第一話 姉弟
「…………」
なにも言わず、漆黒のローブを纏った『ウロボロス』の構成員が、静かに手を伸ばす。
その顔を覆った白い仮面からは表情が読み取れない。その不気味さに幼い折原一輝は恐怖し、どんどん近づいてくる手から逃げようとする。
しかし。
どんな必死に暴れようとしても体が動かない。
真っ白な壁に囲まれた四角い部屋に、少年は手足を拘束具で抑えられ、磔にされていた。
――いやだ、やめろ、くるな……! いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだいやだいやだいやだいやだいやだ……! くるな、ちかづくな、ぼくはわるくない! なにもわるいことなんてしていないのに、なんで……こんなに、いたくて、くるしくて、ひどいことをされなきゃいけない……?
もう痛いのも、苦しいのも、辛いのも、気持ち悪いのも、耐えられなかった。
何度も何度もカラダを切り刻まれて、何度も何度も内側をぐちゃぐちゃに掻き混ぜられる。
その度にカラダの奥底からなにかが這い上がってくるようで、ムカデかなにかが血管に沿って這いずり回っているような感覚で。
もう、そんなことの連続で理性は蝕まれ、けれど気が狂うことは許されず、ただ折原一輝がなにか別のものに変質していく感覚を認識させられる。
そして、今日も今日とてそれは行われ、また一輝は死んだほうがマシだと思わされる。
「…………」
ほとんど壊れかけた肉体のせいか声は出なかった。
それでも声なき声で、ただ睨みつけるために重い瞼を押し上げて、迫りくるその手を拒んだ。
もはや抵抗など無意味だと、いっそ諦めるべきだと、イツキの精神は訴えている。それでも自分という存在を守ろうとする本能が幼いカラダを突き動かしていた。
痛さより、苦しさより、辛さより、気持ち悪さより――ただ自分という存在を証明する心が崩壊することを恐れていたのかもしれない。
そして、白仮面が伸ばした小さな手が、ゆっくりと――
「やめろぉおおおおおっ!」
「わわっ!? ちょ、イツキまっ――ごふっ!?」
がばっ! と布団から飛び起きたイツキは、そこにいた誰かと顔面から衝突した。
最悪の寝覚めからの大打撃になにが起きたかさえわからず、ただただイツキは両手で顔面を覆ってベッドに蹲ってしまう。
ぐぅああ、と呻いているイツキの背中を優しくさすりながら、衝突した相手も「いっつつ~~~!」と涙に濡れたような声を漏らしている。
しばらくして痛みが和らいできたところで顔を上げると、ベッドの傍らに腰掛けながら鼻を押さえている女の姿が目に入った。きっちりとしたレディーススーツの上から学院教師専用のローブを羽織った折原美織だった。
彼女は嫌な汗に寝間着を濡らした弟の姿を見つめながら、
「も、もう、そんなに拒否しなくたっていいでしょう? 怖がってるみたいだから頭を撫でてあげようとしただけなのに……」
「いや、これ俺が悪いのか……? そりゃ飛び起きてぶつかったのは俺だけど……というか、なんでミオ姉が俺の部屋にいるんだよ、ここ男子寮だぞ……」
いくら姉弟とはいえ、教師と生徒という関係でもあり、もっと言えば一応は女と男である。
風紀的にも世間体的にもいろいろと問題があるような気がしないでもない。
「だって、なんか昨晩は怪我して帰って来たって聞いたから、お姉ちゃんとして心配だったし、先生としてはルシアさんと喧嘩したんじゃないかって。……それに、ほら、八年前、あたしはイツキを護ってあげられなかったから、さ……」
もうあんな思いをするのは嫌だし、とミオリは遠い過去に苦しむように身を震わせた。
八年前。それは『ウロボロス』によるテロ事件の際のことに違いない。
あの当時は天才だの神童だのと持て囃されていたイツキ。そんな生まれ持って上質な因子回路を有していた少年は、革命組織『ウロボロス』の実験素体としてまたとない逸材だった。
ゆえに連中はイツキという研究材料を確保するためにテロを起こした。
表向きは突発的テロ事件として記録されているが、それは言わばイツキという存在のために引き起こされたものだった。
たった一人の子供の身柄を確保するために、一つの街を紅蓮の炎で焼き尽くしたのだ。
もちろんその場にミオリも居合わせていた。『ウロボロス』の構成員たちに両親が殺害され、もはや子供だけではどうしようもないと理解していただろう。それでもミオリは最後まで弟を連れて行こうとする大人たちにしがみついて足掻いてくれていた。
当然ながら子供一人、しかも当時十三歳の女の子に、なにができるわけでもない。
それでも確かにミオリが助けようとしてくれた姿は忘れない。自分だって怖かっただろうに命懸けて頑張ってくれた姉はイツキにとってヒーローだった。彼女のそんな姿を見ていたからこそ、『ウロボロス』の非人道的な実験の数々を耐え抜けたのかもしれないと、いまさらながらそんなふうに思わずにはいられなかった。
