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フォーカー侯爵一家が王都へやってきて五か月が経った。高い空から吹く風に肌寒さを感じるようになると、そろそろパーティーシーズンも終わりだ。侯爵をはじめ夫人もパーティーへ出かけることが少なくなってきたなと思っていたところに、つい昨日、そろそろ荷物をまとめておくようにと上から指示があった。
----もう帰るのか……
マクセインは朝の訓練を終えて顔を洗い、いつものように玄関へと向かった。湿った空気に混ざった雨の匂いが鼻をつき、空を見上げる。ついさっきまで青かった空はいつの間にか濃い灰青色に変わり、遠くから唸るような音が微かに聞こえていた。
「マクセイン・ネムソン。」
そんな憂鬱な空気など一瞬でかき消してしまいそうなトゲのある高い声にピクリと肩を震わせ、声の方へ振り向いた。フォーカー侯爵家の令嬢、テレジアだ。テレジアは身体の前で小さな手を重ね、マクセインにゆっくりと歩み寄った。
「ちょっといいかしら。」
「お嬢様、ですが今は……」
「仕事中だと言いたいのでしょう?分かってるわ。でも今は二人きりなんだから普通に話しても大丈夫よ。ここなら誰が見たって世間話をしてると思うでしょうし。」
「……はぁ。」
と、小さく溜息をつく。
----主人の娘とただの兵士が世間話をしていること自体が妙な光景だとは思わないのかよ。
テレジアは昔からこうだった。普段はしっかりしていて細かいことにも気を配り、家門の恥になるような言動はしないが、目の前の目的を達成しようとする時だけはしばしばその慎みが崩れてしまうのだ。そんな彼女の今回の目的は、マクセインと二人で話すというものだった。
「分かった。で、話って?」
「アデリーのことよ。あなた、彼女のこと振ったでしょう?彼女の何が気に入らなかったの?」
「気に入らないところなんてない。むしろ俺にはもったいないほど素晴らしい女性だと思ってる。」
「じゃあどうし……あなた、まだあの悪い癖が直ってないようね。」
「……。とにかく俺は彼女に相応しくない。それに俺なんかと一緒になったら彼女に余計な苦労をかけてしまう。」
「ふぅん……なるほどね。つまりあなたの言い分で言うと、あなたが相手を選ぶ基準は『苦労させてもなんとも思わない女』ということなのね。」
「そうは言ってないだろう。」
「言っていなくても言っているのと同じだわ。そんな基準で選ばれるなんて、あなたの恋人や妻になる女性はお気の毒ね。」
「……。」
「あなたがどんな人なのか多少なりとも知っているし、あなたならアデリーを任せられると思っていたのだけれど……そんな男に大事な親友が選ばれなくて良かったわ。それじゃ、話は終わったからもう行くわね。」
テレジアはマクセインからフイと目をそらして扉の方へ向かい、もう一度チラと彼を見て視線だけで扉を開けるように命じた。マクセインがそれに従い、無言で扉を開く。その少し身体が近付いた瞬間を狙って、テレジアは手のひらの中に隠し持っていたものをマクセインの胸当ての隙間に滑り込ませた。
「なんだ?」
「彼女からの手紙よ。確かに渡したから。」
「……。」
「もちろん読むか読まないかはあなたの自由よ。あぁ、そうだわ。彼女……」
「うん?」
「へーバレイに戻ったら、お見合いをするのですって。」
「……。」
「アデリーがあなたに告白したことがお父上様のお耳に入ったらしいのよ。これまで何度もお見合いの話はあったけれど、アデリーは頑なに拒んできたの。いつか必ず『この人だ』と思える人が現れるはずだから、絶対その人と結婚するんだって言ってたわ。」
「それは……」
「あぁ、別にあなたに対して結婚まで考えていたかどうかは知らないけれど……まぁ、父親としては結婚を急ぐのも当然よね。そんな娘が初めて心を奪われたのが、どこの馬の骨とも知れない兵士なのだから。」
「……。」
「それじゃ。」
そう言って屋敷内へと入っていくテレジアを見ながら、マクセインの意識はすでの胸元の手紙に向かっていた。何が書かれているのか分からないが、いや、何が書かれていようともテレジアに頼んでまで何かを伝えようとしてくれたというだけで胸が熱くなってくる。そしてその熱は鎮まりはじめていた胸を再び高鳴らせ、胸の痛みを思い出させた。
『明後日、この前と同じ時間、同じ場所に来てください。待っています。アデリー・キートン』
小さな紙の真ん中に書かれた短い文章。少し丸みのある文字がアデリーの愛らしい笑顔を思い出させ、自然と目元が緩んでしまう。
際立つ取り柄は無くとも意志は強い方だと思っていた。アデリーへの想いを諦めると決めて、彼女からの想いに背を向けた。それなのに、ダメだと分かっているのに、たったこれだけのことで一瞬で心が引き寄せられ、胸の奥が熱くなっていることに喜びを感じている自分がいる。
----明後日……。これが最後だ。最後に彼女に会って、それで終わりにしよう。
広げた手紙を折り目に沿って折り畳み、懐に忍ばせる。ふと空を見上げれば、小さな雫が柔らかな風に乗って静かに舞い落ちていた。
*
二日後、マクセインは時間より少し早めにティーサロンへ行った。今日は前よりも人は多いが、それでもテーブルの半分も埋まっていない。
アデリーはすでに来ていて、前回と同じ席に座っていた。美しい姿勢で何も置かれていないテーブルをじっと見つめている。しばらく挨拶以外で話すことがなかったせいか、緊張で乾いている喉を軽く鳴らしてから静かに声をかけた。
「こんにちは、アデリー嬢。お待たせして申し訳ありません。」
「こんにちは、マクセインさん。私も先ほど来たばかりですので、お気になさらないでください。」
ニコッとアデリーが微笑みを向けてくる。マクセインは『どうぞ』と椅子をすすめるアデリーの仕草に小さく頷き、対面の席に座った。注文を聞きにきた店員に菓子付きのティーセットを二人分頼み、それらが運ばれて一口飲んだところでアデリーがカバンから小さな袋を取り出した。
「あの、マクセインさん。」
「はい。」
「これ、昨日作ったお菓子なんですけど、よかったら……」
「いただいてもよろしいのですか?」
アデリーは頷き、袋をマクセインに手渡した。袋の中からほのかに甘い香りが漂ってくる。手に持った感触から、中身はカップケーキだと分かった。そしてマクセインの好きなベリー入りのものだと気付いた途端、ある日の会話で何気なく『これ、すごく美味しいですね』と言ったことを覚えていてくれたことに胸がグッと締め付けられた。
「ありがとうございます。」
「いえ。……私、もうすぐへーバレイに帰るんです。」
「えっ……あ……そう、ですか。そうですね、もうそういう時期ですよね。」
「はい。五日後にここを発つので、帰る前に最後にお話ししておきたくて。」
「……。」
「お菓子を渡せるのもこれが最後……あっ、その、せ、せっかく上手になったので、食べてもらえたらなって思っただけで、深い意味はないんです!最初の頃よりは上達してるのでその腕を見てもらえたらなって、本当にそれだけで!」
そう言いながら、アデリーは胸の前で両手を振って目を泳がせた。顔を真っ赤にして、汗をかいて、振っていた手を右へ左へと動かしている。バツの悪さを誤魔化すように笑顔を浮かべ、支離滅裂な言葉を並べたて、結局、込み上げる恥ずかしさでどうすることも出来なくなって、真っ赤な顔を膝の上に向けた。