第七話 感覚同調
金髪碧眼の魔女・アリス。
かつて革命組織『ウロボロス』を解体に追い込んだ英雄的錬金術師であり、イツキという忌まわしき実験素体を拾って育ててくれた恩人でもある。彼女がいなければ、いまこのときイツキは生きていなかったし、たとえ生きていたとしても真っ当な『人間』にはならなかったはずだ。
錬金術の闇を、その身に刻まれ、その身に喰らい尽くし、その身に宿した折原一輝。
そんな彼が、普通の人間として生きようと思えるのは、アリスという存在があったからだろう。
そして、
「なんで、あんたがここに……?」
その命の恩人である小柄な女がそこにいた。
背の高いマティアナはもちろん、背の低いほうであるアガットよりも小さく、とにもかくにも年齢不詳というしかない魔女がそこにいたのだ。
もっと詳しく語るのであれば、イツキの体からぬるりと飛び出してきた。
いまだ理解が追いつかず、まるで意味もわからない。
「久しぶりだな、我が弟子よ……と言いたいところだが、まだおまえを送り出して一週間さえ経っていないとはな。些か事が進むのが早過ぎるだろうよ、まったく」
アリスは普段のゴシックな洋装ではなく、術式管理局『ヘルメス』の制服で身を飾っていた。
傍から見たら子供のお仕事体験かなにかにしか見えないが、彼女はいまでも立派な術式犯罪対策室・特別顧問である。
彼女が管理局の制服に袖を通したということは、それ相応の事態が起きているということに他ならない。
「アリス、なにかあったのか?」
「この学院の警備員から管理局に緊急連絡が届いた。犯罪組織『ウロボロス』の紋章を刻んだ外套の連中がアルヴァート学院に侵入したとな」
その言葉にイツキは息を呑んだ。
まだ状況がよくわかっていない様子のマティアナとアガットだったが、少なくともアリスが告げた言葉の意味するところは察したらしい。
「それって、ルシアちゃんが、あぶない……!」
「ちょっと、アガット! 待ちなさいっての! ルシアがどこにいるかわかってんの?」
「わかってます! お手洗いに行っただけなんです! すぐに呼び戻しに行かないと……!」
「もうかれこれ三〇分も戻ってないでしょうが! そこにきて『ウロボロス』の連中が出てきたってなら、なにかあったと思うほうが自然でしょう」
「だったら尚更です! マティはルシアちゃんが心配じゃないんですか!?」
「そんなもん心配に決まってんでしょーが! だけど闇雲に動くのはよくないって言ってんのよ!」
少女二人がルシアの身を案じるあまりに言い争いを始めてしまう。
やれやれ、と金髪碧眼の魔女は小さな肩を竦ませる。
「騒ぐでないわ、小童ども。ここから先は我々管理局の仕事なのでな。アルヴァート学院の生徒は大人しく待機していたまえ」
「そんなの嫌です! 私の友達なんです。『ウロボロス』が狙っているのは……!」
いまにも殴り込みそうな勢いでアガットは魔女に食って掛かっていた。
だがアリスは動じることもなく、ただ淡々とした声音で告げる。
「だから君たちの出番はないと言っている。ルシア=サルタトール……『真なる赤』を継いだあの少女ならいましがた『ウロボロス』の連中に連れ去られたところだ。こうなった以上――いや、こうなったおかげで、ようやく術式管理局としても表立って動ける」
「おい、ちょっと待て、どういうことだ!?」
今度はイツキがアリスの肩に掴み掛った。
「アリス、おまえ、なにをどこまで知っていた……?」
「おまえがアルヴァート学院で見て聞いたことはすべて知っている。おまえが森を出る前に『祝福』として五感同調の術式を仕込んでおいたゆえにな。ルシア=サルタトールのことも、ミオリのことも、『ウロボロス』の動向もお前とおなじ程度には把握しているさ」
「……つまり、ずっと俺を通して見ていたのか、ぜんぶ?」
ああ、とアリスは頷きを返した。
イツキが思わず肩を掴んだ五指に力を込めてしまうが、アリスはまったく痛がることもなく、ただ静かにそれを払い除けてから言った。
「だったらなぜもっとはやく動かなかった、か? それは私としても不甲斐ないと思うがね。だが権力をこの手に握り、アトラスガーデンの秩序を維持する術式管理局に属している以上、私が自分勝手に動くことは許されないんだ。どんなに状況を把握したところで、それに対して上層部の連中が対応許可を出してくれなければ、なにもできない」
