Bella donna della morte. 死の美女
ベッドの周囲にはクネクネとした腕が無数に這い回り、自身の瀕死の身体を手まねきしていた。
ゆらゆらと撓りながら腕はベッドの下の床から次々と生え、やがて身体の周りでうねりだした。
ときおり息を吐くような不気味な声が腕のあいだを抜けて行く。
アルフレード・チェーヴァは、あおむけに寝かされたままその光景を見ていた。
腕は群れをなしてゆれながら、ついにはアルフレードの身体に到達する。
死に近づいた身体をねっとりとなでた。
抵抗しようにも、もう身体は動かない。
うめき声を発することすらできない。
先ほどまで聞こえていた母と許嫁の声はもう聞こえず、うっすらと視界に射していた窓からの陽光も、もう見えない。
皮膚感覚は先ほどから消えていた。
不気味な手が顔をなでても、もはや何の感触もない。
脳の中の灯りがひとつひとつ消えるように、意識が停止していった。
自分の名前すら意識から消える。
安らかだった。
眠りにつくときに似ている。
このまま死に委ねればいい。
半透明の腕が身体を覆いつくし、アルフレードの視界をさえぎる。
不意に。
腕は、いっせいに身体から離れた。
あわてたようにアルフレードの身体からはなれ、ベッドの下へと逃げる。
アルフレードの足の上に、黒いドレスの女がいた。
無数の手が逃げたのは、この女のせいだろうか。
失いかけた自我を少しだけ取りもどし、アルフレードはぼんやりと考えた。
寒気がするほどに美しい女。
目尻のやや吊り上がった漆黒の瞳。深紅の唇、絹糸のような長い黒髪。
女は、アルフレードの身体の上をしずしずと歩いた。
重さは感じなかった。
胸の上で立て膝になると、顔を覗きこむ。
「死神か……？」
アルフレードは問いかけた。
「……死神ならたのむ。少しだけ待ってはくれないか」
女は、無言でアルフレードの顔を見ていた。
「たの……」
突然。
女は手を振り上げたかと思うと、アルフレードの頬に平手打ちを食らわせた。
パァン、と大きな音が耳に届く。
「な……？」
アルフレードは声を上げた。
何をするんだ、そう返すより先に女はアルフレードにずいっと顔を近づけた。
「下僕が勝手にしゃべるんじゃない」
美しくも鋭いソプラノの声で命令する。
「げぼ……?!」
アルフレードは、そのまま起き上がらん勢いで声を上げた。
意識は完全に戻った。
自分は何をしていたのだ。
若年とはいえ、これでも貴族の一族の当主だ。おいそれと死ぬわけにはいかない。
「人の下僕などになる謂われはない！」
アルフレードが叫ぶと、女はさらに顔を近づけた。
「決闘で死んだ者は、わたしの下僕と決まっておる」
「決闘なんかしてない」
「わたしの名はベルガモット」
「話を聞け！」
アルフレードはもがいた。
「下僕の要望は、なるべく聞こう」
ベルガモットは、深紅の唇をわずかに上げて笑んだ。
「優しいであろう？」
人をいきなり下僕あつかいして、平手打ちを食らわせる女の何が優しいのか。
ベルガモットは、どこからともなく首輪をとりだした。
古風な旋律の鼻歌を歌いながら、アルフレードの首に首輪をつける。
「おいきみ！ やめろ！」
「行くぞ」
ベルガモットはかまわずに立ち上がった。
アルフレードの胸を踏みつけるようにして、長い長い鎖を両手で引く。
「死ぬわけにはいかないんだ！ しかも下僕とか何だそれは。冗談ではない！」
アルフレードは、さらにもがいた。
いまだ身体はほとんど動くことはできなかったが、それでも残った力で抵抗する。
ベルガモットはこちらを見下ろすと、高いヒールの靴で胸をグッと踏みつけた。
「行くぞ」
もういちどそう命じる。
鎖がシャラン、と音を立てて波打つように動いた。
鈴のような軽くて涼しげな音。
鎖の音にしてはこころよい音を意外に感じて、アルフレードは一瞬だけ呆けた。
