第九話 願い
凍てついていたルシアの意識がじわりと熱を帯びていく。
彼女が静かに目を覚ましたとき、そこには視界を覆うような暗闇が広がっていた。
剥き出しの岩肌に背中を預けるようにして座らされている。
肩から腰に掛けてごつごつとした凹凸が痛いし、お尻はひんやりと冷たくて固いしで最悪の気分だった。
「……そっか。わたし、しくじったんだ……」
少し時間が経って多少は目が暗闇にも慣れてきた。
自分の身になにが起こったのかを思い出して、ゆっくりと気を張りながら視線を巡らす。
ここはどこかの薄暗い洞窟のようだ。その一番奥のひらけた場所にルシアは連れて来られたらしい。どうにか逃げられないかと体を動かそうとしたが、やはり案の定というかなんというべきか、両腕ごと胴がぐるりと鉄鎖に拘束されていた。
立ち上がろうともしてみたが、両足首もしっかり縛られているようで、自由が利かない。
錬金術に頼ろうとしてみても、うまく元素の構築ができず、力の制御が間に合わなかった。おそらくだがルシアを縛る拘束具には、因子回路の活性化を抑制する性質がこれでもかと付加されているのだろう。『真なる赤』という強大な素質のことも最初からバレている、というよりそれこそ相手側の目的なのだから、対策は万全に決まっている。
それでも、しばらく暴れられるだけ暴れて、だが結局は無駄に疲れるだけに終わった。
「……ああもう! 打つ手がないからって、ばかなんだから……」
自分に嫌気がさしてかルシアの口からため息が漏れる。
この手の人攫いは『ウロボロス』の構成員にとっては慣れたものなのだろう。
拘束が緩んでいたなんて初歩的なミスをしてくれるはずがない。そして、相手がありえない初歩的なミスをする、という奇跡的展開に縋るしか脱出の手が思い浮かばなかったルシアは、ただただ己の未熟さに呆れてしまうのだった。
どんなにすごい力を手に入れたって、それを扱う人間が未熟では意味がないと、悲嘆する。
そうしていると洞窟にカツカツと足音が反響した。ルシアが縛られた体を硬直させて身構えていると、暗闇の向こうからぼんやりと蝋燭の明かりを照らしながら、白い仮面が近づいてきた。
それを知らぬものが見たら、闇に浮かぶ白仮面なんて軽いホラー映画だろう、それは。
「……む? ようやく起きたようだな。よく眠ることができたかな?」
「……なにそれ。こんな状況で安眠できたと思う?」
ルシアは吐き捨てるようにそう言ったが、白仮面はくすくすと仮面の奥で笑いを潜めた。
む、と眉を顰めていると彼は肩を竦めながら、ゆっくりと洞窟の片隅まで歩みを進めていく。蝋燭の明かりに簡素な木製机と椅子が照らし出される。白仮面はそこに腰掛けながらルシアを静かに見つめていた。
「な、なによ……なにか言ってみなさいよ、黙ってないで……!」
「くく、本当に言っていいのか? 君が、ぐわぐわといびきを立てながら、ぐっすりと眠りに就いていたということを」
「……え? ……はい? ……え、やだ、うそ……?」
ルシアは思わず口許を押さえてしまっていた。
自覚はまったく無かったが、最近はいろいろなことがあって精神的にも不安定だった気がするので、その影響が睡眠中に出てきてしまった可能性は十分にあった。
――……イツキくんの前では、そんな醜態を晒してないわよね、まさか?
