第二話 鮮血創造
最初の障害を乗り越えたことにほっと安堵の息を吐きながら、がらがら崩れてゆく土くれと一緒に地面に向かって自由落下しているときのこと。
イツキはふと視界の端にそれを見つけた。
「なっ……ま、ず……!?」
砕け散った岩石人形の奥深くでギラリと輝いたもの。
それは小型のナイフ。それも一つではなく群れるように束になって纏められていた。
そして、岩石人形の崩壊に呼応するようにナイフの束は霊子光に包まれ、次の瞬間には爆発と共に四方八方へと飛散する。
崩れた岩石人形の肩から落ちている途中のイツキは体勢を立て直せない。
空中から地面に背中を打ち付けるまでの間に、勢いよく飛び込んできたナイフ二本が脇腹と左腕に突き刺さった。さらに、四本が頬と太腿を始めとした体の至る所を掠め、皮膚を裂いて肉を抉りながら過ぎ去っていく。
ようやく地面に着地したイツキは即座に立ち上がり、それから突き刺さった二本のナイフを体から引き抜いた。
そうしていると、
「けけ、キッヒヒャハハハハ! 対象、補足完了ってなァ!」
耳障りな潰れた笑い声が森の薄闇に響き渡った。
イツキが不快感を露わにしながら声の起点を探っていると、やがて木々の奥からふらふらとおぼつかない足取りでピアスの男・ヴェノンが姿を現した。以前に一度見たときとは変わって全身という全身に包帯を巻きつけていた。部位によっては傷口が開いたのか包帯に赤い血色が滲んできている。
「ッ……」
その痛々しさに、吐き気にも似た衝動に襲われたイツキは、ぐっと息を呑み込んだ。
ルシアにやられた傷はまだほとんど癒えていないだろう。逆立てた髪はまるで整えておらずざんばらになっていた。狐のように細められた三白眼は熱に浮かされたように血走っていて、口許は獲物を見つけたハイエナのようににたりと吊り上がっている。
彼は傷口が開くことも構わずに鷹揚に手を広げる。
その瞬間、イツキの全身にもどくどくと毒が盛られたように、激しい痛みと熱が溢れ出す。
「ヒヒ、あれだけ刻めば十分も十分。いや、十分どころか最高に上出来ってヤツだよなァ!」
「…………」
イツキは歯を食い縛って突然の痛みと熱に耐えた。
『ウロボロス』構成員――ヴェノンという男が得意とする錬金術。
それについては既にルシアから教えてもらっている。
類感呪術の性質を基本とした魔術式錬金術。
自身の体液を仕込んだ毒が塗られた刃で対象を傷つけ、その傷ついた他人の肉体を自分自身と世界に誤認させる下準備からそれは始まる。
そして、毒が回ったことで世界は『折原一輝』を『ヴェノン』と認識し、ヴェノンが受けた痛みと熱がすべてイツキの肉体にも反映されている。ルシアの話ではあくまで痛みを感じるだけだと言っていたが、
「あんだけ毒をぶち込めば、オレとテメェの肉体同調率はほぼ一〇〇パーセントってところだ、なァ?」
「……死んでもあんたみたいにはなりたくないけどな、俺は」
呆れたように返したイツキだったが、その表情はひどく苦しげに歪んでいた。
肉体のあちこち傷が増えて、たしかな熱を持った血液が制服に滲み出し、やがて朦朧とした意識で立っているのが辛くなり、がくりと膝を折ってしまう。
毒が効きすぎている。
痛みや熱だけでなく実際の傷がイツキの肉体にも再現されているのだった。