すまないな、と呟いたアリスだったが、それでいて悪びれる様子はなかった。
あくまで自分のやれることを、やれる範囲でやっているだけで、責められる謂れはないと、そう彼女の澄んだ眼差しは訴えかけてきた。
アリスの言っていることは理解できる。
だが、ルシアを護ると改めて決意したイツキからすれば、納得できるものではない。
「もう一度言うがここから先は管理局に任せておけ。私の目が届いているうちは一般人である学院生が危険に飛び込むのを見逃すわけにはいかん」
「……断る! あんたたち管理局なんざ信用できるか。ルシアちゃんは俺が助けに――」
イツキの言葉は最後まで紡がれなかった。
その言葉を遮るように、アリスがイツキの制服を思いきり引っ張って、組み伏せるように膝を折らせたのだ。するとお互いの顔が丁度正面から向かい合っていた。真っ直ぐな視線に射抜かれたかと思うと、そのあどけなくも強さを秘めた童顔が、一瞬にしてゼロ距離まで迫る。
「アリス、おまっ……!?」
「んっ……」
いつかのように、アリスの柔らかく甘い吐息が、イツキの唇を塞いでいた。
だがあのときとは違う。ただ触れ合うだけではなく、イツキからなにもかも奪い取るように、彼女は強くきつく奥深くまで攻めてくる。反射的に抵抗してしまうが、抵抗すればするほど、互いに絡み合って苦しくなる。
たっぷり数十秒に渡ってそれは続けられ、それから思い残すことはないと離れていく。
「ぷ、はっ……はあ、くそ……おまえ、こんなときに、なにをして……っ!」
「うら若き少女たちの前で少々はしたないことをした」
しれっとした顔でアリスは口許をハンカチで拭っていた。
「だが悪く思わないでくれ。適当に自分の霊子をイツキの回路に放り投げるのは簡単だったが、あまりに適当にぶち込んでしまったので、探して取り出すのに少々手間取ってしまっただけだ」
ともかく、と。
放心するイツキと、その光景に目を覆っていた少女たちに背を向けて、アリスは歩き出した。
「……私とイツキの間にあった感覚同調はこれで解けた。もう私自身が動けるのだから監視の必要もないしな」
控え室の扉を開けながら、彼女はどこかわざとらしく呟いた。
「これから学院の教師どもを集めて、この一件への対策を練らねばならん」
「対策を、練るだと……? この期に及んで、おまえは……管理局って連中は……! もうとっくにルシアちゃんは『ウロボロス』の奴らに連れ去られたんだろ? それなのに、のろのろ動いて、それでなにを解決するって言うんだよ、なあ!」
アリスを追い掛けようとするイツキだったが、そこは『四大極光』の因子回路を持った魔女。
振り返りもせず、むしろ指一つ動かすことなく、目に見えぬ突風であっさりイツキを転がした。
「そういうことで我が弟子よ。おまえの姉――ミオリを会議室まで連れて来い。わかったな?」
「……くそ、ふざけやがって、バカ魔女が!」
アリスは自分勝手に言うだけ言って立ち去ってしまった。
既に見えなくなった小さな背中に悪態を吐いて、それからイツキは倒れた体を起こした。
「そんで? どうすんのよ、この状況であたしらは……?」
「対抗戦まで、あと一時間半……ううん、そんなことはどうでもいいんです、ルシアちゃんが無事でいてくれれば……」
アガットとマティアナは互いに悔しげな吐息を漏らしている。
彼女たちとてルシアを助けに行きたい気持ちはおなじだろう。しかし、既に連れ去られたというのが本当なら、『ウロボロス』の連中がどこに向かったかなどわからないし、手の打ちようがない。さらには「動くな」と術式管理局から直々に釘を刺されてしまったのだ。
下手に事件に関われば、あるいは管理局から処罰される可能性だって、考えられるだろう。
だから、正式な学院生である彼女たちには、無理などさせられない。
「ここは俺が行く。ルシアちゃんを護るってのは、俺がやるべきことだからな」
「行く、って……言うのは簡単だけど、あんた、どうするつもりよ?」
訝しげにマティアナが問うてきた。
「難しいことじゃない。ミオ姉を連れてもう一度アリスの奴に会いに行くよ。それで術式管理局が掴んでいる『ウロボロス』の情報を全部吐かせてやる」
「だったら、私も一緒に行きます! 私だけこんなところで大人しくなんてできません!」
意気込みながらそう言ったアガットだったが、それに対してイツキは拒絶の意思を返した。