と、ルシアは自問自答して深みに嵌まっていく。
思わぬ恥ずかしさを突かれて、唸るように歯噛みし、悶えるルシア。
「……な、なんなのよ、本当に……わたしがいびき立てようが、あなたには関係ないでしょう!?」
「ここに運び込む道中、ずっと耳元でぐわぐわやられて、なかなかに堪えたんだ。それに耐えた私の身にもなってほしいものだがね。正直、夢にまで出てきそうで恐ろしいくらいだよ」
「だったら、いますぐにわたしを解放しなさい。それで、もうわたしのことなんて忘れてしまえば、なにも問題ないでしょ」
「この期に及んでそのような戯言を言うとはな。もしや、借り物の因子回路が凄まじいだけで、実は君自身は非常に頭が悪い、ということだったりしないかい?」
「しないわよ! というか、さっきからくだらない話ばかりして、わたしをバカにしてるの?」
くく、と短く喉を鳴らして白仮面は笑う。
彼は肩を竦めながら、
「組織の上層部が君を引き取りに来るまで残り数時間といったところだ。そのときになれば君はこの世界と錬金術というものに絶望することなる。……だから、せめていまこのときくらいは、ただ普通に過ごさせてやろうと、私なりに配慮しただけさ」
せめてもの慈悲だと、どこか憐れむように白仮面は語った。
不思議なことにその言葉に嘘偽りはなく、また冗談などでもないように思えた。
まさか『ウロボロス』の構成員にこのような情があるとは驚きだ。彼らは、無感情で無慈悲に機械的に、ただ「錬金術の発展のため」と身勝手な犯罪に手を染めている印象があった。
おそらく、ほとんどの構成員はその印象通りの連中なのだろう。あるいは快楽的かつ効率的に罪を犯したい頭のイカれた輩も多いかもしれない。
しかし。
白仮面も当初は無機質で無感情な印象だったが、こうして言葉を交わすとそれは覆された。
無論、だからといって白仮面が敵であることは変わらないし、どんな理由があろうと身勝手な犯罪に錬金術を使うなど許されることではない。錬金術は、人々の新しい明日のために役立てるもの、というのがルシアの師匠の言葉であった。
そんなことを考えていると、自然とルシアは白仮面に問いを投げていた。
「……わからないわね。あなたは、どうしてこんなことを、するの?」
「アトラスガーデンの秩序のもとでは、神秘への到達は成されない。錬金術の発展を阻む秩序を白紙にする使徒として、我々は存在している」
感情のない定型的な回答だった。
それは『ウロボロス』が組織として掲げる理念。
錬金術の未来だけを見据えたもので、そこに生きる人間というものを、まるで見ていない。
それゆえに狂信的な錬金術師はその理念に心まで魅入られ、いまあるべき錬金術の姿を忘れてしまうのだろう。
けれど違う。
その回答はルシアが求めているものではなかった。
そんなくだらない指標を語れと、わざわざ問うたわけではない。
「……くだらない犯罪組織が自己を正当化するために作り上げた戯言なんて聞いていないのよ。わたしは、あなたという個人に対して、その目的と理由を訊ねているの」
「……ふむ、なるほど。そうか、私個人に対して、か……」
白仮面は困ったような重い吐息を仮面の内で漏らしていた。
それから、しばらくルシアと睨みあって、ようやく決心したのか閉ざしていた口を開いた。
「私は、ただ自分のために、この手を汚している」
「自分の、ため……?」
そうだ、と白い仮面がゆらりと肯定の頷きを返した。
「私は、私の大切なモノを護るためであれば、どれほどこの手を汚そうと構わない」
とても静かな声だった。
しかし、ルシアにはそれが、なぜか悲痛な叫びのようにも聞こえていた。
「……私に自由はいらない。私に羽ばたくための翼などいらない。そんなものがあるのならば、私はそのすべてを、私自身の大切なモノのために捧げるさ」
彼は、どこまでも己の感情に従って動いているだけだと、そう語った。
そのすべてを理解できたわけではない。曖昧な言葉で語られた彼の目的の大部分は、結局のところルシアにはわからないことばかりだった。
ただ一つだけ理解できた。
それは、白仮面がたしかな願いを胸に抱いており、そのために命すら賭しているということ。
彼の願いのためにルシアが生贄になる理由などどこにもない。
わざわざ他人の目的のために身を捧げるつもりなど、最初から毛ほども持ち合わせてはいない。
それでも、
――……この人は報われるときが来るんだろうか?
ルシアは同情にも似た気持ちを白仮面に抱いてしまうのだった。