「……どいつもこいつも、オレの『自傷呪』の因子回路をゴミみたいに見やがって……ッ! まったく使いモノにならねえ? くだらねえ因子回路だァ? ああ、そうだよ。だからオレは痛みってモノに可能な限りの耐性をつけて、この力がオレに許された最高の錬金術だってことを証明してやったんだろうがよォ!」
幻覚でも見ているようにうなされながら、ヴェノンはさらに懐からナイフを取り出した。
「その目だァ……! テメェみてえに、気味の悪い汚物を見るような目で、オレを見やがった。どいつもこいつもオレという存在を認めはしねえってか? ヒャハ、ハッハハハ! それこそ、オレが認めねえって話だろうが!」
ぐちゃり、とヴェノンはなにかに執着するように、己の腕に思いきりナイフを突き立てた。
朦朧としていたイツキの意識が、激痛で無理やり叩き起こされる。
「神への冒涜、だっけか? なにが『ウロボロス』が創り上げた最高傑作にして失敗作だ! つまりはテメェはそれだけすげーバケモノなんだよなァ……? だったら、そいつを殺せば、オレのほうがすげーってことになるわけだァアアア!!」
「ッ……やめ、ろ!」
イツキの制止など当然ながらヴェノンに届くはずもなかった。
彼は、鳩尾や手首、首筋、アキレス腱といった人体の急所を、これでもかと執拗にナイフで抉り貫いて笑っていた。
もはや彼の全身に巻き付いている包帯など意味を為さない。
周囲の一面に血の雫を撒き散らしながら、その痩せぎすの体を真っ赤に染め上げていく。
そうして生まれた傷と痛みはすべてイツキにも反映される。もはや悲鳴さえ上げられぬほど、苦しくて、辛くて、死んだほうがマシとさえ思ってしまう。
――……ダメだ、俺は……ルシアちゃんを……今度こそ、約束を……!
イツキは悲鳴を上げる意識をただの意地で繋いでいた。
恐れることも、怖がることも、逃げ出すこともない、と自分に言い聞かせる。
なぜなら、折原一輝はこれと同等の――否、これとは比べ物にはならぬ地獄を知っている。
何度も切り刻まれ、何度も異物を流し込まれ、何度も肉体の内側――霊子の核まで弄られて、それでも耐え抜いてきた魂ならば、この程度で折れるはずがない。
「オレをバカにしやがった連中も、オレを認めねえ『ウロボロス』のイキったクソ野郎も! 全部、全部、ぜんぶぜんぶゼンブ! オレのこの錬金術の前に、跪かせてやんだよォオオおお! ギャハハ、ヒャアーッハッハハハハハハハハハハ!」
「…………」
意識が遠く、遠く、遥か遠くへと過ぎ去っていく。
イツキの心臓がもう限界だと訴えるように、ドクン! と爆発するような鼓動を鳴らした。
全身の血潮が熱くなる。
加速した血流が頭の先から足の先まで駆け巡る。
その度に体の外に大量の血液がどくどくと零れていく。
赤く、紅く、朱く。奇麗で、おぞましい液体が、溢れていく。
それはなんだ?
――それは神に等しき力だ。
それはなにをもたらす?
――それは生命への冒涜をもたらす。
それは一体誰に許されたものだ?
――それは神にも許されぬ禁じられたものだ。
封印指定の因子回路。
その性質は、この体を赤く染め上げた血液にこそ、宿っている。
第一質料。
神と呼ばれる存在が、世界の物質・生命を創造する際に込めた、この世すべての根源たる元素がそう呼ばれている。それはあらゆる物質・生命に宿されているが認知できず、ゆえにいかな錬金術師であろうとそれを抽出して取り扱うことはできない。すなわち神にのみ許された神域の元素とも言えるだろう。
だが、もしもその根源元素・第一質料の創造の力を、疑似再現したものがあったとすれば?
