第二話 諦め
昼休み。
転入初日にも関わらず、折原一輝はぐったりと死に体を晒しながら、机に突っ伏していた。
転入生であることに加え、どこかの誰かが改竄した物凄い経歴、そして爽やかな朝に起きた平手打ちの一件となればクラスメイトが黙っているはずもない。むしろクラスメイトどころか別のクラス、さらには別の学年の生徒たちまで殺到して、イツキをもみくちゃにしてくれた。
次から次へと休み時間のたびに質問攻めにされていれば、他人との関わり方なんて忘れて生きていた引きこもりは崩壊するに決まっているだろう。
それでも、イツキはこうしちゃいられないと、もう動かしたくもない上体を起こした。
「ミオ姉……あ、いやミオリ先生……朝の、例の女の子だけど……、ルシア=サルタトールで間違いないんだよな……?」
「へ? うん、そうだけど……」
人気のある教師らしく、次から次へと訪れる生徒たちと、しきりに談笑していたミオリ。
彼女がようやく解放されたタイミングを見計らって声を掛けると、ミオリはじとーっとした眼差しで咎めるようにイツキを見つめてきた。
「一応、天才とか言われてる気難しい子ではあるけど、ルシアさんだって女の子なんだよ? イツキは男の子なんだからあんまり手荒な真似をしちゃダメだからね?」
「て、手荒な真似なんてしないよ! 俺だって、朝のアレは驚いたし、そりゃあ痛かったけど、べつにそれで彼女を恨んだり、怒ったりはしてるわけじゃない」
「ありゃ、そうなの? まあ、それならいいけど……え、あれ? もしかして、イツキってば、朝の一件でなにか特殊な性癖に目覚めちゃったの……ッ!? いや、そういうのダメとは言わないけど、お姉ちゃんとしてはちょっと心配というか、ね……?」
「そんなことよりルシアちゃ――ルシアさんがどこ行ったか心当たりある、ミオリ先生?」
おかしな誤解はこの際面倒なので気にしないことにしたイツキ。
そうして、どうにかこうにか、何度も話が逸れそうになりながらも、ようやくルシアという女生徒の居場所を聞き出すことに成功した。
件の紅髪の女生徒は昼休みになるといつも学院が用意した彼女の『工房』に向かうとのことだった。
工房とはその名のとおり錬金術師が己の研究に没頭するための場所だ。
アルヴァート学院では生徒のために工房の貸し出しをしているらしく、そうした徹底されたサポート体勢が名門校に成り上がった理由の一つと言われているようだ。しかし、当然ながら学院が用意できる工房にも数に限りがあるわけで、基本は五人以上~十五人程度のグループにしか貸し出しは行わないと生徒手帳に書いてあった。一つの工房を共有する学生のグループは工房術師団と呼ばれ、秋の学園祭では工房対抗戦なども行われるとか。
名門校の生徒たちによる研究の成果の競い合いは外部からも多数の観戦者が集まる人気ぶりだとミオリは言っていた。
「あ、そうそう、イツキ知ってる? 現代に生きる偉大なる錬金術師――『真なる赤』の因子回路に至ったルシウス=クライアスが行方不明だって噂なんだけ――」
「あー、わかったわかった、そういう噂話は俺じゃなくて噂好きの女生徒としてくれ、な?」
脈絡もなく流行りの噂話を始めようとするミオリの言葉を強引に遮る。
むう、と頬を膨らませた姉にして女教師から逃げるようにイツキは教室を後にし、それから紅髪の女生徒――ルシア=サルタトールがいるという工房を目指すのだった。
◇
ごくり、とイツキは固唾を呑んで、その工房の扉に手を掛けたまま静かに固まっていた。
ルシアという名前を聞いた瞬間、すぐに幼少期に一緒に遊んだ女の子のことを思い出して、紅髪の女生徒とその女の子がイツキの中でぴったりと一致したのだった。
ほんの僅かな間ではあったが、たしかにおなじ時間を過ごした、大切な友達との再会。
