2 メイド、魔獣に遭遇する。
気付けば、握っていたはずのユイリスの手が消えていた。
周囲の景色は薄暗い森に変わっている。
ザワザワと揺れる木々の葉。その隙間から見える空は、どんより厚い雲に覆われていた。
……ここは、サフィドナの森だ!
本当に私、戦場に来ちゃったんだ!
ど、ど、ど、どうすれば……。
辺りをきょろきょろと見回す私の脳裏に、ミレディア様の「魔獣に遭遇すれば終わりだぞ!」という言葉が。
か! 隠れないと!
近くの茂みに飛びこむ。
涙を拭いながら、何とかパニックになったままの頭を落ち着かせた。
努力の甲斐あって、やるべきことを思い出す。
……そうだ、こっそり拠点の町を目指すんだった。
方角は確か、北。え、北って、どっち?
そもそも私がいるのは森のどの辺だろ。
転送の光はあまり精度が良くない。目標地点から半径数キロメートルの誤差が生じるらしい。
ちなみにレジセネの町は結界魔法が張られているので転送不可。その結界にぶつかってしまうと大変なことになるとか。
だから、通常は南に広がるサフィドナの森の真ん中を狙って送られる。
とにかく北に向かって歩けば町に着くはずだ。
いや、肝心の北がどっちか分からないんだっけ……。
何か目印になるものでもあれば。
私は茂みからゆっくりと頭を出した。
遠くの方に、雲を突き抜けてそそり立つ岩壁が見える。私を挟んで反対方向にも同様の岩壁が。
あれらはきっと台地だ。
戦場になっているこの一帯にはあんな台地が沢山あって、それらを巡って、まるで陣地を取り合うように人間と魔獣が戦っている。それほど戦争に詳しくない私でもこの程度は知ってるよ。
あ、さっきミレディア様に見せてもらった地図で、森は東西を台地に挟まれていた。そして、レジセネの町は二つの台地が狭まった所に!
私すごい! よく覚えてた!
これで方角も町の場所も分かった!
きっと町はあの辺りに……、
……遠い。いったい何キロあるの……。
もしかして十キロ以上?
……い、行くしかない。
思い切って茂みから出ると、木の陰に走りこむ。
なるべく姿勢を低く保ち、木の陰から木の陰へ。
よ、よし、これなら何とか行ける。
周りに意識を集中させながら、ササッ、ササッ、と木から木へと移動を繰り返した。
どれくらい時間が経ったのか、薄暗かった森が一層暗くなっている。
私、懐中時計も持ってきてないんだよね。たぶんもうすぐ夕方だ。
と空を見上げ、東の岩壁がずいぶん近くにあることに気付く。
わ! どうしてこんな近くに!
方向を修正しないと!
日が暮れるまでに町に辿り着くのは、無理だよね。野宿しなきゃならないのかな。魔獣のいる、この森で?
いやいや! 絶対嫌!
だけどそもそもだよ、ここって本当に魔獣いるの?
結構移動したのにまだ一度も見てないよ。
私達のヴェルセ王国はこの前線から大分離れていて、私自身も魔獣の実物は見たことがなかった。絵になってるのは何度もあるけど、確か普通の動物とトカゲが合体したようなのが多かった気がする。
それほど怖い感じはしなかったし、案外遭遇しちゃっても逃げられたりするんじゃないかな。
この森だって初心者が送られてくるくらいなんだから、魔獣の数も少ないのかも。
きっとそうだ。
なんだ、こんなにビクビクする必要なかったよ。
「グオオオオオオオオオオ!」
突然の咆哮に、私の体はビクッと震えた。
な、何今の……。
魔獣、なの……?
鳴き声が聞こえてきた方から無意識に遠ざかろうとする足。
それに待ったをかけた。
……今、人の声がしなかった?
気のせいじゃない! 誰かが喋ってる!
踵を返して人(と魔獣)の気配のする方へ。
私すごく運がいい!
この広い森で他の転送者達に出会えるなんて!
町からやって来た戦士の人達かもしれないけど、どっちにしてもこれで助かった!
念のため、慎重にそろりそろりと近付いていく。
板についてきた仕草で木の陰から様子を窺った。
……え、……あれが、魔獣?
初めて目の当たりにしたその生物は、絵から受けた印象とは全く違っていた。
まず、大きさが普通の動物ではありえないサイズだった。
体長十メートルはあるだろうか。狼のような頭部に、所々鱗の生えた体はトカゲというよりまるでドラゴン。捕食者の証と言わんばかりに鋭く伸びた牙と鉤爪。
こ、こんな怪物……、人間が戦えるの?
ううん、訓練を積んできた戦士なら、大丈夫なんだよね?
狼竜の周囲には、鎧姿の男女五人が武器を構えて立っている。
私は緊張する気持ちを抑えながら、緊張する彼らを見つめた。
ちょ! ちょっと待って! 大丈夫だよね!
……いや、やっぱりこの人達も転送されてきたばかりなんだ。装備も何だか綺麗だし。
たぶんこれが魔獣との初めての実戦。
お願いだから頑張って。私の命も懸かってるんだよ。
と祈ろうとした次の瞬間。
ズダンッ!
狼竜はその前脚で戦士の一人を踏み潰した。
凍りつく空気。
続いて怪物は、ギュン! と体を回転させる。
あの巨体ですごく俊敏だ!
そう感じたのはきっと私だけじゃなかった。
鞭のようにしなったドラゴンの尻尾がもう一人を直撃。
彼は一切反応できずに弾かれ、木にバキバキと全身を叩きつけられた。
なお、バキバキというのは木が砕けた音だけじゃない、……と思う。
素人の私から見ても、残りの人達の戦意が完全に失われたのが分かった。
……み、皆! 逃げて! すぐに逃げて!
ごごごごごごめん! 私は先に逃げるよ!
足が竦んでしまった私は、地面を這うようにその場から離脱した。
魔獣! 怖い怖い怖い怖い!
魔獣! やばいくらい怖かった!
見つかったら確実に終わりだ!
ここは本当に地獄だった!