どうして! と制服の袖に掴み掛ってくるアガットに静かに答える。
「アリスのことだ。この事態を隠蔽して平然と対抗戦を開催するかもしれない。学院内に『ウロボロス』が侵入したなんて知れれば、競技場に集まった生徒たちの間でパニックが起こりかねないからな」
「いまは対抗戦なんて、どうだって……!」
イツキはケモノ耳の少女の肩を掴んで、その瞳を真っ直ぐに見据えた。
「どうでもよくないだろ。ルシアちゃんが帰ってきたとき、アガットさんやマティアナと一緒に過ごしたあの工房がなくなってたら、きっと哀しむじゃないか。ルシアちゃんは、みんなと過ごせるあの場所が『好き』だって、そう言ってたんだ」
「……それは、そんなこと、言われたって……」
「どっちにしろ俺は工房対抗戦じゃあ大して役に立てない。それに、あの魔女がでっち上げた詐称経歴で学院に転入したイレギュラーな生徒なんだよ、俺は。仮に監理局からの処罰を受けて、この学院を追い出されたとしても……なにも、問題なんてないんだ……」
そう呟いたイツキの言葉には、僅かにだが悔しさが滲んでいた。
おそらく、思っているよりも学院生としての生活が、嫌いではなかったのだろう。
アガットやマティアナ、そして再会したミオリ――なによりルシアと共に過ごした数日間は、森に引きこもっていた頃と比べて、ひどく大変だったが、そのぶんとても充実していた。
「……でもさ、ルシアが好きな工房には、あんたもいなくちゃダメなんじゃないの?」
「……そうだったら嬉しいよ。だけど、まずはなにより、工房の主を取り戻さないとだろ?」
はあ、とため息を吐きだしたマティアナは、肩から下げた大きな鞄を手で探り始めた。
そして、イツキのもとまで歩み寄りながら、なにかを取り出す。
「はいこれ。あたしがこの対抗戦のために全身全霊を注いで完成させた一品よ」
手渡されたのは抜き身の短剣だった。
たしかな重厚さを手のひらに感じながら、イツキはその短剣の柄をきつく握り締めた。
「そいつは『疑似錬金剣』って言ってね。古代式で作れる最高難度の……って、そんなくだらない自慢はいいか。とにかく、そいつはあらゆる元素を収束できるし、あらゆる元素を断ち切ることもできるわ。だけど、その効力が機能するのは、ただ一度きりだから、そこだけは注意しなさい」
「……ありがとう。俺には一度きりでも十分助けになるはずだ」
さてと、と気怠そうにイツキからアガットを引き剥がし、それからマティアナはぼやいた。
「これで切り札はなくなった。工房の要であるルシアもいなけりゃ、肉壁役のあんたもいない。唯一、対抗戦で頼れるのは、アガットの肉弾戦闘力と精霊式だけになっちゃうかー」
「わ、私はまだルシアちゃんを助けに行くことを諦めていませんよ!」
「なによそれ? なら、あたしはミシュアとその取り巻きどもに、一人ボコられてろって? ふうん? なるほどなるほど? 所詮、あたしなんてアガットにとっては道端の子犬と一緒、憐れなまま見捨てられるのね……」
「そ、そうは言ってないです! あと、子犬なら助けますからね、私!」
ようやくいつもの調子が戻ってきたアガット。
マティアナは、そんな友人に覆い被さるようにして、そっと抱き締めた。
「はい、つかまえたー♪」
「はぐ、むぐ……マティアナ、離してください……苦しい、っていうか胸、肉の塊、むかつくんですけど……!」
もごもごと暴れ出したアガットを抑えつけながら、マティアナがメガネの奥の瞳を煌かせる。
行ってこい、と彼女は言外に告げていた。
「正直、あたしらだけだと対抗戦なんてさくっと負けると思うから、こっちが終わっちゃう前にルシア連れて帰ってきなさいよね~」
「むぐぐ、ルシアちゃんを……ちゃんと連れて来なかったら、許しませんから……!」
二人の言葉に頷きを返して、イツキは深呼吸と共に身を翻した。
その瞳には決意だけが浮かぶ。
たとえ、この身が八年前から歪んだものに変質していようと、かつて神童だと持て囃されたものでなくなっていたとしても。
そんなことは些細な問題でしかない。
――だって、俺がどんなに変わろうと、俺とルシアちゃんの繋がり――約束は変わらない。
それは、いつかの約束。
それは、新たに誓いなおした約束。
ルシア=サルタトールを護る。ただその約束を果たすために、折原一輝は駆け出した。