第五話 白狐
その日の夜。
男子寮の自室で、部屋の明かりも消して、イツキはベッドに寝転がっていた。
もやもやする気分が晴れないので、さっさと寝てしまおうとしているわけだが、それなのに全然眠れなくて困っているところである。それどころか、目を瞑って無心になろうとするほど、かつての幼馴染の可憐な顔立ちと美しい紅髪が脳裏に蘇ってくる始末だ。
姉との再会、幼馴染との再会、『ウロボロス』の襲撃。
魔女の森を追い出され、アルヴァート学院に迷い込んで、そうしてまだ二日目だというのに、どれだけイツキの心を揺さぶる出来事が起こるのだろうか。正直、こんなことなら魔女の森に意地でも引きこもっていたほうが良かったのではないか? そうすれば、少なくとも晴れないもやもやな気分に苛まれることもなかったはずだ。
金髪碧眼の魔女・アリス――彼女は本当になにを考えてイツキを追い出したというのか。
そうして眠れぬ夜にごろごろと転がり続けているときだった。ぼうっと淡い光がふと視界に飛び込んできたのだ。
「あれ、は……?」
ベランダに霊子体を発光させる白い子狐がいた。
何度か目にしたアガットの契約精霊だった。
子狐はイツキに気付かれたことを察知すると、ひょいっと背を向けてベランダの柵に飛び乗った。すると『ついてこい』とでも言うように、もう一度こちらを振り返ってから、たんっと小さな足で柵を蹴りつけ、飛び降りてしまった。
今日はもう誰かと関わりたい気分ではなかったが、どちらにせよ寝付けないのも事実だった。
イツキは薄手の上着に袖を通して、億劫な足取りながら外へと向かった。律義に玄関先で待ち構えていた子狐に誘われるがまま追い掛けていく。やがて辿り着いたのはアルヴァート学院の噴水広場だった。
子狐はベンチに座った主のもとに駆け寄って、いつもの定位置である肩に飛び乗った。
「おかえり、ハク。……よかった、来てくれたんですね、オリハラくん」
「まあ、その、俺が動かないと、その精霊――ハク? にいつまでも付き纏われそうだったし、それに俺も全然寝れそうになかったからさ……」
相変わらずルシアの工房の外ではフードを被っているアガット。
彼女が、どうぞ、とベンチの半分を空けてくれたので、イツキはおずおずと腰を下ろした。
「オリハラくんは、ルシアちゃんのこと、嫌いですか?」
「え? いやいや、嫌いなんてそんなことは……昔と違って、ちょっとおっかないけど……」
イツキの答えに満足げに頷いたアガットは、それからさらに次の問いを投げてくる。
「じゃあ、ルシアちゃんのこと、好きですか?」
突然の質問に思わず硬直してしまうイツキだったが、すぐに深い意味はなく「友達」としてルシアを好きかどうかだと気付いて、深呼吸をする。
一度乱れた気持ちを落ち着けてから、改めてイツキは「もちろん」と頷いた。
「えへへ、私もルシアちゃんのこと、大好きなんです」
はにかみながらアガットはそう言った。
そして彼女は静かに瞼を下ろして、なにかを思い出すように、ゆっくりと語り出した。
「私、こう見えて昔は荒れてたんです。かつて錬金術の理論を基に行われた非道な人体実験。まさに錬金術の闇の証明とも言える亜人種。その末裔のケモノ憑き、って誰もが私を蔑んでいて、だったら望み通りに醜いケモノになってやろうって……」
「いまのアガットさんは、そんなふうには見えないけどな、基本的に大人しそうだし」
でしょう? と照れくさそうに微笑みながら、アガットはそっとフードを脱ぎながら続ける。
「だけど本当なんです。このケモノの耳だったり尻尾だったりをおかしな目で見られただけで、私はその相手に襲い掛かって一方的に牙で噛んだり爪で切り裂いたり……それはもう自分でもヤバい奴だって思うくらい、ひどかったんです。……まあ、そのときの癖が完全に抜けてなくて、だから普段はなるべくフードを被って気を紛らわせてるんですけど」
「…………」
イツキは内心冷汗を流しながらアガットのケモノ耳から目を逸らした。
そんな少年の様子に「あはは」と白い少女は柔らかに笑う。
「オリハラくんは大丈夫ですよ。初めて会ったときから、珍しいな、くらいにしか思ってないでしょう? 私はずっと他人を気にして生きてきたので、ちょっとそういう他人の空気とか、その変化とかを読むのは得意なんです。もしも『うわ、ケモノ憑きだ、きも』とか思ってたら、とっくに張り倒していますので、ご安心ください♪」
「……はは、自分が偏見を持たない性格だったことを、これほど感謝したことはないよ」
いまとなっては、なんだか隣に座る小柄な少女が、妙なくらい恐ろしく思えてきた。
それで、と彼女はにっこりした笑顔をイツキに向けながら、話を本題へと戻していく。