人類は生命の神秘を解き明かし、この世界の創造という始まりの瞬間を紐解き、この世界にいずれ訪れる終焉を演算する。
そして、天上の神と同等の領域に至った人間は、あらゆる不可能を可能とするだろう。
それこそが錬金術師が求める偉業。
それこそが人間が創り上げた『偽りの神』の力。
それこそが折原一輝の歪められた因子回路――『創血元素』がもたらす変化だった。
「は、ァ……?」
ヴェノンは信じられないものを見たように吐息を漏らした。
彼の視線の先で、いまにも倒れそうだった少年が、まるで何事もなかったように立ち上がり、その周囲の草木を赤に変色させた血液たちが蠢き始めたのだ。やがて折原一輝の血液は、まるで自らの意思を持ったように、主の肉体へと回帰していく。
「なんだァ、そりゃ……オイ、それは……なんの法則だ……?」
少年はただ静かに佇んで、己の血が戻るのを受け入れている。
そうしているだけで、ヴェノンの傷を複写された肉体がみるみる修復され、その身に刻んだ無数の傷は一つ残らず消えるのだった。
「いや、ありえねえ! 高レベルの治癒術式だろうが、たとえ超速の自己再生だろうが! オレの呪いを掻き消して回復するなんざ、ありえねえんだよォ! いまのテメェはオレだろうが! だったらオレの傷はすべてテメェも請け負わなきゃならねえんだ! なんで、なんで、なんで……どうしてテメェだけが治ってんだよ、クソがァアアアああああ!」
ヴェノンが怒りに任せて自らの肉体を傷つける。
その度に、少年の肉体もまた傷つくことに、なんら変わりはない。
しかし、傷ついたところで、零れ落ちた血液が即座に肉体に纏わりつき、なにもかもなかったことにされる。ヴェノンの類感呪術の法則を用いた肉体同調は切れていないし、その影響とてきちんと反映されていることは目に見えてわかる。
それなのに、影響が起きた直後に、すべてなかったことにされる。
「だから、俺は最初から『やめろ』って言ったじゃないか」
「なん、だと……? テメェ、なにをした……なにしやがった、オレの錬金術にィイイ!」
ふう、と修復された肉体を落ち着けるように一息吐き出しながら、イツキは告げる。
ヴェノンが相手にしているのが、果たしてどのような怪物であるかを。
「あんたの錬金術になんて興味はないし、そこに干渉なんてしていない。俺はただ偽・第一質料を使って、自分の肉体の損傷個所を一から創り直しただけだ」
「創り、直した……? 治癒でもなく、再生でもなく、創っただと……?」
ありえない、とヴェノンは大きく開いた瞳孔に折原一輝を映し出した。
それは、いてはいけないものだ、と直感したのだ。
「神への、冒涜……は、はは、キヒヒ……ああ、オレも理解したぜ……人間が、人間の肉体を――いや、生命を……物質を……創るなんて、それは神になったも同然じゃねえか……」
「そんなに万能なもんでもないさ。俺の力はあくまで血液に宿るものだから、限度がある」
「んなこと知るか! 限度があろうがなかろうが、どっちにしろテメェは錬金術師じゃねえ! いや、そもそも人間ですらねえってことだろうが、このバケモノがァああ!」
ヴェノンが吠えた。
錬金術とは、第五元素と四大元素を組み合わせて、物質や現象を発生させるものだ。
しかし、錬金術で生み出されたものには第一質料が存在せず、元素の結合が解かれた時点でこの世から消滅しなければならないという法則がある。
例外として古代式錬金術があるが、古代式の場合はもともと存在する材料から元素を抽出し、それを融け合わせることで新たな物質として作り変える錬金術だ。材料に含まれた第一質料は当然ながら人間には認識できず、もちろん操ることも不可能であるが、自ずと新たに生まれた物質に継承されると考えられている。つまり、古代式の制作物には知らぬうちに第一質料が宿されるため、この世界に残り続けるのだ。
だが、
