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姿勢を正し、黙ったまま真っ直ぐ前を見る視界には、いつもと変わらない風景が広がっている。結んだ口を微かに開き声を発することがあるとすれば、目の前を通り過ぎる使用人と挨拶を交わす時ぐらいだろうか。玄関前に立つ兵士は一人だけなので、誰かに足を止めて声をかけられない限りは、誰とも話すことなくただひたすら置物のように立っているだけだった。
----今日もいつも通りだった……
マクセインはチラと地面を見て、そこに残された消えかけの馬車の車輪跡に溜息をついた。アデリーが乗ってきた馬車のものだ。アデリーはあの告白の日の三日後にテレジアに会いにフォーカー侯爵邸を訪れ、玄関前に立っていたマクセインにいつものように笑顔を向けてきた。
「こんにちは、マクセインさん。」
「あ……はい、こんにちは。」
それだけだった。前回まではもう少し会話をしてから屋敷に入っていたのに、挨拶が済むとニコニコと笑ったまますぐに中へ入っていったのだ。そして帰る際にも、やはり挨拶だけをしてすぐに馬車に乗り込んでいた。
その次も、またその次も、アデリーは挨拶だけをしてマクセインの前から立ち去った。彼女がそうする理由は十分に理解しているし、それを寂しいと思うのはずいぶん身勝手だと分かっている。だからこうして彼女の背中を見るたびに俯くことしかできないのだが、何よりも気が重くなるのは気が付けば溜息をついてしまっている自分自身の未練だった。
----いつまで引きずってるんだ!最初から決めていたことだろう!
後ろで組んだ手をギュッと握り締め、前方を睨み付ける。あの日以来、気を抜けば情けない顔になってしまいそうな妙な焦りに駆られて、つい険しい表情に固める癖がついた。
『好きです。私とお付き合いしていただけませんか?』
静かなティーサロンの奥で、アデリーは澄んだ碧色の瞳を真っ直ぐに向けてそう言った。潤んだ瞳と少し赤く染まった目元、それに小さく震えている膝の上の指先からとても緊張していることが伝わってきた。それもそうだろう。うら若き乙女にとっては、知り合って間もない男を呼び出すだけでも相当な勇気が必要だったはずだ。
----俺なんかのために勇気を出してくれたんだよな……
正直なところを言うと、マクセインは密かにデートのような気持ちでいた。でもそれは己の心の中だけの話で、実際は『気分転換にお茶でもしませんか』というただの軽いお誘いだと理解していた。アデリーはいつも明るくて可愛らしくて、彼女の笑顔に心をときめかせる男は少なくなかった。そんな彼女とプライベートでも一緒にいられるだけで、マクセインには十分幸せだった。
それなのに、思いもよらないことが起こった。アデリーはマクセインの理解を飛び越え、勇気を振り絞り、真正面から想いを告げてきたのだ。それはまさに雷が落ちたような衝撃と天にも昇る喜びを彼にもたらした。そして同時に、ずっと自分に言い聞かせていた『これ以上距離を縮めてはいけない』という戒めをぐらつかせた。
マクセインは自分に自信がなかった。二人の兄達のように文武共に優秀でもなく、二人の妹達のような華やかさがあるわけでもない。五人の兄妹の中で唯一特徴がなく、子供の頃から地味で、常に光り輝く他の兄妹達の陰にいた。身体が弱かったせいか大人になってもやや細身で、同僚からは『この身体で剣を振るのか』とよくからかわれていた。
自分にないものを持っている兄妹達が嫌いなわけでも、仲が悪いわけでもない。むしろ輝いている彼らを見ていると、彼らの弟であり兄であることを誇らしいと思っている。ただ自分でも知らないうちに小さな劣等感が積もっていき、地味な自分は後ろに下がるのは当然だと思うようになってしまった。
格好良い兄や美しい妹の結婚式を見つめていた時も、祝福の拍手をしながら恋人や結婚なんてものは自分とは一生縁のないものなのだろうなと思っていた。
そんな自分が初めて恋をしたのがアデリーだった。クルクルと変わる表情も、不思議なおもちゃ箱のように次々と飛び出す楽しい話も、領地の話をする時の誇らしげな眼差しも、何もかもが眩しかった。こんな子と結ばれたらどれほど幸せだろうかと、彼女の笑顔に思わず目を細めたりした。そして、きっと彼女には彼女に相応しい男が現れるのだろうなと、胸に痛みを覚えていた。
アデリーが精一杯の想いを告げてから、二人の間に長い沈黙が落ちた。その間、このままではいけない、このままでは流されてしまう、と胸が苦しくなった。しかし、ふとアデリーに視線を向けた時に彼女の涙目が目に入った瞬間、頭の奥がスッと冷静になっていくのを感じた。
「申し訳ありません。」
気が付けば、とても落ち着いた声でそう言っていた。続く言葉もまるで自分の口から出ているとは思えないほど流暢で、他人が話しているのを側で聞いているような気分だった。きっと、実際に自分の心から出た言葉ではなかったからだろう。あらかじめ用意されていたかのようなそれらの台詞は、いつか読んだ本の一場面にそっくりだった。
受け入れるにしろ、断るにしろ、自分の言葉で言わないといけないことは分かっている。けれどももし自分の想いをそのまま言葉にしようとすれば、出てくる言葉は決して言ってはいけない言葉しかなかった。
『さようなら。』
そう言って立ち去ったアデリーの後ろ姿が瞼に焼き付いて離れない。忘れようともがけばもがくほど、マクセインの中でアデリーの存在は大きくなっていった。
「おい、マクセイン。」
不意に横から声をかけられ、マクセインはハッとして声がした方に目を向けた。声の主は午後から玄関前に立つことになっている、先輩のダグレイだ。ダグレイは大きな手でマクセインの肩をポンと叩いた。
「交代だ。お疲れさん。」
「え?あぁ、もうそんな時間ですか。」
「お、時間も忘れるぐらい熱心に仕事してたのか?感心だな。」
「いえ、そういうわけでは……」
「それとも、最近あのお嬢様がつれなくなったからか?」
「え!?いえ、違いますよ!彼女は関係ありません!」
「ほーん、彼女、ねぇ……。ま、なんでもいいけど忘れるこった。どうせ俺達はもうすぐ領地に帰るんだから、結局は終わる恋だったんだよ。」
「……。」
「酒飲んで一眠りして、それでもダメなら街に出て遊んでこい。」
じゃあな、と言ってヒラヒラと手を振るダグレイに軽く頭を下げ、マクセインは控え室へ向かった。酒を飲んで忘れられるのならばぜひそうしたいが、マクセインは強い酒が飲めない。過去に一度だけムシャクシャした時に酒の力を借りて忘れようとしたら、翌日酷い二日酔いに襲われて一日中ベッドから起き上がれなくなったのだ。結果、忘れるどころか未だに忘れられない記憶となった。
----いや、そうじゃない。俺は忘れたくない。彼女の気持ちも、俺の気持ちも……
控え室の奥にある扉を開けると、そこは更衣室になっている。部屋には一人一人に用意された鍵付きの棚があり、それぞれ着替えや貴重品などを置いている。
マクセインは自分の棚から荷物を取り出し、控え室を後にした。