それを思うと、イツキの胸には感慨深い嬉しさが込み上げてくるのだが、朝の一件のじわりとした痛みが頬に広がると不安も湧き上がってくる。
さてどうしたものか。
彼女にどんな顔をして挨拶すべきなのか逡巡していると、
「……入らないんですか?」
背後から大人しそうな静かな声が掛けられた。
振り返ると、そこには目深にフードを被った小柄な女生徒が、きょとんと首を傾げていた。肩には小さな白狐――錬金術の補助をする精霊だろう――がちょこんと座っている。
彼女はフードの影から透き通った白髪を覗かせながら、とことことイツキのほうへと歩みを進めてくる。
「……私、ルシアちゃんの工房に入りたいのですけど、ええと……どう、しましょう?」
「あ、ああ、ごめん! 邪魔だったかな? お、俺もちょっと用があって来たんだけど、そのなんというか……」
「? ルシアちゃんは不器用なだけで優しい子です。そんなにおっかなびっくりしなくたって大丈夫だと思いますけど……」
そう言いながらフードの少女はイツキのほうに顔を寄せてきた。
なぜか、すんすんと匂いを嗅いでいるようだったか、もしかして汗臭かったのだろうか? 朝から緊張したり動揺したり驚いたりで冷汗は嫌というほど流したので、ちょっとばかり己の体臭が気になってしまうイツキであった。
「……うん。あなたは、そんなに悪い人って感じもしないですし、一緒に入りますか……?」
彼女はひとしきりイツキの匂いを嗅いでから、こちらが感じた妙な気恥ずかしさも知らず、涼しげな顔をしてそんな提案をしてくるのだった。朝の一件のせいもあって攻めあぐねていたイツキからすれば願ったり叶ったりである。
「じ、じゃあ、うん……一緒に入ろう、うん……」
途端、謎の緊張感に襲われたイツキは、挙動不審に着崩れてもいない制服を正していた。
そんな少年の様子をただ不思議そうに眺めながら、少女はなんの躊躇いもなく工房のなかへ突入していった――と思うのも束の間だった。大人しく静かな印象だった少女が子供のように駆け出したかと思うと紅髪の女生徒へと飛びついていく。その勢いに負けて外れたフードからぴょこんと白いケモノ耳が飛び出していた。
「こんにちは、ルシアちゃん! えへへ、今日も遊びに来たよー!」
「ちょ、いきなり抱き着かないでってば、アガット! それに、ここはわたしの工房であって、あなたたちと一緒に和気藹々と遊び惚ける場所じゃないって、いつも言って……ああもう! すりすりしないで、くすぐったいからあ!」
白い少女に抱き着かれ、頬ずりされるルシア=サルタトールの姿が、そこにはあった。
彼女は、言葉でこそああだこうだと言っているようだったが、しかしその表情はだらしなく緩んでいてまんざらでもなさそうである。
少女たちがじゃれ合っていると、
「……うっさいわねえ、ちょっと静かにしてくれる? いま、なかなかいい感じに仕上がってきてんだから集中させなさいってのー」
工房の奥に設置された大釜に、なにかの薬草やら粉末やらを混ぜているメガネの女生徒が、ルシアたちのやり取りを鬱陶しそうに一瞥しながらそう言った。着崩した制服や指先のネイル、薄く化粧もしているだろうか? その全体的に派手な印象も相まって、どこか真面目な意匠の黒縁メガネがなんだか浮いているように感じられる。
白い少女――アガットと呼ばれた彼女に抱き着かれたまま、ルシアは文句を言ってくるそのメガネの女生徒に向けて重いため息を吐きだした。
「勝手にわたしの工房の釜を使っておいて、よくもまあそんな図々しいことが言えるわね」
「そうだよ、マティは図々しいんですー! 私とルシアちゃんの憩いの時間を邪魔してるのはそっちなんですからねー!」
「いや、そうことじゃなくて……」
もう頭が痛いと額に手を当ててがっくりしてしまうルシアだった。
