第六話 偽りの紅
「おいおい、本当に来やがったじゃねえか、『真なる赤』のお嬢ちゃん」
「あら? 誰が相手をしてくれるのかと思ったら、またあなたみたいな三下なのかしら?」
ルシアは不敵な笑みを浮かべて、学院の噴水広場に現れたピアスの男を、さらりと挑発した。
髪を逆立てた男は、忌々しそうに歯噛みしながら、舌打ちと共に包帯の巻かれた痛々しい腕を振るう。手際よく取り出した小型のナイフを紅髪の少女へと投げつけたのだ。
その一撃。体で受ければ、僅かな掠り傷でさえ致命的になることは、すでに知っている。
おなじ手が通用すると思われているとは、随分と見くびられているものだと、ルシアは嘆息した。
彼女は、ナイフが到達するよりも先に、陰陽術式にて用いる式符――地水火風を司り、四神を象った四色の折紙――を己を中心に四方へと解き放った。その四色の折紙は、少女を囲んで菱形になるよう等間隔に設置され、瞬間――ピアス男の切り札である呪術式ナイフが、飛来すると同時に見えぬ壁に弾かれていた。
この場に形成されたのは、簡易的な『四神相応の地』の疑似概念。
一つの都市を防護するほど強固な霊的結界が、ただ一人の少女を護るためだけに展開されたのである。
「……なんなんだよ、こんのクソガキがァ! ただ運よく手に入れただけの因子回路で粋がってんじゃねえぞォ!」
憤りを露わにしたピアスの男は、おそらく自身に使える限りの錬金術を構築し、次から次へと絶え間なく放っていた。
しかし、そのいずれも四神相応の地を破るには至らず、ルシアはただため息を吐き出した。
「……あなたごときじゃ遊びにもならないわね。これなら、ミシュアのほうがよっぽど強いし、楽しませてもくれるわ」
つまらなそうに呟いたルシアは、ゆっくりと手足を揺らめかせ、静かに言霊を紡ぎ始める。
それは、神道式錬金術を起動させるための、神への奉納としての舞いと祝詞だった。結界が破壊される心配がなければ、ルシアはなんの気兼ねもなく最高級の舞いを披露することができ、己が扱える最大火力を容赦なく放つことができる。
一分一秒でも時間が惜しい。
はやく、すべてを終わらせて、工房の仲間たちが待つ場所へと戻るのだ――
「そこまでだ、ヴェノン。もはやなんの役にも立たぬ君の出番はもうお終いだよ」
そのとき、重く圧し掛かるような低い声が、ルシアの耳朶を叩く。
白い仮面を被った『ウロボロス』の構成員だ。彼は、まるで鴉のように空中から降り立って、それからピアスの男にこの場を去るように指示を下した。
「……結局、オレなんざ囮で、手柄はテメェが全部持ってくってのかよ、オイ!」
「当然だ。私としても成果を上げる必要があってね。どちらにせよ君ではもう『真なる赤』を相手に勝機は見出せないのだろう? ああ、ちゃんと君の無能ぶりは上に黙っておいてやるから、はやく我々の仮工房に戻って、私とそこのお嬢さんの帰りを迎える準備をしていたまえ」
「……ざけやがって。クソ、野郎がっ!」
悪態を吐き捨てながら、ピアスの男は叩きつけるように、その姿を消した。
それを確認して、さて、と白仮面はその表情なき顔を結界の内側にいるルシアへと向ける。
「わざわざ単独で飛び出してきてくれて嬉しいよ、ルシア=サルタトール」
ルシアは、相対する白い仮面を切り裂かんばかりに、強く、きつく、鋭く睨みつける。
彼の来訪は最初から分かっていた。なぜならルシアは、昨夜学院の中庭で彼から直々に接触され、そして彼に招かれるようにして此処に立っているのだから。
彼の一方的な誘いに乗らねばならなかった理由は、ただ一つ。
「わたしたちの工房対抗戦の邪魔はさせない。そっちがわたしを狙ってるなら、わたし自身の手でケリをつけてやる……!」
「くく、そんなに神への冒涜……いや、折原一輝が大切だったのかい? 我々が工房対抗戦に乱入して君を襲撃していたならば、彼は間違いなく忌まわしき力を振るって抵抗しただろう。だが、そうなっていれば競技場に集まった観衆は彼を『許されざる存在』として、その認識を改めることになっただろうな」
「やめて!」
まるで悲鳴を上げるようにルシアは叫んでいた。
「そんなことは、させない……わたしのせいで、イツキくんを苦しめたくはないんだ……!」
「いやはや殊勝な心掛けだ。そして、この展開は私としても望んでいた最上の結果だからね。改めて君には『ありがとう』と感謝の言葉を送っておこう」
「いらないわよ、そんな言葉! わたしは、ここであなたを倒して――」
そのとき。
ルシアの言葉が止まった。
異常なまでの肌寒さが、彼女の体の奥底にまで浸透したからだ。
凍えるような、冷たさ。
「それは無理だろう。いくら『真なる赤』を継承したとはいえ、君はまだまだ未熟な子供でしかない」
「そん、な……」
四神相応の地は未だに破られてはいない。
だが、ルシアは神への奉納の手を止めて、だらりと全身の力を抜いていた。
「私を倒すなどと嘯いたならば、そんな結界に護られながら舞いなどせず、即興で撃てる錬金術を使って術式の応酬を繰り広げていればよかったんだ。そうしていれば、君が私に勝てる可能性だって、それこそ十分にあったはずだろうさ」
「世界が、凍りついて、いく……」
四神相応の地として形成された結界が、その外周から絶対零度の氷結に覆われる。
どれほどに強固な結界であっても、決して防げぬものがある。
それは空気だ。人が生きるために必要な元素として、唯一外界から遮断されることなくルシアのもとへと届いてくる。白仮面は、自らが錬金術で生み出した絶対零度の凍気を、空気に乗せて結界内へと送り込んだのである。
その凍気は、あらゆるものを封じるように、ルシアの因子回路さえも凍結させていく。
体の奥の奥、底の底、芯の芯から力が奪われていく感覚。
「所詮はこの程度というわけさ。君は『真なる赤』の因子回路を継承しただけの未熟者――言い換えるなら『偽りの紅』とでも言ったところかな」
「…………」
まだ戦う意思は残っている。
それなのに、もはや体に力が入らず、どうにもならない。
膝が折れて、そのまま凍てついた大地に崩れ落ちて、意識が黒く塗りつぶされていく。
――わたしは、こんなところで、負けたくない……イツキ、くん……。