「荒れていた私に手を差し伸べてくれたのがルシアちゃんです。ルシアちゃんは私に向かって『くだらないことしてるわね』なんて言いやがったんですよ? だからバカにしているんだと思っていつものように襲い掛かったけど……あはは、まあ、そりゃあもう返り討ちなわけです。もう戦うだけの体力も残ってない私をルシアちゃんは抱き締めてくれた。そうして『あなたが他人の目なんか気にする必要はない』って、そう言ってくれたんです。ルシアちゃんは私を卑しいケモノ憑きなんかじゃなく、一人の人間……アガット=シャルロンとして見てくれた。ただそれだけですけど、そんなふうに接してくれたのはルシアちゃんが初めてで、この耳も尻尾もかわいいって素直に褒めてくれて……そんな些細なことだけど、私はとっても救われたんです、本当に……」
昔の泣き虫なルシアしかまともに知らないイツキからすれば、彼女が自ら荒んだ相手に手を差し伸べるなんて意外なことだった。昔のルシアであれば、間違いなく絶対に近寄らないし、なるべく関わらないようにしようとしていたはずだ。
そう思うと同時に、いまのルシアなら荒れた相手にも手を伸ばすだろう、とも感じていた。
「今度は私がルシアちゃんの力になりたい。そう思ってこの学院に入ってから一年間はずっとルシアちゃんの傍で過ごしてきました。だから、よくわかるんです……昨日、オリハラくんが転入してきてからルシアちゃんの様子がいつもと違うことが。そわそわしたり、すぐ怒ったり、なにか迷ってたり、悩んでいたり……一言で言うなら、落ち着きがないっていうか……その、きっと昔のオリハラくんを待ってるんだと思います」
「……そう、だな。うん、それはなんとなく、俺だってわかってるんだ……」
けれど、もう変わってしまった以上は、昔のイツキに戻ることはできない。
その考えが変わることはなく、そして変えられない自分が、とても腹立たしかった。
「オリハラくんにもなにか事情があるのはわかっています。八年、でしたよね? それだけの年月が過ぎれば、そう簡単に昔と同じとはいかないことだってあると思います」
アガットはベンチを立ち上がって、それからイツキのほうを振り返った。
「でも、これはお節介かもしれないけど、ルシアちゃんとオリハラくんには仲良くしてほしい。きっとルシアちゃんは昔に戻りたいんじゃなくて、ただ昔と同じような関係になりたいだけで、その、だから、うぐぐ……」
ああもう! とアガットはうまく言葉が出てこないもどかしさに憤って、月光に照らされた綺麗な白髪をくしゃくしゃっと掻き乱した。
それから、少女はとにかく紡げる言葉を紡ごうと、ただひたすら小さな唇を震わせた。
「なんて言ったらいいかわからないけど、たとえ昔とは違っていてもいいから……ええっと、カッコいいオリハラくんでいてくださいってことです! たぶん、なんか違う気もするけど、ルシアちゃんはそれを望んでいるんです、きっと!」
「……ありがとう、アガットさん」
なんとか強引に言葉を絞り出したアガットに感謝を告げる。
彼女の気持ちはよく伝わった。彼女は心の底からルシアのことを案じてくれている。それをこれ以上とないくらい思い知らされてしまって、かつての幼馴染としては少し嫉妬してしまいそうなほどだった。
彼女の望むように、かっこいい折原一輝をルシアに見せられるかは、まだわからない。
けれど、いまはただルシアのことをよく理解し、寄り添ってくれる友達がいるということが、まるで自分のことのように嬉しいことだけは間違いなかった。
だから改めて理解してしまった。
「……やっぱり俺、ルシアちゃんのこと、好きなんだと思う」
「へ? ええっ!? なんでそういう話になるんですか! ルシアちゃんが欲しいのであれば、まずはこの私という恋敵を越えて行ってください! 絶対に通しませんから! ここから先はこの私が命を賭して――」
そのとき、なにやら軽快なメロディが、ピロロンと噴水広場に響き渡った。
通行止めをするように両手を広げて騒いでいたアガットが、煩わしそうに言葉を一旦止めて、「ちょっとごめんなさい」と懐からなにかを取り出した。一定間隔で明滅する紙片――陰陽式錬金術で用いられる通信用の式符であった。
ちなみに補足しておくと、あくまでイツキは『友達』としてルシアが好きだと、そう言っただけであって他意はない。
「はいはい、なんですかマティ、こんな時間に通信なん――」
『アガット、いますぐ救援きて! ちょっとまずいって、ルシアが……あいつら、あの紋章、たぶん「ウロボロス」とかいう連中の仲間よ、あれっ!? ああくそ! なんでこんなときに、あたしはなんも道具持ってきてないのよ、ばか……っ!』
「え? え、いやあの、マティ? ちょっと、なにが起こってるんですか!?」
式符から漏れ聞こえたマティアナの切迫した声。
イツキにもそれはしっかりと届いていた。ルシアがなにか危険に巻き込まれていることと、その場に『ウロボロス』の紋章を掲げた連中がいることもハッキリと。
くそっ! と舌打ちして、イツキはベンチを押し倒す勢いで、その場から立ち上がった。
「マティ、とりあえず一旦落ちつ――ちょ、オリハラくん!?」
「マティアナ! いますぐそっちに向かうから、この通信は繋いだまま詳しい状況報告を! とありえず、そっちの居場所を教えるのが最優先だ、はやくしろ!」