第二話 継承
あれから一時間ほど時間が経過して。
いつの間にか工房内にはイツキとルシアが二人きりになっていた。
アガットは、今回の事件を教師たちに報告し、学習時間外に工房を使用する許可を得るため、一人で教員棟へと向かったのである。一方でマティアナは古代式錬金術の材料を切らしたため、とっくに門限を過ぎているにも関わらず、そんなのお構いなしと買い出しへ。ついでに工房で生活するために必要な用品や食料も買ってくるとのことだ。
当然、敵の狙いがルシアである以上、それらの用事にルシアが出向くわけにはいかない。
そこまではわかる。しかし、どちらの用件もイツキが請け負おうとしたのだが、彼女たちは揃いも揃ってそれを拒否したのである。
二人は言外に「おまえはここにいろ」と告げているようで、とてもそれに逆らえる雰囲気ではなかった。
「…………」
「…………」
一応、いまは可能な限り安静にということで、ルシアはふかふかの毛布を被ってソファに腰掛けている。外傷もなく容体は落ち着いてるとはいえ、まだ受けた精神的ダメージも癒えていないだろうし、彼女にはゆっくりしてもらうのが一番だ。
そこまではいい。
しかし、それならそれで、彼女の隣に腰掛けた少年は、とても邪魔なのではないかと思う。
アガットたちに「護衛役なんだからくっついていてください!」なんて言われて、なぜかルシアの肩にぴったり寄り添うカタチで同じくソファに身を沈めているわけだが、この完全密着した距離感がなんともむず痒い。
おまけに、この学院に来てからルシアと完全に二人っきりになるというのは、これが初めてのことだった。
それが、なぜだかわからないが、妙な緊張感を生み出していた。
お互いになにを話すべきか言葉も見つからず、ただただ気まずい沈黙だけが続いている。
けれど、そんなとき、そっと柔らかく、あたたかく小さな手が、イツキの武骨な手に重なった。
「あっ……」
思わず、ぴくり、と反応してしまうイツキ。
ルシアは気恥ずかしそうにはにかんで、小さく唇を動かして言葉を紡いだ。
「え、えっと、少しだけ、こうしていても、いいかな? いまは、わたし、またあいつらに――あの『ウロボロス』の連中に、なにもかも壊されそうで、こわくて……。だから、ごめんなさい……いまのイツキくんには、こんなの迷惑かもしれないし、わたしの身勝手かもしれないけど、護ってくれるんだ、って……それが、わたしの勘違いでもいいから、信じさせてほしい」
瞳を深く伏せながら、そうか細く言った少女の手は、とても冷たく、怯えるように震えていた。
こうなってはもう逃げられない。
逃げるなんてことは、きっともう許されない。
だから、イツキは深呼吸と共に意を決して、重ねられた手の指と指を絡めて、きちんと温もりを交わらせるように繋ぎ返した。
「俺も、もしかしたら、また護れないかもしれない……また裏切ってしまうかもしれないけど、どうかもう一度だけでいいから、ルシアちゃんのことを――」
いいや違う。
こんな言葉ではない。こんな甘えたものでいいはずがない。
まだこれでは逃げているし、本当に伝えたいことは――くすぶり続けていた本当の気持ちは、こんな情けない言い訳塗れの言葉ではないはずだ。
イツキは心の内で自らを叱咤して、それからぎゅっと少女の手を握る手に力を込めた。
もっと、もっと、どこまでも、自分の気持ちに素直になるべきだ。
「……俺が、ルシアちゃんを、今度こそ絶対に護ってやる。相手がウロボロスだろうが、他のなんだろうが、俺はもうこの手を離したりしない」
言い切った瞬間、肺が空気を求めて、ぜえぜえと喘いでいた。
呼吸を忘れてしまうほど、いまの一言を伝えることが、イツキにとっては大きな課題だったのだろう。
「……イツキ、くん……うん、わたしのこと、ちゃんと護ってね」
照れくさそうにはにかんだルシア。
その表情は、昔の幼かったころの彼女となに一つ変わらず、それが見れただけで嬉しかった。
「ああ、任せておけ。約束だ」
「……うん、約束!」
こうして、二人はかつてのように小指を交わらせ、いま一度の約束を交わすのだった。
そして、それに満足したようにルシアは一つ頷いて、やがていつもの力強い瞳を取り戻しながらイツキを真っ直ぐに見つめてくる。
そこには昔の彼女にはなかった確かな強さが宿されている。
「わたしも、もう護られるだけじゃなくて、イツキくんと一緒に歩けるように頑張るから! だって、わたしはあの日から――すべてを失ったあのときから、こうしてイツキくんと肩を並べるために、ずっと強さを求めてきたんだから!」
「ルシアちゃん……」
彼女のなかには、離れ離れだった八年間も、常に折原一輝という存在があった。
彼女は、一人で生きるために強くなろうとしたのではなく、こうしてイツキと手を繋ぐため――手を繋げるだけの存在になるために、たしかな力を求めて生きてきたのだ。
その想いを知ったことで、なにもかも忘れ、逃げようとしていた自分が、より一層情けない男だと感じてしまうイツキだった。
でも、だからこそ、ここからもう一度、ルシアを護れる男になろうと、胸に刻んで誓う。
今回の一件で、自分の気持ちが再認識できたおかげで、一輝もようやく覚悟が決まったのだ。
いまでも、ルシアを護るためならすべてを投げ捨てられる自分が、まだ残っていたのだから。