そんな思い出に耽っていると、銭湯で聞いてしまったルシアの話が、不意に脳裏を過ぎる。
「ミオ姉はちゃんと俺を護ってくれたさ。たとえ、結果はどうであろうと、俺は救われてる」
姉に本心からの感謝を告げながら、それとは別の意思を込めて、イツキはぐっと拳を握った。
「……ルシアちゃんを護るって約束したのに、その約束を果たせなかったのは、俺のほうだ」
「なんとなく察してはいたけど、やっぱりイツキとルシアさんって知り合いだったの?」
ああ、とイツキは静かに頷きを返した。
ミオリのなんでも聞いてくれる雰囲気に呑まれたせいか、幼少期にルシアと出逢った日から昨晩の銭湯での件まで包み隠さず話してしまう。一連の思い出話にウンウンと相槌を返していたミオリは最後まで聞き終えたところで、ん? と首を傾げた。
――まずい。銭湯での一件まで語ることはなかった。
イツキは先に立たぬ後悔していたが、しかしミオリが口にしたのは別のことだった。
「ルシアさんって、いまでは子供の頃のイツキ以上の逸材だけど、もしかして昔はそうじゃなかったってこと……?」
「まあ、たぶん……全然才能がないって本人も言ってたし、因子回路の測定は万年『無色』で、自分には一生錬金術なんて使えないって嘆いてた」
その人間がどのような種類、属性の錬金術を得意とするかは、因子回路の性質を測定すれば簡単に判別できる。例えば、因子回路の性質に火の色が含まれていたなら、そのまま火属性の元素を用いた錬金術と相性が良いということになる。その因子回路を順当に成長させていけば、火はより強大な炎へと進化していくのが一般的な考え方だろう。錬金術の補助役たる精霊との契約は当然自らの因子回路と一致する属性の精霊と交わすのが基本である。
無論、因子回路にはない属性を無理やり習得する荒業をこなす例外も存在するし、精霊には得意分野ではなく苦手とする分野の補助を任せるという錬金術師もいる。
なにはともあれ生まれ持っての因子回路とは、その錬金術師の生き方さえ左右するものだ。
ごく稀に、親や師匠から回路を継承するというパターンも話には聞くが、その場合は互いの因子回路の反発により回路そのものが損傷する危険がある。そのためよほどの事情がなければ因子継承の儀は行われない。
ルシアが判定された『無色』とは、つまりなんの色も見出せないということ。
彼女の因子回路は空虚な器のようになにも入っておらず、ゆえに錬金術の才能も一つとして見当たらないということだ。生まれた瞬間は『無色』であることも多いが、自我が発露する頃になれば自ずと色が浮かんでくるはずなのに。
ルシア=サルタトールは、八歳になっても『無色』のままだったため、やはり才能ナシと判断された。
錬金術こそすべてと言っても過言ではないアトラスガーデンにおいて、その事実を告げられ、無能の烙印を押し付けられることは、もはや死刑宣告とも言えるだろう。
果たしてそれが八歳の子供にどれだけの苦痛を与えたのかは想像もつかない。
「それでもルシアちゃんは頑張ったんだ。だから、自分の力で因子回路に色を見出し、そしていまじゃ天才なんて呼ばれるほどになったんだろ?」
「……因子回路『無色』……けど、いまではあらゆる形式、そして属性の錬金術を扱える……なにかのきっかけで才能の開花があったとして、それで約八年の間にここまで……? それをありえないとまでは言い切れないけど……でも、この年齢であそこまでの錬金術師に至るのは、やはり彼女こそ……」
「……どうしたんだよ、ミオ姉?」
一人でぶつぶつと呟き、なにやら思考に没頭してしまう姉の姿に、イツキは首を傾げた。
すると彼女はハッとしたように顔を上げて、それから「ううん、なんでもない!」と笑った。
「あたしも教師として、あそこまで優秀な生徒だと、どう接するべきか悩んだりもしてたから。でも、そういう過去を知ることができたおかげで、ちょっとなにか掴めたかなーって感じ? だから、ありがとね、イツキ」
「……や、やめろって、撫でるな」
くしゃくしゃと優しく頭を撫でられ抵抗してしまうが、そのくせ内心ではその優しさに身を任せたくなるイツキだった。
「つーか、ほら、そろそろ着替えないと! ミオ姉だって教員会議とかあるんじゃないの?」
「え? あ、うわ、やばっ……もうこんな時間だったかあ~……」
姉に甘えてしまうそうになる自分が恥ずかしくて適当に言ったが、なかなか効果覿面だったらしくミオリは慌てたように身嗜みを整え始める。
「それじゃあ、あたしはもう行くからね! イツキも遅刻しちゃダメだからねー!」
「はいはい。ミオ姉も勝手に男子寮に潜入するのは控えてくれよなー」
「あははー、そんじゃまたねー」
明るく手を振りながらミオリは去っていく。
やれやれ、と慌ただしい姉を見送りながら、カーテンを開け放って朝の陽射しを浴びる。
今日もまた億劫な学院生活が幕を開ける。なんだか気が重くなるのを感じながら、イツキは一日を生き延びようと気を引き締めるのだった。