第七話 冒涜
イツキの体はひどく震えていた。
それは、恐怖からか、怯えからか、怒りからか――自分にさえわからないものだった。
だが一つだけ理解していることがある。
ルシアを傷つけた相手を眼前にして逃げ出せるほど、折原一輝という人間は利口で物分かりのいい人間ではなかったことだ。
「て、めえ……せっかく人払いしてやったのに、わざわざ入り込みやがって……!」
イツキの体当たりで突き飛ばされていた男が憎々しげに呻いた。
身体中に致命傷レベルの傷を負っているところに、少年の全体重を乗せた体当たりを受けて、そのまま二度三度のバウンドしながらアスファルトを転がったのだ。たとえ痛覚を遮断していようと立ち上がれるほどの力は残されていないだろう。
「ルシアちゃんに手を出したんだ。どうなったって構わないってことだよな、オマエ」
イツキはゆっくりと右手を掲げた。
そこに集うのは、第五元素でもなければ、物質を構築する四元素でもない。
赤く、紅く、朱く――どこまでも鮮やかで、まるで宝石のように煌いた、生命の奔流――
「そこまでだ。忠告を忘れたか? 被験体ナンバー666――神を冒涜せし異端者め」
闇夜から白い仮面が飛び出してきた。
彼はイツキの掲げた右腕を抑えつけてきたが、それに対して少年はただ力任せに振り払う。
「オマエたちがなにしようと俺の知ったことじゃない! オマエらを取り締まるのはあくまで術式管理局の仕事なんだから、俺には関係ない!」
だけど、とイツキは明確な敵意と殺意を秘めた双眸で、白い仮面のその奥を睨みつけた。
「ルシアちゃんを傷つけるなら話は別だ。彼女を苦しめるなら、俺はこの手を血に染めてでも、アンタらみたいなゴミを一人残らず掃除してやるよ。どうせ自分たちが生み出したバケモノに殺されるんだから文句はないだろ、なあ?」
「……いまはこちらも退く。ゆえに貴様もその怒りの矛を抑えてくれないか?」
断る、とイツキは言外に告げて、もう一度右手に力を込める。
しかし、
「ちょっと、離せっての、このヘンタイ!」
突然、背後から響いた声。
マティアナが『ウロボロス』の構成員に拘束され暴れていた。
「くっそ、やめろって! ……ごめん、しくじった……」
「っ……」
悔しそうにメガネを曇らせた少女。
その姿に、さすがのイツキも怒りがぶれて、右手に込めていた力がわずかに緩んでしまう。
「彼女を解放する代わりに一度退いてはくれないか? もちろん、そちらで倒れている少女も一緒に連れて帰ってくれて構わない」
「なに、言ってやがんだ、このクソが! せっかく、オレが無力化してやったってのに!」
地面を転がっていたピアスの男が吠えた。
だが白仮面は冷たい声を彼に返すだけだった。
「ヴェノン。これは君の失態でしかないだろう? まだなにも命じていないのに勝手に行動を始めて、その結果がこのザマというわけだ」
「っざけんなよ、テメェ! このオレが新参者だからってバカにしやがって! だいたいいまテメェが本気でやればすべてが上手くいくはずだろう! なにせ『真なる赤』はこのオレ様が無力化してやったんだからよォ!」
いいや、と白仮面は狂犬のように吠える男の言葉を冷たく否定した。
「逆だよ。未熟な『真なる赤』なら私の錬金術でも対処可能だ。だが、我々が生み出した神への冒涜は、とてもじゃないが手に負えなくてね。――ああ、そうか、すまない。新顔の君はあの異端者が異端たる所以を知らないのだったね」
「……チッ、ふざけやがって、このクソどもが!」
白仮面に戦うつもりは微塵もなかった。
その意思を告げられたピアス男は、この状況を覆せぬことを悟って、アスファルトを殴った。
「さて、そういうことだが、よろしいかな?」
「……次はない」
イツキはただそれだけ口にした。
ほどなくてマティアナの身柄は解放されて、白仮面はピアス男を抱えながら闇に消えていく。他の『ウロボロス』構成員たちもその後に続いて立ち去っていた。
無人の街がひたすらな静寂に包まれる。
ルシアたちを襲った脅威がひとまず過ぎたことに安堵の息を吐き出して、それからイツキとマティアナは気絶した友人を優しく抱きかかえる。
「……ルシアのこと、護れるじゃない、あんた」
「……いや、護れたなんて言わないよ、これじゃ」
それだけ短く言葉を交わして、それからイツキとマティアナは、頷き合った。
まずは学院に帰還せなばなるまい。
そして、これからのこと――イツキやルシアの知らぬ間に動き出していることへの対策――も考えていく必要ありそうだ。