「べつに釜くらいいいでしょう? どうせあんたは古代式錬金術なんてやらないんだから」
「わたしだって必要とあれば古代式だってちゃんとやります! だから、あんまり好き勝手にやるとまたマティアナはやらかす――」
「あ、まずっ……あはは、あたしがやらかすって? ごっめーん、そのとおりでしたー☆」
刹那。
盛大な爆発が大釜を起点に炸裂した。もくもくと溢れた黒煙となにかの灰がルシアの工房を一瞬にして呑み込んでいく。当然、工房に足を踏み入れていたイツキは、わけもわからずその被害を一緒に被ることになるのだった。
◇
駆けつけた教師たちに騒ぎを起こすなと叱られた後、なぜかイツキも工房の掃除を手伝わされていた。この爆発騒ぎの元凶であるメガネ少女・マティアナ=テェルリッシュは、やる気のないといった様子で箒を投げ捨て、近くにあった椅子にぐったりと腰を沈めている。白いケモノ耳と狐のような尻尾が目を惹きつける少女・アガット=シャルロンは、渋々と手を動かしながらもちらちらとルシアの様子を窺ってばかりいるようだ。
その視線が稀にイツキに向けられるのは、きっと勘違いではないだろう。
工房の床を黒く染め上げた灰を、黙々と掃き出しているイツキとルシア。
二人は、互いに互いを意識するような素振りを時折見せるが、そのくせ言葉どころか視線も交わさず気まずい沈黙を周囲に伝播させているのだった。
だが、そういった沈黙を苦手としているのか、最初に声を発したのはマティアナだった。
「……あのさ、お二人さんはどういったご関係で? というか、そもそもそこの男、だれ?」
「……今日、この学院に無理やり放り込まれた折原一輝だ。ルシアちゃ――ルシアさんとは、その、なんというか……幼馴染っていうか、まあなんだ、『友達』だったんだよ……」
正直、気まずいので黙秘を貫きたいところではあったが、こうして問われたからには律義に答えてしまうのがイツキなのだった。自分のこの認識が勘違いではないと半ば確信しながら、ルシアがどのような反応を示すのかとこっそり視線をそちらに向けてみる。
紅髪の少女は、ほんのりと口許が緩みかけている――というのは気のせいだったろうか? なんとも言えぬため息を吐きだしたルシアは、一度手を止めてこちらを振り向いたわけだが、その表情に感情らしいものは特に見受けられなかった。
「友達、ね……そう、たしかにわたしと彼は、そういうものだったかもしれないわ」
凛と澄ました視線でルシアはイツキをじっと射抜いてくる。
それから、ようやく口を開いた彼女が次に紡いだ言葉は、とてもシンプルなものだった。
「約束、破ったくせに」
「…………」
そこには怒りも憎しみもなかった。
彼女の言葉になにか含まれていたとすれば、それはただの『諦め』というべきだろう。
(ああ、そっか……俺はルシアちゃんを裏切ってたんだもんな……ったく、なに一人で再会を嬉しくなんて思ってんだか……)
イツキは返す言葉もなく項垂れた。
やがて、二人は互いに興味を失くしたように、どちらともなく工房の掃除へと戻っていた。
約束。
それは、遠い昔のようにさえ思える幼少期に、二人が交わしたもの。
彼女のことを護ると、そんなことを自信満々に誓っていた折原一輝は、もういない。
きっとルシアは、自分の前から消えた少年に期待なんてしないと決めたはずで、だからこそいまさらのこのこ姿を現したイツキが気に入らないのだろう。
そして、イツキもかつての信頼と期待を取り戻すことなどできないと、そう悟っていた。
否、諦めてしまった、というほうが正しいだろう。
少女は少年に期待することを既に諦めて、少年は少女の期待を取り戻すことをいま諦めた。
かつて約束を交わした少年少女の再会。それは、あの頃のなにもかもを諦め、その繋がりをゼロにするようなものだった。
数年ぶりの再会は、とても苦くて、重く沈むような味だった。