大勢の親戚を亡くしたのは、おまえのせいではない」
「そうだな」
アルフレードが答える。
「仲のよい許嫁を亡くし、さぞつらかったであろう」
「蒸し返されると複雑なんだが……」
アルフレードが眉根をよせる。
インク瓶から羽根ペンをとりだすと、手にしていた書類にサインをする。
かすかなインクの匂いがした。
「ぜひわたしが、なぐさめてやろう」
ベルガモットは得意顔で声を張った。
飛びこんできてもよいぞというふうに両手を広げる。
「執務中なので、できればあとにしてくれないか」
アルフレードが表情も変えずそう返す。
つぎの書類をとりだし、カサリと音を立て文章を目で追う。
おかしい。
ベルガモットは目を眇めた。
冥王と同じことをやっていると思うのだが、この反応のなさはなんなのだ。
かつて冥王にたぶらかされ、うっすらと頬を染めながら詫びと別れを告げてきた何人もの下僕。
あんな顔をするものと期待した。
そもそも主人の言葉を適当にあしらい、書類ばかりを見ているのも無礼ではないか。
主人として意地でも関心を引かなければ示しがつかない。
なんの話題なら気が引けるだろうかと考えをめぐらすうち、ベルガモットは先立って城に訪ねてきたクリスティーナを思い出した。
「なんなら、あの許嫁に会わせてやってもよい。いつでもわたしに頼んでくれれば」
「いやいい」
アルフレードが即答する。
ベルガモットはポカンと口を半開きにした。
「なぜだ。このまえもわたしの城に来て、愚にもつかぬことをペラペラとしゃべっておったぞ。どうせ暇なのだ。呼びつければいつでも……」
書類を手にしたまま、アルフレードが顔を上げる。
「きみのあの城に来たのか」
「来た」
アルフレードがはじめて顔を上げたことに少々イラつく。
やっと反応したと思えば、あの女の話題でかと思うと悔しい。
「お、おまえの話など、まったくしておらんかったぞ」
ベルガモットはそっぽを向いた。
「元気だったか」
「もう死んでおる」
「それもそうだな……」
アルフレードは苦笑すると、ふたたび書類に目を落とした。
その様子をじっと見つめ、ベルガモットは目を眇めた。
かなり癪だが、あの女の話題なら食いつきが違うのだなと思う。
「いつでも会わせてやってよいぞ」
「いやけっこう」
書類に目を落としたままアルフレードはそう答えた。
「冥王にも同じ申し出をされたが断った。この先を生きていく決心が鈍りそうな気がするので」
ベルガモットは眉根をきつくよせた。
気配でなにかを感じとったのか、アルフレードがおもむろに顔を上げる。
ベルガモットの表情を見て、怪訝そうな顔をした。
「どうした」
「冥王と会ったのか!」
ベルガモットは執務机に両手をつき、アルフレードに詰めよった。
あれやこれやと、いかがわしい想像が頭のなかをぐるぐると巡る。
もしやもう手遅れであったか。
「きみが復活するまでのあいだ、代理だと言って来ていた。聞いていないのか」
「それで情に絆されて許したのか!」
「何をだ」
ベルガモットは身を乗りだし、さらにアルフレードに詰めよった。
「やつに口説かれたであろう!」
「とくに口説きのようなことは言っていなかったが」
アルフレードが軽く眉をよせる。
「ウソを申すな。やつがわたしのいない機会を逃すわけがない!」
「きみの考えすぎだろう」
アルフレードが書類に目を落とす。
これは、さては目を合わせられないのか。
冥王にこう誤魔化せばよいとでも入れ知恵されているのか。
ベルガモットはイライラと勘繰った。
「おまえなど、境遇からみて確実に危うい。わたしは確信した」
「きみの話はどうにも飛躍するな」
アルフレードが顔をしかめる。
「ともかくやつを自室に入れるな!」
「三回とも勝手に来たんだ。しかたがない」
アルフレードは、カサリと手元の書類を入れ替えた。
「一回ではなかったのか!」
「私が確認しているかぎりでは三回だ」
答えながら書類にサインをする。
「きみがナザリオにやられた直後にも来ていた」
「なんだと……」
ベルガモットは拳をにぎった。
「人の弱った隙につけこみおって……あの好き者が」
「きみを心配して来たんじゃないのか」
アルフレードは言った。
「そうではない! わたしに託つけて、やつはおまえを口説きに来たのだ!」
「執務中なんだ。冥王に直接言ってくれないか」
アルフレードがうるさげに言う。
「おお、そうであった」
ベルガモットは詰めよっていた体勢を戻した。
「やつめ、わたしに追及されるのを恐れて、あちらこちらに移動しておるらしいのだ」
「単に忙しいんだろう」
淡々とそう返し、アルフレードがつぎの書類にサインをする。