「ありがとう。ルシアちゃんはもう十分過ぎるくらい強いよ。正直、昔とは比べ物にならないくらいだ」
「ううん、違うの」
ルシアは、ふるふると紅の髪を揺らしながら、首を横に振った。
「わたしの強さは……いまこの手にある力は、あくまで借り物だから……」
「借り物? それは、つまりどういう……?」
言葉の意味がよくわからず首を傾げると、ルシアは縋るように繋げた手を握ってきた。
「八年前、あのテロでなにもかもを失った日、わたしは一人の錬金術師に拾われたの。それが、当世代の偉大なる錬金術師・ルシウス=クライアス。あらゆる錬金術を統べる因子回路『真なる赤』を自らの肉体に再現した英雄にして、わたしに知識と技術を与えてくれた、たった一人のお師匠様……」
「……ルシウス=クライアス。前にアリスから話だけは聞いたことがある。でも、その偉大なる錬金術師は、ここ数年間でその姿を表舞台には現さなくなって、事実上の行方不明だって聞いたような……」
曖昧な記憶を頼りに呟くと、そのとおり、とルシアは首肯した。
「彼は、もとよりその身を病魔に侵されていて、それは現代の錬金術では治せないものだった。偉大なる錬金術師と謳われたルシウスでさえね。だけど、ルシウスは自らの因子回路を残したまま死んでしまえば、『真なる赤』を宿した遺体を悪用する錬金術師が、必ず現れると悟っていた」
そこまで聞いて、イツキはその後なにがあったのか、なんとなく察しがついた。
「そうか、悪用されないためには、自分の遺体を無価値にしてしまえばいい……その手段として継承の儀……因子回路の移植によって、『真なる赤』を自分の弟子に……つまり、ルシアちゃんに託したんだな……?」
「うん。ルシウス師匠はわたしに因子回路を移し、自分の遺体から『真なる赤』を消去した。本来、『真なる赤』なんていうレベルが違い過ぎる因子回路を継承しようとしても、普通の錬金術師だったら到底耐えられない。自らの因子回路が、体に入り込んできた『真なる赤』に焼き切られて、錬金術師としての生命が絶たれるだけ。いいえ、下手をすれば人間としての人生だって、そこで終わるかもしれない」
「だけど、ルシアちゃんの因子回路は、なにも持たない『無色』……その空っぽな器であれば、どれだけ大きな容量でも受け入れられると、そうルシウス=クライアスは考えた……?」
こくん、とルシアは頷いた。
「まあ、三日三晩熱にうなされて寝込みはしたけど、なんとか『真なる赤』は継承できたわ。たぶんルシウス師匠は、最初からそうするつもりでわたしを引き取って、そのときのために感覚的な技術と、溢れんばかりの知識を、教えてくれたんだと思う」
ルシアは、ルシウスの行動そのものには感謝をしながら、けれど自嘲するように笑った。
「この力を手に入れてからは世界が変わったわ。わたしをバカにするヤツがまるでいなくなったし、むしろわたしに取り入ろうとする連中も増えたりもした。わたしも、この力に恥じないようにしなきゃって必死だったから、いつしか強がって生きるようになっていたしね……」
でも、と呟いたルシアの表情には、いつかの面影が感じられた。
「本当は、とてつもない力を手に入れて強くなっても、わたしは弱いままなんだよ? いやなことはいやだし、こわいことはこわいし、むかつくことはむかつく……。だから、その……イツキくんの前では、昔みたいな弱いわたしを見せちゃうかもしれないけど……」
ルシアは、たしかな強さを秘めた瞳で、しっかりとイツキと視線を交わした。
「いつか、ちゃんと自分で誇れるくらい、わたしは強くなってみせるから!」
「……うん。それは、なんだかすごく、頼もしいよ。おっかなくらいに」
正直、もうとっくに追い抜かれている気しかしないイツキは、苦笑してしまう。
それから、少年は繋いでいないほうの手を持ち上げて、その身に宿った忌々しい力と向き合うと覚悟を決めた。
ルシアが、偉大な錬金術師から継承した身に余る力と向き合っているなら、当然のことだ。
「イツキくん、どうかした……?」
「いや、俺も八年前のあの日からなにがあったか、ちゃんと話さないとなって」
だが、いざ己の身になにがあったか告げようとすると、どうにも体が震えてしまう。
イツキの身に起きた出来事と、忌まわしき実験の数々、ヒトとしての尊厳もなく蹂躙され、弄り倒された体、それによる変化と変質――そんなおぞましい話なのだ。
それを聞いたところで、ルシアならきっと受け入れてくれる。
そう信じてはいるはずなのに、拒絶されるのではないかと、怯えてしまう自分がいる。
己の過去がこわくて、おそろしくて、たまらなかった。
「無理はしなくてもいいよ」
とすん、とルシアはその身を預けるように、イツキの肩に寄り掛かってきた。
彼女の存在がこれでもかと感じられる。
「ちゃんと聞いてるから、ゆっくりでも大丈夫だし、いまじゃなくたって構わない」
「ありがとう。そう言ってくれると、これ以上ないくらい救われる」
全身で感じるルシアのあたたかさが、少しだけイツキに勇気をくれた気がする。
だから、これ以上彼女の優しさに甘えるわけにはいかない。
これまで八年も苦しませてきたのだから、この一時の苦痛くらいで情けないことは言っていられない。
それだけで、十分だった。
「でも、ちゃんと話しておくよ、ルシアちゃんにだけは、ぜんぶ――――」