「ああ、俺は錬金術師なんかじゃないさ。もう神童だのと呼ばれて自惚れていた愚かな錬金術師はいない」
イツキの『創血元素』――偽・第一質料は、それらの錬金術とは根本的に原理が違う。
禁じられた因子回路の性質を宿したイツキの血液は、それそのものが第一質料――つまりは『魂』あるいは『魂の原形』と呼べるものだ。
それは、なにかに成ろうとする小さな灯火、その始まりの核である。
その小さな灯火に、それを操る者としてイツキが息を吹きかければ、たちまち燃え上がって望んだカタチを成すことだろう。
イツキは死にたくないと願い、この命を繋ぎ止めるために、新たな肉と皮膚を求めた。
そして息吹をかけられた灯火は、その求めてに応えて燃え上がり、この世にカタチを成して創造されたのである。
「この身に宿る忌まわしき血液はもはや人間を逸脱したもの。あんたたち『ウロボロス』が生み落としたバケモノとしての力に過ぎない」
バケモノという罵倒をイツキはただ静かに受け入れる。
第五元素と四大元素の結合により、ゼロを一時的に一にする基本錬金術。
材料となる物質を融かし合わせて、二を別の一に作り変える古代式錬金術。
そして、第五元素も四大元素も調合材料も関係なく、まるきりのゼロから全を創造するのが『創血元素』――すなわち神を冒涜せし偽神の創造術である。
いわば錬金術の到達点。
否、錬金術でさえ到達できない力が、この身には宿っているのだ。
「そう、か……結局、オレの錬金術は誰にも認められない……ク、クヒャ、どうせ上の連中は、オレみたいな役に立たない駒なんざ、あっさり切り捨てるんだろうよォ……」
だらりとなにもかも諦めたようにヴェノンは全身の力を抜いた。
痛みで動けなくしてしまえば、それで勝てるという算段だったのだろう。しかし、それはもう失敗に終わったと、彼はようやく理解したのだ。どれほどの苦痛を与えようと、折原一輝は苦痛そのものを肉体から切り捨て、その切り捨てた肉体をゼロから再創造してしまう。
不死身で不滅の怪物を相手に、自分を傷つけることでしか他者をいたぶれないちっぽけな人間が、どうやって勝てるというのだろうか。
だが、それはちっぽけな人間だから、なにもできないだけだ。
キヒヒ! とヴェノンは不気味な笑い声を森一帯に響かせた。
「ああ、そうだなァ。たしかに、テメェを傷つけるだけじゃ、なんの意味もねえ」
だがよ、と彼は続ける。
いま一度、力の抜けきった手にナイフを握りながら、それを天へと掲げて。
「まだオレとテメェの同調は生きてる! つまり、オレが死ねばテメェも地獄行きってことだろォ!」
「まさか、オマエ……!?」
イツキは咄嗟に自分の親指を噛んで皮膚を破った。
忌まわしき血が飛び出し、それらは鮮血の槍としてカタチを成し、この世に創造された。
「どっちにしろオレは処分されんだよ! だったらテメェみたいなバケモノも道連れにする! そうすりゃオレの錬金術は、偽りの神とさえ殺し合える代物だって、そう証明されんだろォ! そこまでやりゃクソみてえな『ウロボロス』の連中も、このオレを認めるはずだァああああ! 誰もがオレの錬金術をォおおお! キヒ、ヒャッハハハハ! クハハハハ、ハッハハハァ! ギャッハッハハッハハハハ――――――――ッ!!」
「……鮮血創造! 間に合え、よ……っ!」
ヴェノンは、己の命を絶つべく握った刃を左胸へと向かって振り下ろす。
イツキは、その凶行とも言える自害を止めるべく、鮮血の槍を投げつけたが――
「ぐ、ふっ……が、あァ……」
「か、はっ……!?」
逆流した血液が口から吐き出される。
鮮血の槍がヴェノンの右腕をたしかに貫いた。しかし、それより一歩先にヴェノンのナイフが、彼の心臓に深々と突き立てられているのだった。
ふらり、ゆらり、と両者の体が力なく揺らぐ。
ほどなくして、音もなく両者はその場に倒れ伏すのだった。